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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

二 落出の集落形成

 位置・自然環境

 柳谷村の落出は松山から五五㎞、高知市から六八㎞、佐川から五〇㎞の位置にあり、仁淀川の右岸の山の迫った、狭い河岸に狭長に発達した一〇〇戸ばかりの街村である。西側は山を削って建てた家並であり、東側は仁淀川の河岸に背を向け、表の道路面は二階でも裏は四階、表の道路面は一階でも裏は三階で、下は物置にした下屋のある家並である。
 落出の集落の特色は、一本の細長い街村で裏通りのないことと、集落形成の時代が明確で、明治二〇年まで一軒もなく、新しい県境の集落で、伊予と土佐の文化的経済的交界地域で、興味がある。したがって、池内長良は上浮穴高校教諭時代の、昭和二八年二月に各戸に調査表を配り、買物圏、屋根材、出身地、移住年令二階建などの計量的調査研究を行ない、その実態を「愛媛教育時報」六三号に発表している。また明治一九年、明治三五年、大正七年、昭和一九年などの豪雨による山崩れの周期的災害も、落出の特色である。平地が狭いので宅地の地価は割合に高い。


 集落の形成過程

 藩政時代から明治二〇年までの土佐街道(高知と松山を結ぶ交通路)は、今日の国道三三号のような仁淀川の河岸を通らず、久万から七鳥経由で池川に至るコースは猿楽石(海抜一一〇〇m)のような見通しのきく、山頂の尾根道を通っていた。また七鳥から東川の水押を通り、土佐の池川町の用居の関所を通った。
 落出の今の橋の袂の渡場に最初に住みついたのは、久主の梅木熊五郎の次男の梅木音吉(嘉永五年八月一四日生まれ当時四〇才)である。彼は明治二四年(一八九一)予土横断県道が開通したとき、落出渡船場の初代渡守となった。そして彼の妻は、県道筋の現在三三号の、郵便局の向かい側の倉田喫茶店の所で豆腐屋を営み、昭和の初めまで「豆腐屋のおばちゃん」で愛称されていた。
 松田旅館の創始者松田久吉は風早(現北条市)の出身で、当初は行商に来ていて、定住し、旅館と飲食店を始めたのが明治二一年(一八八八)である。落出の名の如く、交通の要路に当たるので、同三二年(一八九九)には久主から郵便局が移ってきた。明治三七年(一九〇四)には戸数が一六戸になった。
 明治三二年に柳井川の庄屋のあった松木で開業中の医師の大妻文三郎(土佐の人)が落出に移って開業した。その後、明治四三年(一九一〇)土佐の仁井田村から吉村孫吉医師を雇い入れた。吉村病院が今の所に開業したのは大正一〇年(一九二一)である。
 明治四三年六月、大阪電気商会主、才賀藤吉が第一黒川発電所に着工し竣工したが、収支償わず伊予鉄に売却した。大正三年(一九一四)にトラックが通り始め、同一〇年に仁淀川吊橋が仁淀川に直角に架設され、第二黒川発電所も竣工した。同一三年にはバスが高知県境で乗換えることで連結された。当時のバスはアメリカ製の車で六人乗りであった。昭和一〇年に落出大橋(幅四mの旧橋)が三万円で、仁淀川に直角に竣工し、国鉄バスが通り始めた。昭和四〇年から国道三三号の幅員拡張工事が行なわれ、旧落出大橋の下流に、幅六mの新落出大橋が仁淀川に直角ではなく、斜にカーブをつけて、昭和四二年に架設された。いま旧橋は国鉄バスの駐車場になっている。
 図7-15のように、明治時代の集落は、橋から松田旅館の間に最初は形成された。橋より北は大正時代の建物で、郵便局から北は昭和になってできた街である。
 来住者九三軒の年代を調査した池内長良の昭和二八年の統計では、明治時代一七軒、大正年代一九軒、昭和戦前二七軒、戦後三〇軒となっている。その出身地すなわち前居住地は、柳井川の同部落で山から下りて来た人が三二戸、同村西谷が三、隣の中津村が一〇、弘形村が四、久万町が四、川瀬村が二で、その他上浮穴が二戸である。愛媛県内の他郡が一三戸、高知県が一七戸、その他県外が六戸である。
 昭和五八年現在の落出の世帯一〇〇の内訳をみると、役場や農協や営林署や学校などの職員が三三名で最も多い。次が土木労務者の一〇名、飲食店が四で喫茶店が一、大工二、畳製造二、医師二、理髪二、美容一、鮮魚店が二、雑貨店も四軒に減り、和裁仕立一、洋服仕立一、写真屋一、薬店一、その他僧侶、金光教教師、林業、自作農などである。松田旅館も今は休んでいる。
 山村の人々も今では自家用車を所有している人が多く、高い買物になると松山に出て行くので、落出のような集落の商業機能は今のところ伸展し難い。その上過疎で人口も購買力も減っており、バスの便もよいので、店種も限定される。


 落出集落の形態と機能

 落出の集落は、落出大橋の西側の仁淀川の右岸にだけ発達し、東側は山が迫って家が建てられない。昭和一九年八月に、柳谷村役場も西谷の山腹から松田旅館の裏に下りてきた。役場の付近も狭くて、集落発展の余地がない。落出には井戸はなく、飲料水はすべて山から引いた樋の簡易水道である。栃谷川の溪流を利用して一時鱒を養殖していたが、今は久万町の川瀬に移り、その敷地の一部は町役場の駐車場と変わった。
 三〇年前と商店街を比較してみると、半分ほどが変わっている(図7-16・17)。雑貨業が七軒、旅館宿が五軒、呉服屋が五軒、パチンコ店が五軒、理髪店が五軒、飲食店が三軒、料理店が二軒もあったが、若干減った。その代わり新たにガソリンスタンドが二軒、自動車修理工場が二軒、電気器具店が二軒、タクシー店が一軒出現した。パチンコ店は影をひそめた。伊豫銀行の出張所・商工会事務所・産業開発公社・集落センター柳谷・公営住宅落出団地三階二四戸分が落成したが、上浮穴高校落出分校は廃止された。落出に来る物資のうち、鮮魚と乾物と金物の一部を高知方面より仕入れるが、その他は松山の商圏である。

図7-15 柳谷村落出の街村

図7-15 柳谷村落出の街村


図7-16 1953年(昭和28)当時の落出の集落(村上原図)

図7-16 1953年(昭和28)当時の落出の集落(村上原図)


図7-17 落出の集落の中心部の店名(昭和58年)(村上原図)

図7-17 落出の集落の中心部の店名(昭和58年)(村上原図)