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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

一 久万町の街村


 久万町は標高四九〇mの久万盆地の中心で、菅生山大宝寺の門前町であり、土佐街道の宿場町でもある。『名智本久万山手鑑』(元禄―安永期)の「久万山郷代官城由来」の項を見ると、次のように誌してある。

伊予湯築城主河野通信延徳時代に豪族にして二代通広三代通有、天文年代足利将軍末期に至り、諸国に豪傑競起し、国境争乱を事とし、此時代に当たり天文一一年(一五四二)土州佐川一条家、久万郷下坂に軍兵を差向け、再三国境を侵略侯間、道後湯築城主河野通有公ハ菅生村槻ノ沢大余家山ニ代官城を築き、大洲郷菅田村宇津より大野直家殿を乞ひ、久万郷七千三百石の総宰領方を仰せ付られ候。その子大野山城守直昌公に至り、大いに久万郷の繁栄を計り候。久万に代官所、郡奉行所、御年貢政所等を置き、百姓町として家門を御増成され候処、天正二年(一五七四)土佐に豪傑長曽我部元親大に勢力有り、軍兵を大野原に戦陣を構えたるに依り、大野直昌公是に対戦したるも遂に利あらず退陣し、折柄間もなく、関白秀吉公の四国征伐に依り、道後湯築城主河野家も恭順に伏し、此時藩内諸邑の代官城も同様の運命に陥り、大余家城も落城に相成候。其後伊予勝山城藩主加藤左馬助ノ臣、佃次郎十成殿を大除城に封し、再度居城致し候へ共、是又勝山城主加藤公転封に伴ひ自然御免役と相成申候。大野直昌殿番城之区分は、口番七か村は大川村に旗頭を置き、下坂七か村ハ久主村二旗頭を置き、北坂六か村は東川に旗頭を置き、其 他番城を一二か所に置き、国境領分取締役を仰せ付けられ居り候処、弘治年間(一五五五~五七)土州国境の百姓大挙し て領分に侵入し横暴して、土地百姓をおびやかしたるに付、番城旗頭は年行司郷筒を才許して成敗役を仰せ付られ候。領分境目東川水押に、御関所、御政役所を置き、人馬の通行を検分する所として、御禁制を置申させられ候。

とある。
 久松藩時代、前述のように久万山六千石の地として、代官所および奉行所を久万町に置いた。久万は街村の故に久万町といい、野尻と共に荏原郷であった。その野尻村は寛永一二年(一六三五)以来、上野尻は松山領であったが、下野尻は父二峰とともに藤堂高虎の客臣渡部勘兵ヱの所領の大洲領であった。仁淀川流域を久万郷というのに対して、上浮穴郡でも、肱川の上流域を小田郷と称した。日本の北海道のような開発の遅れた地味で、口蕃・北蕃・下蕃・南蕃・西蕃の五つに分かれていた。元禄一三年(一七〇〇)の検地帳には面河村を北蕃村と記している。下蕃とは柳谷・弘形・中津の地区である。
 土佐街道の久万の街村は、北から住安町・本町・古町・桂町・福井町・古市(後に曙町と改称)・上野尻からなる(図7-12)。藩政時代の会所は住安町にあり、そこに明治・大正時代は郡役所が置かれ、郡制廃止により旧町役場となった。昭和三七年町役場が曙町に移ったので、今は町営アパートに変わった。南隣の戦前の久万税務署は廃止になり、今は久万中央公民館になっている。
 久万町の街村は草葺きの家のため度々大火災があった。『久万町誌』の年表によれば、万治三年(一六六〇)に火災一六〇軒焼失、元禄九年(一六九六)大火一九〇戸、正徳元年(一七七一)には一九六軒、正徳四年には一四七軒の大火があり、文化五年(一八〇八)には一〇二軒、文化一四年一〇月六日には一〇〇軒余、文政三年(一八二〇)には一五五軒焼失の記録がある。それで火災予防のため、文政八年願い出て、特に久万町の街村では瓦葺を許された。
 明治二二年に土佐街道の車道ができ、市町村施行により、久万町村と称した。街村の小田町村・原町村と同様である。明治三四年に久万は野尻を合併して町制を施き、当初町役場は福井町にあり、大正一三年に菅生村を合併した。郡制廃止により既述のように、町役場は住安町の旧郡役所を利用した。
 国道三三号のバイパスが、昭和四一年に完成したので、役場・町民館はもちろん、久万警察署・久万農協会館は新国道沿線に移ったが、伊豫銀行・愛媛相互銀行・四国電力の各々久万支店や、久万郵便局などは街村の旧国道に存続している(図7-13)。
『久万町郷土誌』によれば、明治三五年(一九〇二)の戸数五三四のうち、商業三三〇、農業一三〇、工業一四、雑六〇で、商業のうち宿屋が二〇軒(野尻村を含む)うち旅館四、木賃宿一六軒であった。
 明治四二年(小川薫水著上浮穴郡案内)の久万町の商業戸数二四四のうち、宿屋一七・茶商一一・穀物商一〇・木材商九・飲食店九・代書業九・理髪業六・芸妓置屋四・大工職一五・人力車業一六・桶職五・酒造業四・醤油業二・按摩業五・傘提灯業四・経木真田二・開業医五・質屋四・運送業五・呉服商四・小間物商四・菓子商四・産婆一・印刷一・金物一・自転車一・写真一・書籍二・蚕種一・生魚商三・精米二・染色四・湯屋二・石工三・畳職二・鍛冶屋五・木挽四・僧侶三・理髪六・髪結三・製糸一・製紙一・銀行一・蹄鉄工一・雑貨商八とある。
 当時の久万町の商店街の様子が伺える。昭和一〇年に国鉄バスが松山―久万間に通じてから、一時間二〇分で松山へ通学・通勤できるようになった。交通が発達し、久万町の商店街も影響を受けたが、最も顕著なのは旅館・商人宿(木賃宿)・へんろ宿が、二八軒もあったのが、ほとんど消滅したことである。
 現在営業しているのは面河旅館と粋月と松屋ぐらいで、思い出の谷亀旅館も今は休業している。へんろ宿も仕七川旅館が一軒残っているだけで、大宝寺参道の繁昌していた「とみや」も七年前から休業している。札所の大宝寺が宿泊を始めたためもある(図7-14・表7-30)。
 明治一〇年当時の久万町地籍図で町並の地価をみると、本町が三八・三七級で最も高く、次が桂町と福井町の三六級である。谷亀旅館になると三四になり、住安町の元郡役所になると三〇になる。元営林署だと二七である。南の方をみると、曙橋で三四になる。終戦後になると古市、今の曙町付近が繁栄し、地価の上昇が著しい。

図7-12 久万の明治43年(1910)の街村の図

図7-12 久万の明治43年(1910)の街村の図


図7-13 久万町の街村

図7-13 久万町の街村


図7-14 久万町の宿屋の分布

図7-14 久万町の宿屋の分布


表7-30 久万町の宿屋の分布(昭和戦前戦後)

表7-30 久万町の宿屋の分布(昭和戦前戦後)