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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

二 高冷地の稲作


 高冷地の稲作

 周囲を急峻な山地に囲まれた上浮穴郡は平坦地に乏しく、県内でも水田の割合が少ない地域の一つである。高度経済成長期に入る前の昭和三五年の水田と畑の面積をみると、上浮穴郡は水田一五六二haに対して畑は二〇三七haで、水田率は四三・四%であり、県の五二・一%と比べるとかなり低い。町村別に水田率を見ると、久万町六一・六%、面河村三一・八%、美川村三三・三%、柳谷村二六・一%、小田町三六・九%となっており、久万町と他の市町村では、水田率に著しい差異がある。
 水田の立地点を見ると、久万町では、久万川ぞいの明神、直瀬川ぞいの上直瀬、有枝川ぞいの上畑野川と下畑野川、二名川ぞいの二名などにかなりまとまった谷底平野が発達しており、ここに水田が立地する。小田町と面河村も、小田川・面河川ぞいの谷底平野に水田は立地するが、その谷底平野が久万町と比べて狭小であり、水田面積はあまり広くない。一方、美川村・柳谷村は、急峻な地形が卓越し、水田の立地する谷底平野はほとんど見られない。この両村では水田は主として山腹斜面に立地するが、そこは地すべり地に由来する湧水地帯であることが多い(写真7―2)。
 久万町は谷底平野の広いところから、水田の立地環境としては、地形的には恵まれているが、標高が五〇〇m内外あるので、気候的な点から稲作に制約条件がある。
 一方、美川村・柳谷村などでは、標高五〇〇mから六〇〇mの山腹斜面に水田が立地するので、気候的のみならず、地形的にも水田を開くことが困難であり、水田は山腹斜面に狭小な棚田として存在する。


 稲作の特色

 上浮穴郡の稲作は、高冷地に由来する気候的な制約が、まずその特色を規定している。松山市の最暖月八月の平均気温が二六・四度Cに対して久万町は二四・四度C、同月の松山市の降水量が九九㎜に対して久万町は二一三㎜であり、久万地方は夏季の冷涼と多雨を特色とする。
 このような冷涼な気候は、まず稲の品種に影響を与えている。秋の訪れの早い久万地方では稲の栽培期間は短く、その品種は早生系統に限られる。昭和五六年現在では、大空などの極早生とヤマビコ・農林二二号などの早生種が大部分を占め、晩生種はみられない(表7―6)。
 松山市も日本晴・ミネニシキなどを主とした早生種が多いが、これは近年早生品種に優良銘柄が登場し、それが選択された結果であり、従来は中生・晩生種の多い地区で、上浮穴郡のように昔から早生種の多い地区ではなかった。また上浮穴郡は古くは糯米の栽培面積が多かった。これは灌漑水が冷たいため、水口部分に冷水に強い糯米を植えたことによる。このような糯米を「水口糯」と言ったが、出穂時に水口部分のみに色の異なった糯米の穂がなびいているのは、上浮穴郡の稲作の特異な景観であった。
 早生種の多いことは、田植時期と稲刈時期を平坦地と比べて早めるものであった。松山平野の田植時期が六月中旬から下旬であるのに対して、久万町ではそれより一か月も早い五月中旬が田植の最盛期である。田植時期が早いことは、苗代作りに特殊な工夫を要した。
 久万地方の苗代は、明治・大正年間は平床式水苗代が多かったが、昭和一〇年ころより揚床式水苗代に変わってきた。平床式水苗代は代かきで水田の表面をならし、二~三日干してから水をかけ、周囲から種もみをばら播く苗代であったが、灌水調節や害虫防除がむつかしかった。これに対して揚床式苗代は、溝上げをして苗床を高くするので、灌水調節や害虫防除などには適していた。また終戦前後には水苗代と畑苗代の長所をとり入れた折衷苗代も普及する。この苗代は、播種直後には水をため発芽の促進をはかり、かつ若い苗を保護し、気温が上昇する後期になると、表面排水をして苗の徒長を抑制するものである。この折衷苗代を油紙やビニールで被覆し、寒冷地で健苗を育成するのが保温折衷苗代である。保温折衷苗代は、昭和一七年長野県軽井沢町で考案されたものであるが、愛媛県では農事試験場久万分場で昭和二四年から研究され、翌年から久万地方に普及する。ビニールの使用は昭和二七年に始まった。保温折衷苗代の普及は久万地方の稲作の発展に貢献するところ大であった。
 上浮穴郡の稲の面積当たり収量は、昭和五六年現在一ha当たり四三一㎏であり、県平均の四七一㎏を一〇〇とすると、九一・五にも相当し、さしたる遜色はみられない。しかし、このように面積当たり収量に差異が少なくなったのは、昭和三〇年代以降のことである。昭和八年には一ha当たりの収量が県平均で三七四㎏であるのに対して、上浮穴郡はその六四・七%にあたる二四二㎏にしかすぎない。近年稲作技術の平準化によって、県内の稲の面積当たり収量には地域差が小さくなり、上浮穴郡の稲の面積当たり収量も向上したが、それでも昭和五五年のように異常冷夏の年には、その被害をもろに受けるのが上浮穴郡であった(表7-7)。
 同年は七・八月の盛夏の平均気温は平年に比べて一・五~二・〇度C低く、また最高気温も二・五~三・〇度C程度低かった。上浮穴郡では出穂期前後の低温により、不稔・青立ちが広く発生し、作柄は平年作の五〇~七〇%にしか達しなかった。同じ冷夏でも松山平野の作柄が平年の八五~九〇%であったのとは大きな差異がある。
 上浮穴郡の稲作の特色を規定する第二の条件は、水田が山腹斜面に狭小な棚田の状態で分布することである。このことは稲作の機械化をはばみ、労働生産性を著しく低くしている。水田が山腹斜面に多く分布するのは美川村・柳谷村などであるが、これらの地区では、田植の手植えや稲刈の手刈りが今でも多く残存している。昭和五五年現在の田植機による植付面積は、県全体で八六・一%であるのに対して、上浮穴郡では四九%にしかすぎない。手植えの多く残存する美川村・柳谷村などでは、田植時に労力交換をする伝統的なイイ(結い)の習慣もみられる。
 このような棚田の灌漑水は、地すべり地に由来する湧水に依存するものが多いが、不足する部分は新たに構築した溜池に依存している地区もある。美川村の沢渡と中黒岩は面河川をはさんで相対峙する地すべり地に棚田のみられる集落である。沢渡は昭和三五年に農家戸数五三戸で水田一二ha、普通畑一四haを耕作していた。水田は標高六五〇mから三七〇mの山腹緩斜面に棚田の状態で展開する。一枚の田は平均一アール程度にすぎず、きわめて狭小である。水田の展開するところは地すべり地であり、至るところに湧水がある。
 その湧水の影響をうけ、水田にはフケ田又はシブケ田といわれる湿田が多く、カワキ田といわれる乾田は全体の二分の一程度にしかすぎない。灌漑水は湧水を利用するものもあるが、その主体は赤蔵ケ池・新池・皿ヶ成池の三つの溜池からの用水に依存する。これらの溜池からの水は二つの幹線水路に導かれ、それ水路の途中にある分岐点(わけ地)から支線の水路に導かれ、一枚ごとの水田に灌漑される。水路から水田への灌水は竹樋や松丸太をくり抜いた樋を用いていたが、昭和三八年ころからはビニールパイプにとって変わった。水田のなかには独自の灌漑水路をもたず、田越しの水を利用する水田もある。
 水田のなかには幅五〇m程度の横手と呼ばれる水路をめぐらしているものが多い。この横手は冷たい灌漑水を温めるヌルメであり、灌漑水の冷たい上浮穴郡の水田には広く見られる施設である。水口から入った灌漑水は横手をぐるりとまわってのち水田に入ってくる。また、横手は冬季の湧水の排水溝をも兼ねる。近年は横手にかわってビニールパイプを長く巡らし、このパイプの中で水を温めている水田も多い。
 稲を作付している水田面積は二回にわたる減反政策によって、昭和五五年には三五年の四二%に減少している。狭小な水田が棚田の状態で重なるこの地区では、機械化の進展は思わしくない。耕起の作業は牛にひかせるスキにかわって耕耘機になったが、まだトラックターは導入されていない。田植は田植機で行なうものは二〇~三〇%程度であり、他はイイ(結い)による手植えである(写真7―3)。稲刈りは手刈りが四〇~五〇%程度あり、他はバインダーによる刈取りである。コンバインはまだ導入されていない。一〇アール当たりの収量は平年で四二〇㎏程度であるが、このように労働生産性が低いので、他人の土地を借地してまで経営規模の拡大をはかるものはなく、稲作はもっぱら農家の飯米自給用となっている。
 対岸にある中黒岩も、地すべり地に由来する山腹斜面に、標高六○○~三七〇mの間に棚田が展開する。水田耕作の実態は沢渡とほぼ同じであるが、沢渡が南西斜面に水田が展開し、日照に恵まれているのに対して、中黒岩は北東斜面に水田が展開し、日照に恵まれていない点が異なる。日照に恵まれた沢渡には水口糯を作る習慣はあまりなかったが、日照に恵まれず灌漑水の冷たい中黒岩では、横手でまわした灌漑水の入口付近には水口糯を作るのが普遍的であった。


 稲作の動向

 昭和三八年まで増加の一途をたどっていた上浮穴郡の稲作面積は、昭和四五年から四七年にわたる米の生産調整、昭和五三年にはじまる水田利用再編対策によって、その作付面積を著しく減少させた。上浮穴郡の水稲作付面積は、昭和三五年には一四三三haあったが、昭和五六年には九四○haに減少した。この間の減少率は三四・四%であるが、地域的には面河村の三七・八%、柳谷村の三六・〇%、小田町の四九・〇%などが減少率が高く、久万町三〇・一%、美川村二九・七%などがその減少率が低い。
 昭和四五年に始まる米の生産調整では、上浮穴郡は永年作物の「その他」に転用されたり、休耕されたものが多い(表7―8)。永年作物の「その他」とは、その大部分が植林である。県内全体の転作では野菜や果樹などが多いなかで、上浮穴郡が林地に転換されたものが多いのは、有利な転換作物が得られず、止むなく林地に転換せざるを得なかったことを物語っている。林地に転換された水田は、山腹斜面や狭小な谷底平野など条件の悪い水田であるが、一たび植林された水田は、二度と水田に帰ることはなかった。
 昭和五三年にはじまる水田利用再編対策では、休耕は認められていないので、すべて転作であるが、久万町の野菜を除いては、めぼしい転換作物は見られない。美川村・柳谷村などでは特定作物のそばがやや目立つ程度である。水田への植林は、水田利用再編対策とは関係なく依然として継続している(表7―9)。
 二回にわたる水稲の減反政策は上浮穴郡の稲作に大きな変革を迫るものであったが、その変化の方向は地域によってその性格を異にする。谷底平野にまとまった水田が広く展開する久万町では、農業構造改善事業や農村総合整備モデル事業などによって、昭和五四年までに二〇二haの水田の圃場整備が完了している。久万町の水田面積が六六〇haのうち、圃場整備可能の面積は三一〇haと推定されているので、整備可能な水田の大部分が圃場整備されたことがわかる。
 圃場整備の効果は農道が整備され、かつ水田が平均一〇アールの広さに拡大されたので、機械化農業が容易になったこと、灌排水路が整備され、灌漑・排水が容易になったことなどである。農業構造改善事業も農村総合整備モデル事業も、トラックター・コンバインなどの大型機械の導入、ライスセンターや育苗施設の設置を同時に行なったので、この面からも稲作の省力化が推進されている。久万農協管内には東明神・上直瀬・露峰に合わせて育苗能力二〇〇haの育苗施設があり、久万町内の機械植農家に苗を供給している。また、東明神・上直瀬・菅生には、合わせて一六四〇㎏の処理能力のライスセンターがあり、久万町内の稲作農家のモミの乾燥・調整・袋づめをしている。このような育苗施設やライスセンターが建設されたことは、苦労の多い高冷地での苗代づくりや、稲架による稲の乾燥から稲作農家を解放し、稲作の省力栽培を推進している。稲作農家の余剰労力はトマトなどの野菜栽培や畜産・林業などに利用されている。
 一方、面河村・美川村・柳谷村・小田町などでは、谷底平野が狭小であったり、水田が山腹斜面に展開していることから、圃場整備は困難であり、旧来からの狭小な水田で稲作が行なわれている。このような水田では、農業機械の導入も困難であり、依然として手作業に依存する稲作が行なわれている。これらの地区の稲作は発展の余地に乏しく、飯米自給の稲作に甘んじているといえる。
 このように上浮穴郡の稲作は、近年の水稲の減反政策を契機に、より生産性を高めようとしている久万町と、飯米自給農業に甘んじて衰退を余儀なくされている他町村とに両極分解しているといえる。

表7-6 上浮穴郡の水稲品種別作付面積

表7-6 上浮穴郡の水稲品種別作付面積


表7-7 上浮穴郡の水稲作付面積・実収高の推移

表7-7 上浮穴郡の水稲作付面積・実収高の推移


表7-8 昭和46年の上浮穴郡の稲の転作・休耕面積

表7-8 昭和46年の上浮穴郡の稲の転作・休耕面積


表7-9 昭和55年の上浮穴郡の稲の転作面積

表7-9 昭和55年の上浮穴郡の稲の転作面積