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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

一 石鎚山と面河渓


 自然景観

 標高一九八二mの石鎚山は西日本の最高峰である。山は高く、谷は深く、石鎚山とその麓をうがつ面河渓は関西随一と評価される山岳と溪谷の美を誇る。面河渓が国の名勝に指定されたのは昭和八年であり、石鎚山を含んだ山岳地帯が石鎚国定公園に指定されたのは昭和三〇年である。
 石鎚山は、富士山・加賀の白山などと共に古来名山として知られてきた。石鎚山が名山たるゆえんは、その宗教的雰囲気がかもし出す、高峻にして威厳に満ちた山容に由来するものである。石鎚山系の地質は、三波川系の変成岩の上を久万層群の砂岩・頁岩・礫岩がおおい、さらにそれを貫いて新第三紀石鎚層群の輝石安山岩がおおっている。石鎚山を中心とした高峻な地形は、硬岩の安山岩が侵食からとり残されて形成されたものであり、暗褐色に輝く岩峰は四周の山地を圧してそびえている。石鎚の景観は北方の瀬戸内海側から望むと一段と峻険さを増す。それは、石鎚山脈北側の急斜面が中央構造線に沿う大断層崖であることによる。平野から二〇〇〇mになんなんとする断層崖をともなう急斜面のそそりたつ様は、わが国の断層地形の白眉であるといわれている(写真7-22)。
 石鎚山の自然景観は、またその植物相や生息動物にもすぐれている。植生は垂直的分布状態が美事であり、暖帯林から亜寒帯林まで変化する。面河溪谷側では、標高一〇〇〇mまでが暖帯林であり、常緑広葉樹林にもみ・つがなどを混じえている。その上は温帯林に移行し、広葉樹は常緑樹からぶな・ひめしゃらなどの落葉樹へと変わっていく。標高一六〇〇mから上は一面いしづちざさが繁茂しているが、その中にしこくしらべ・しこくうらじろもみ・しこくだけかんばなどの亜寒帯林の群落も見られる。また岩陰には、みやまだいこんそう・いわかがみなどの高山植物も可憐な花を咲かせる。生息動物も、北方系から南方系まで変化に富んでいる。そのなかでも特別天然記念物のかもしかやさんしょううおなどは特に貴重な動物である。
 面河溪は石鎚山の南斜面に源を発する溪谷で、滝と淵・早瀬の連続する険しいV字谷の景観と、天然林のおおう植物景観にすぐれている。地質は三波川系の変成岩の基盤岩の上を、花崗岩・安山岩などがおおう。溪谷沿いは自然保護に特に留意する国有林の第一種林地で、天然林がよく保存されている。標高一〇〇〇m以下は暖帯林のおおうところであり、うらじろがし・かえでなどの広葉樹に、もみ・つがなどの針葉樹が混じっている。
 溪谷沿いの主な景勝地は、下流から関門・五色河原・亀腹・紅葉河原・下熊淵・御来光滝などである。関門は溪谷入口の景勝地で、輝石安山岩の板状節理が面河川に侵食されて形成された峡谷である。五色河原は白色の花崗岩に、藍色の水、黒色の苔類、緑色の樹木などが映え、色彩豊かな溪谷美を誇る。亀腹は亀の腹に似た、高さ一〇〇m、幅二〇〇mの花崗岩の大断崖であり、紅葉河原は幅広い花崗岩の河床の両岸にかえでが多く、溪谷随一の紅葉美をみせる。下熊淵は灰黒色の硬岩が侵食に抗して瀑布をつくり、その下に形成された深さ一〇mの溪谷一の深淵である。御来光滝は関門から八㎞、標高一二〇〇mの安山岩の柱状節理にかかる高さ六四mの滝であり、面河溪の秘境である(写真7-23)。


 石鎚登山と面河溪の探勝

 石鎚山は日本七霊山の一つであり、信仰の山として開けた。弘仁年間(八一〇~八二四)に成立した「日本霊異記」には、「其の山高くさか(山へんに卒)しくして凡夫は登り到ることを得ず、但浄行の人のみ登り到りて居住す」と、石鎚山がすでに修験道場として開かれていたことを誌している。石鎚山への一般民衆の登拝の風習が高まったのは、江戸中期以降であり、各地に石鎚講が組織され、先達に連れられた信者が登頂するようになった。特に七月一日から一〇日までのお山市の期間には、山頂は信者で埋めつくされるほどのにぎわいであった。信仰の山として開けた石鎚は女人禁制の山であり、第二次世界大戦前にはお山市の間は女人の登拝は許されなかった。その後、女人禁制の期間は、五日間、二日間と短縮されていき、昭和五七年以降は七月一日のみとなった。
 石鎚山への登山道は、藩川時代には西条藩領の氷見から河口・成就社を経由して登るのが表参道であった。この道路ぞいには、河口の上手に今宮・黒川の集落に季節宿があり、お山市の時には大いににぎわった。松山方面からの登山口は川上(現川内町)であり、ここから割石峠・梅ケ市・堂ケ森を経由して石鎚山に登頂した。現在裏参道として利用者の多い面河溪からの登頂ルートが開かれたのは、明治末年以降である。これらのルートを伝って一般の登山者が石鎚に登頂するようになったのは、大正初期からであり、特に登山数が増加したのは第二次世界大戦以降である。
 現在の石鎚山の登山ルートは河口の上手、西之川下谷からロープウェーで標高一四五〇mの成就社まで登り、そこから登頂するものと、石鎚スカイラインにて面河から標高一四九二mの土小屋までバスで登り、そこから縦走路を通って登頂するものがある。昭和四三年八月に開通したロープウェーと、昭和四五年九月に開通した石鎚スカイラインは、石鎚登山の形態をすっかり変えてしまい、現在、麓から徒歩で山頂まできわめるのは一部の山の愛好者にすぎない。徒歩道としては面河溪から通ずる面河道が最もよく利用されている。
 石鎚山が奈良・平安時代以来信仰の山として開けたのに対して、面河溪が世に知られるようになったのは、明治末年以降である。面河溪のすばらしさを初めて世に紹介したのは、渋草小学校教師の石丸富太郎であった。彼は面河溪のすばらしさを海南新聞に投稿するかたわら、明治四二年(一九〇九)海南新聞の編集長をはじめ、松山地方の文人・画家・登山家など九人を面河溪に招き、その宣伝につとめた。面河溪への探勝者が増加してきたのは大正末年以降である。


 観光開発と観光客の動向

 石鎚山・面河溪への観光客が急増したのは、昭和四三年石鎚山へのロープウェーが開通したこと、次いで四五年に石鎚スカイラインが開通して以降である・宿泊施設としては、従前、石鎚山周辺には、成就社付近に数軒の旅館があり、ほかに山頂小屋・二の鎖小屋・土小屋などがあった。面河溪には亀腹に昭和六年亀腹旅館(現伊予鉄経営の溪泉亭)が、関門に昭和二五年紅緑館が建設(昭和三六年以降関門ホテルとして再建)されていた。新たな旅館の建設はロープウェーの基点西ノ川下谷、石鎚スカイラインの終点土小屋、面河溪などになされた。
 西之川下谷にはロープウェー開通以前、泉屋旅館が一軒のみ存在したが、旅館・売店・駐車場を含めて十数軒の建物が建設され、新集落が形成された。土小屋にはスカイラインの開通を契機に国民宿舎石鎚と岩黒山荘・白石小屋が建設された。面河溪には昭和四一年国民宿舎面河が、同四八年には別館の面河山荘が建設された。また関門には昭和四五年関門ユースホステルが建設され、翌四六年には面河村観光センター(売店と食堂)も開設された。さらに若山には、廃校となった小学校の校舎を転用して、昭和四六年面河少年自然の家が開設された。また面河溪への沿線の県道ぞいには民宿も二軒建設されている。これらの観光施設の建設は、村または地元住民の投資によって建設され、村営または地元住民によって経営(溪泉亭は除く)されているところに特色をもつ。また、これら観光施設の開発が地元住民に雇用の場を提供している点に過疎に悩む村にとって大きな意義があるといえる。
 石鎚山・面河溪への観光客数は面河村の推定やロープウェーの乗客数によると、石鎚山が三四万、面河溪が三九万と推定されており、県下屈指の観光客の入り込み地である。石鎚山はスカイラインで訪れるものは、七・八月の夏季に多く、ロープウェーで訪れるものは、七・八月と一・ニ月に多い。面河溪は五月の新緑、七・八月の盛夏、一一月の紅葉の時期に訪れる者が多い(表7-36)。
 面河溪を訪れる観光客の発地を地区別にみると、全体の六〇%程度は県内であり、ほか四国管内・中国地方・近畿地方などが多い。石鎚についてもほぼ同じ傾向であると推定されている。石鎚・面河溪は、県内では道後温泉・松山城などと共に著名な観光地であるので、県外からの探勝者の比率がかなり高く、全国的なレベルの観光地であるといえる。

表7-36 石鎚山・面河渓の観光客数

表7-36 石鎚山・面河渓の観光客数