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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

九 伊予すだれ


 文学書の伊予すだれ

 伊予簾が中央の文学書に最初に出ているのは、寛和元年(九八五)の『宇津保物語』の藤原の君の巻である。有名な清少納言の長保四年(一〇〇二)の『枕草子』の「にくきもの」の段に、「伊予簾などかけたるうちかづきて、さらさらと鳴らしたるもいとにくし」とある。同書の「六位の蔵人」の段に、「庭いときよけに掃き、紫革して伊予簾かけわたし、布障子はらせて住まひたる」、同書の春曙の七二股に、「いやしげなるもの」に「伊予簾の筋太き……」と記されている。
 また有名な紫式部の寛弘四年(一〇〇七)の『源氏物語』の柏木の巻に、「伊予簾かけわたして、鈍色の几帳の衣がへしたる透影、すすしげに見えてより童の……」、イヨスは粗末なもの。同書の浮舟の巻に、「やをら、のぼりて、格子の隙あるを見つけて、より給ふに、伊予簾はさらさらと鳴るも、つつまし」とある。


 伊予簾の植物学・歴史的文献

 本多精六著(大正一〇年)の『造林学各論』第五の竹類篇に、イヨダケ=イヨスダレとある。昭和一一年の山下幸平著の『愛媛県植物便覧』(向井書店発行)にもイヨダケ=イヨスダレとある。八木繁一著の『愛媛県立博物館報告』第五号(昭和四一年)にはイヨスダレ=スダレヨシとある。室井綽著(昭和四七年)『タケ類』(加島書店)にはイヨダケ=イヨスダレ=ゴキダケの一種とある。鈴木貞雄著(昭和五三年)『日本タケ科植物総目録』(学習研究社)にはスダレヨシ=ゴキダケ=イヨスダレとあり、山本四郎著(昭和五二年)『愛媛の植物記』(愛媛文化双書)ではイヨスダレとゴキダケは別の種と考えている。寺島良安著(正徳三年)の『和漢三才図会』の簾の項をみると、

按スルニ簾に数品有り、大抵細き割竹を以って編成す屏障を為す也。又暑屏と為して伏見より出す。一種細茎の葭を以て編成する者予州より出す、呼て伊予簾と曰う

とあり、光俊の和歌「年を経て世にすすけたる伊予すたれ、懸けさげられて身をはすててき」とある。『和漢三才図会』の著者は、伊予簾はスダレヨシともいうので、葭で作るものと誤解している。葭は竹や笹でなく草本である。伊予簾は笹を原料とする。
 歴史上の文献として、『予陽郡郷俚諺集』(宝永七年・一七一〇年)や、『大洲秘録』(元文五年・一七三六年)や、『大洲旧記』(寛政一二年・一八〇〇年)や、半井梧庵の『愛媛面影』(慶応二年・一八六六年)や、『大洲随筆』(慶応二年)や、宮脇通赫の『伊予温故録』にも伊予簾のことが簡単に誌されている。また野崎左文著(明治三一年)の『日本名勝地誌』第八篇にも上浮穴郡の物産として伊予簾をあげている。小川薫水篇(明治四三年)の『上浮穴郡案内』にも「特産伊予簾は父二峰村より原料を仰ぎ、小倉強氏の経営なり」とある。西園寺富水は『伊予史談』第五号(大正五年)に伊予簾について論文を書いている。村上節太郎は『ふるさと久万』の第二七号(昭和五八年七月)に「伊予簾の研究―文学的・植物学的・栽培地と加工―」(一八五~二〇〇頁)を発表し、写真や地図で解説している。


 伊予簾の栽培地と加工

 図7―10の如く、伊予簾の材料の笹は、久万町露ノ峰の標高七〇〇~七五〇mの山腹に自生している。藩政時代には大洲藩の所有で、毎年何十貫かを馬の背で大洲城下へ運んだという(小倉強の兄の梅木正衛談、昭和八年九月一七日)。廃藩後官有地となり、明治一五年公売になり、西明神の小倉強の所有となる。昭和二四年九月一七日県指定の天然記念物となり、小倉強は父二峰村に寄附した。合併して今は久万町の所有である。栽培地は音地式土壌の傾斜地で、面積は帳面上五反五歩、実面積六反六歩で、今はトラックで行けるようになった。昭和四八年より五年間、小田町の上山物産に委託経営していたが、今は久万町西明神の農家高齢者創作館の老人たちが、経営し加工している。毎年三月下旬に町の山林課が協力して収穫し、あと山焼きをする。加工は簾編み器械が一台なので、年産三〇〇か五〇〇枚編んでいるに過ぎない。短いのは色紙掛け、短冊掛け、衝立、夏向きの簾戸、花器、電気カバー、額ぶち、蓋のサナ、笠など民芸品を作っている。

図7-10 伊予すだれの栽培地

図7-10 伊予すだれの栽培地