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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

二 五段高原と大野ヶ原


 自然景観

 西は東宇和郡野村町から東は高知県高岡郡仁淀村の鳥形山に至る予土境域の山地は、広く石灰岩におおわれ、四国カルストといわれている。この山地は標高一〇〇〇mから一四〇〇m程度の高原状を呈し、地形的には隆起準平原といわれている。その隆起準平原の平坦面には、石灰岩の溶食によって形成された各種の地形が展開され、山口県の秋吉台、福岡県の平尾台と並ぶわが国の三大カルスト地形の一つと折紙をつけられている。景勝に恵まれたこの地は、愛媛県側は昭和三九年に、高知県側は昭和三六年に、それぞれ県立自然公園に指定された。
 愛媛県側の四国カルストは、西から大野ケ原・姫草・牛が城・地芳峠・姫鶴平・五段城・天狗高原とえんえん一七㎞にわたって連なる。四国カルストの西方の中心地は大野ケ原であり、ここには東西八㎞、南北二㎞にわたって石灰岩が分布する。南の源氏ヶ駄場は標高一三〇〇mから一四〇〇mにわたる隆起準平原であり、溶食から取り残された石灰岩が、草原の中に点在するカレンフェルドの地形が美事である。麓の小松・寺山の開拓集落をのせる平坦面も隆起準平原であり、標高は一一〇〇mから一二〇〇mに達する。ここには小松・笹ケ嶺・寺山・姫草の四つのポリエがあり、その間に八〇にも及ぶ大小のドリーネ・ウバーレが点在する。ドリーネは石灰岩の溶食によって形成された凹地であり、ドリーネが合併して形成されたひょうたん型の凹地をウバーレ、さらにそれらが集まって形成された大きな凹地をポリエという。龍神を祀る小松池はウバーレに湛水したものであるが、降水にかかわりなく水量の変化がないという。大野ケ原は昭和二五年以降開拓集落が形成され、昭和四八年からは国営の草地開発事業が行なわれ、育成牧場となったので、天然林はほとんど姿を消し、一面の牧草地となっている。天然のぶな林は北部の小田深山との境界付近に一部残存しているのみである。
 四国カルストの東の中心地は五段高原である。西方の姫鶴平から東方の五段城にかけては、標高一三〇〇mから一四五〇mにわたる隆起準平原の平坦面が広がり、ここを五段高原と総称する。この平坦面にもカレンフェルドの地形が美事であり、その間にドリーネやウバーレも点在する。従前から山麓住民の採草地であったが、大野ヶ原同様、昭和四八年から国営の草地開発事業が行なわれ、育成牧場になっている(写真7-24)。


 観光開発と観光客の動向

 大野ヶ原は天正二年(一五七四)久万の豪族大野氏が長曽我部元親の伊予侵攻をくいとめた激戦の地であり、明治四一年(一九〇八)から四三年(一九一〇)の間には陸軍の演習場となり、砲車道も通じていたことなどによって、広く世に知られていた。これに対して、五段高原は昭和三一年愛媛大学の洞穴探検グループの調査によって、初めて注目されるようになった新しい景勝地である。
 大野ケ原・五段高原ともに登山客・観光客が増加しだしたのは、第二次世界大戦後である。大野ヶ原は夏のキャンプ場、冬のスキー場として注目を浴びた時期があったが、キャンプ場としてにぎわいだしたのは、昭和三〇年ころからである。キャンプの施設は大野ヶ原の小・中学校を利用することが多く、昭和四六年惣川小学校の廃校を利用した惣川少年自然の家が開設されて以降は、その一環として利用される場合が多い。スキー場としてにぎわったのは、昭和三八年から四五年くらいであるが、これまた美川・小田深山にスキー場が開設され、その施設が整備されるにつれて衰退していった。
 大野ケ原への探勝ルートは、柳谷村の古味からの登山道を通じるもの、野村町の惣川からの自動車道を通じるものがあったが、昭和四八年国営草地開発事業の一環として、地芳峠からや自動車道が通じるようになったので、松山方面からの観光客は、柳谷村の落出を経由して自家用車で訪れるものが多くなった。一方、惣川からのバス路線は昭和五五年から廃止になったので、この方面からも自家用車を利用して訪れる以外に方法はなくなった。昭和五八年現在の宿泊施設としては、昭和四七年開設された野村町営の大野ヶ原公民研修センターと、民宿が一軒ある。
 五段高原の観光開発は大野ヶ原よりなお新しい。柳谷村の落出と、高知県の檮原町を結ぶ県道「檮原落出線が地芳峠(一〇八四m)に開通したのは昭和三九年であり、峠に宿泊施設として檮原町営の地芳荘(四七年より民間に経営依託)が開設されたのは同四一年であった。地芳峠から五段城を経由して天狗高原に至る自動車は、同四八年に始まる国営草地開発事業の一環として建設され、同五四年に完成した。宿泊施設としては、姫鶴平に昭和四四年柳谷村営の姫鶴荘が、地域振興の起債によって建設され、それに接して、同五三年、第二次林業改善事業の一環として林業研修センターが開設された。姫鶴平の観光施設としては、同五六年にトリムコースとバンガロー一〇棟が建設されたが、これは新林業構造改善実験事業の一環として建設されたものである。なお天狗高原には、高知県東津野村の経営する国民宿舎天狗荘が同四四年に開設されていた。五段高原一帯の観光開発は、昭和四〇年代以降、関係市町村が外部資金を導入して、町村主導のもとに推進しているところに特色をもっている。
 大野ケ原・五段高原への観光客は、夏季と春秋に訪れる者が多い。春の五月には山菜とりなどを兼ねた日帰り客が多いのに対して、夏には子供の夏休みを利用して泊まりがけで訪れるものが多い(表7-37)。大野ケ原・五段高原ともに定期バスは入らないので、観光客の大部分は自家用車で訪れるが、五段高原には、七月二〇日から一〇月半ばの休日に、松山から国鉄の夏季臨時バスが一往復通っている。七月下旬から八月末の小学校・中学校・高等学校の夏休み中には土曜日にもバスが運行されている。観光客の発地は大野ケ原・五段高原とも松山市が最も多く、次いで南予・東予などである。大野ヶ原は地理的位置の関係からして、宇和島市・大洲方面からの探訪者も多い。

表7-37 柳谷村姫鶴荘の利用者数(昭和56年)

表7-37 柳谷村姫鶴荘の利用者数(昭和56年)