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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

五 忽那諸島の交通


 シーボルトもケンプエルも通った海峡

 元禄三年(一六九〇)から二年間、オランダ使節随員として江戸へ行ったドイツ人医師ケンプエルは、彼の『日本誌』に忽那諸島中の津和地港の様子を次のように記している。

正午頃、左手にある津和地島に達す。島には一つの湾ありて東南に開け、岸は半月に丸みをなしたり。二百戸ばかりの民家あり、舟人のため安全なる港の用をなす。その後の山は段階状に山の頂まで一段一段の畑に耕したり……。

八世紀中ころから一二世紀にかけて忽那諸島は法隆寺の庄になったり、四国唯一つの官牧場であったり、長講堂寺領であったりしたが、これは島の農牧産物が秀れていたというよりも、その海上交通位置の便利さの故に、白島からの貢物の外に、他地の物産も畿内に運ばせるという目的があったはずである。南北朝から戦国時代にかけて忽那水軍の勇名は国内に知れわたっていたが、江戸時代の平穏の中にあっても、その内海の十字路といわれる位置にあって、果たした海運上の役割は実に大きかった。瀬戸内海を東上する「朝鮮」・「琉球」・「オランダ」の使節は周防灘から最初の多島海域へ乗りいれるが、そこに防予諸島があり、その東部を忽那諸島が占めていた。むろんこれらの外国使節の船よりも、幕府の公用船や、大名の参勤交代船、また、ようやく物産の流通がはげしくなった商用船がはるかに多かったが、さながら船運の瀬戸内海銀座地帯の観があったろう。松山藩は、この海上交通の要地である津和地に接待所である「茶屋」を置き、藩士八原を配して警護、接待の役にあたらせたが、彼の「八原家日記」に関しては、中島町誌にくわしく記載されている。当時の毎上コースとしては、下関―上関―沖家室島―津和地―蒲刈―御手洗―岩城が主路で四国側沿岸には、河原津―波止浜―津和地のコースもあった(図6―14)。津和地は公式の接待所ではなかったが、それに準ずる港であり、風よけ、潮待ちとしても良港であった。津和地沖を通過するコースでも特に停泊して、島へあがり一泊することもあった。
 公用船の場合は水先案内の舟はもちろん薪船、飲料水を運ぶ水船、馬の飼料を運ぶ飼料船、連絡用の船などを地元が用だてねばならず、寛延元年(一七四八)の朝鮮使節が沖を通っただけで御馳走御用として、船三九隻、水主一五六人が動員され、薪船五隻、大豆や糠などの飼料も用立てている。松山藩によって買い上げられるものもあったが、諸大名の入用は支払われぬことも多く、津和地を中心に忽那諸島各村が提供することも多かった。これは江戸時代の東海道交通などの場合、宿で用立てる人足、馬を近郷から徴発し、これを「助郷」と呼んだのと同じであり、迷惑をこうむることも多かったのである。だから忽那諸島が中世から、近世にかけて公的船便に果たした役割の裏には私的船便や、港町の繁栄で得るもうけがなくてはなりたたなかった。東北・北陸地方の米や干いわしを積んだ「北前船」は、瀬戸内に入って諸港で取引をした。当然港には宿泊所や遊び場もでき、その土地がうるおうことになる。津和地新地の遊女屋などもその例であり、二神や、神浦も自分の港に船を停泊さすため沖に船を出して「客引き」をするので、御手洗港がさびれた等の記録もある程である。津和地程ではなかったが、対岸の元怒和へも入港する船があり、二神へは九州方面から御城米を積んだ船が寄港した。


 粟井海運業の繁栄と大泊港

 瀬戸内海の中心航路に面する津和地に対して、大浦や粟井・睦月は少し東に寄りすぎていたが「地船航路」の避難港や水などの供給港として栄えた。粟井に廻船業がおこったのは、造船業の盛んな倉橋島(広島県)から粟井へ移り住んだ人達がいたからともいわれるが、それよりも天然の良港大泊が隣接したことの意義の方が大きいといえる。帆船時代の大型船(千石船)をつなぐには水深、潮流、防風など、自然の好条件を備えた港を必要としたが、大泊港はこの条件をそなえていた。粟井の海運業は、まず薪炭の運搬によって大もうけをしたことに始まる。一二世紀に長講堂領となって、米五〇石、たい松用薪一千杷を毎年納めていた。薪炭の販売はこのころにさかのぼるとも言われるが、以後江戸時代を通じて薪(松葉束・割木)や木炭を、南予・高知・宮崎などの資源豊かな地方から京阪神地方へ輸送し高い利益を得た。この船舶は「買積船」といったが、これは単なる輸送賃を得るだけのものではなく、品物を買い取って相場を張る商行為であったから儲けも多かった。この地方でこの船を「バイ船」と呼んだが、この「買い取る」行為を強調して「買船」とつけたものかと思われる。これと並行して「樽積船」、明治二〇年以後洋式の二、三本帆と折衷した「合の子船」、明治中期から昭和三五年ころまで石炭を運んだドブネ(胴船)、バイ船が小型化したイサバ船(磯場伝いの船)、などその活動は有名で、これらが大泊港に船泊まりした様子は壮観であったといわれる。明治一一年の風早郡誌では、商用船は三五七隻に達するが、この中には前記の商用船の外に睦月・野忽那の行商船や、渡海船も含まれるものである(表6―19)。現在の中島に船籍を置く鋼舶は二三隻であるが、これもやはり衰退の現実といえるであろう。


 松山・中国筋への定期航路の開設

 明治三〇年(一八九七)ころまでは島外へ往復するのは和船の渡海船によっており、定期便を期待されたが、小型船では、風浪で不定期になることが多かった。当然大型船による定期航路開設を望む声は忽那諸島の悲願として高まり、明治二九年(一八九六)東・西中島村で定期航路開設計画が持ちあがった。それは「中島汽船株式会社」によって運航するもので、航路は三津から大浦―神浦―宇和間―怒和―津和地を経て屋代島に寄り、柳井に達するものであり、今の呉、広島に至るものではなかった。これは、なるべく島づたいに安全に早く山陽路へ達したいとの希望からであろう。明治三一年(一八九八)に営業を開始したが僅か二年で失敗し、以後大正末期まで私企業による汽船、発動機船が入りみだれて定期航路を開設し、実に二〇に近い船会社が競争し興亡した。資本関係では先に述べた地元粟井海運業界によるものと、広島県資本によるものであったが、県外資本系が優勢であった。
 忽那諸島の四か村は、共同村営航路の開設について何度も協議し、村営ではないが四か村をバックにした中島運輸株式会社が創立され、大正一一年(一九二二)営業を開始、三津・広島資本と競争したが、戦時中は一社制のもとに瀬戸内海汽船に吸収された。戦後再び地元資本の「中島汽船」が設立され、瀬戸内海汽船と競合したが中島汽船は昭和三三年町営汽船となった。三五年には瀬戸内海汽船の航路譲渡を受け、現在の町営汽船一本化が成立、四三年よりフェリーボートの運航も始まった。この町営定期航路一本化の悲願実現は、四村合併による新中島町誕生と並行して行なわれたものであり、六島一町の新行政の中で、明確な海上輸送の方向性を打ち出さなければ、現代の運輸流通機構に遅れをとるおそれがあったからである。
 その合理化の方向とは、(一)各浦各村の歴史を背景とした地域主義をさけて、新中島町として三津・広島へなるべく時間短縮して結びつける。そのため粟井・饒・吉木・宇和間・小浜等への寄港をやめ、それらはバス輸送で代行する。(二)大浦を拠点とした東回り船、神浦を拠点とした西回り船を開設、バス連絡で両方を利用できるようにする。(三)西中港を新設し広島線を確保する。(四)立寄港を九港とし、必ず一回以上フェリー便を配置する、というものであった(図6―15)。この海上交通を越智諸島の大三島と比較した場合、高浜―睦月―大浦間一八・六㎞を五〇分(フェリー)、高浜―神浦間一五・五㎞を四〇分(旅客船)で運行しているのに対し、大三島は今治まで一六・三㎞をフェリー五五分、水中翼船二五分で運航している。フェリー便では大差はないが、水中翼船または高速艇がないのが、中島町の最大のウィークポイントである。高浜―神浦に快速船を配し四〇分に短縮したことも一つの改善であるが、高浜―大浦二五分結合は、今後の海上交通整備の最大の課題であろう(写頁6―12)。


 道路の近代化

 地形的困難さや経済効果の少なさから道路交通の整備がかえりみられないと、便宜主義として砂浜を道路がわりに通行し、「負い子」などの担夫交通で我まんし、むしろ農船利用で海回りの方が便利ということになる。これがまた悪循環して道路整備が遅れるという図式は、各地島しょ部の宿命ともいえた。ようやく中島町で道路問題が行政にとりあげられたのは大正時代に入ってからであり、大正八年(一九一九)に大浦―小浜―長師―宮野―神浦線が開通した。東中島村予算の約半分をかけ
た大事業であった。西中島村ではなかなか村議がまとまらず、部落毎の細々とした対策が続けられていた。粟井―大浦間は粟屋峠越え、大浦―吉木間は辻堂峠越え、饒―畑里間の「かいこの鼻」を曲がりくねる急崖下の細道など、多くの難路は戦後に改修されたもので、昭和三三年中島環状線として県道に指定され、改修を重ねた結果、四二年に念願の本島一周バス運行ができるようになった。現在は延長二三・九㎞、幅員五・二m、舗装率一〇〇%の整備された道路として完成している(写真6―13)。また大浦―吉木を結ぶ町道は辻堂トンネルが四三年に開通し、これも念願であった東・西中島が最短距離で結ばれる自動車道として延長三・四㎞、幅員五・九m、舗装率一〇〇%で完成した。なお本島以外では唯一の県道が、昭和七年上怒和―元怒和間に開通したが、これは旧神和村の中心が元怒和にあり、これに結ぶ重要道路として県道指定されたもので、現在延長三・六㎞、幅員三・六m、舗装率一〇〇%で完成している(図6―16)。その他、各集落を中心とした道路も次第に整備され、特に農道や保全道としては五〇㎞に及ぶ延長が新設され、睦月島では海抜八〇m位置で一周農道として完成し、人の目を驚かすに足る景観である。また他の各島も一周路が予定されている。


 バス交通の発達

 この道路の整備と並行して島内に乗用車が導入されたのは昭和二七年で、ハイヤーとして使用された三輪乗用車であり、回転半径の小さい三輪車であったのが特色である。これは民営であったが、航路の町営と並行してバスも町営が望ましいとして昭和三三年に買収し、普通バスヘと切りかえ昭和四二年には初の本島一周定期バスが実現した。タクシーも町営として二台が運行されている。利用状況で大浦―神浦間が最も多いのは、東西航路の終始点の客受け便として利用率が高いからである。中島町でも自家用車の普及率が高まると共にバス利用客が減少し、現在は乗客の自由乗降方式をとってその確保につとめている(表6―20)。

図6-14 瀬戸内海の航路と忽那諸島

図6-14 瀬戸内海の航路と忽那諸島


表6-19 忽那諸島各村の商用船所有状況(明治11年)

表6-19 忽那諸島各村の商用船所有状況(明治11年)


図6-15 中島町町営汽船・フェリー航路及び便数

図6-15 中島町町営汽船・フェリー航路及び便数


図6-16 中島町の道路状況

図6-16 中島町の道路状況


表6-20 中島町町営バス巡路と利用人員

表6-20 中島町町営バス巡路と利用人員