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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

三 釣島の開拓


 概観

 釣島は松山市の興居島の付属島で、周囲二六二〇m、面積〇・三k㎡、耕地一五ha、興居島の鷲ヶ巣から二㎞離れた離島である。定期便はなく、鷲ヶ巣から朝一〇時に郵便船が往復する。渡海船の清丸(鷲ヶ巣の松本実、電話六一―二七三六)も不定期で、三津浜―鷲ヶ巣便に釣島へ寄港を頼むか、特船を出してもらうかである。離島振興法第九次に指定され、釣島漁港は立派にできた。
 島は角閃安山岩よりなる卵形の小島で、北はトンボロ(陸繋島の潟)の明神池があったが(写真6―8)、今は埋め立てて小学校の敷地になった。南の安山岩の柱状節理は採石場で、関谷勝利が経営していたが今は廃止した。最高点は一五二mで、北斜面に、釣島海峡を照らす有名な灯台がある。
 戸口は二二世帯一一二人(昭和五八年五月)で、主農副漁の集落である。学校はへき地五級の由良小学校釣島分校で、教諭二名児童八名である。中学は松山市内に進学している。同分校の創設は大正二年(一九一三)四月で、当時戸数一六戸児童数一七名であった。昭和二三年から同二六年までの間は中学校も併設し、昭和二五年には児童生徒数が三七名もいた。同二九年二月一日、興居島村が松山市に合併した。


 開拓移住

 釣島は文久三年(一八六三)までは無人島で、大洲藩の青島と同じく、釣島は松山藩の馬を放牧していた。正徳三年(一七一三)の記録では馬番人がいた。釣島の開拓は文久三年、由良の小林熊太郎の祖父の小林年松が、七人組の組頭で、由良と泊から移住した。その名は由良から年松・金太郎・閏蔵・辻松の四人と、泊から恒右ヱ門・富蔵・宇太右ヱ門の三人の計七人であった。うち二名は落伍して帰った。残留者五戸で今に続いているのは次の家系である。
 ①年松の家系は現世帯主小林坂二の家。②金太郎は池本花蔵の祖先。③閏蔵は石本ヒチの父で、石本順一の家。④辻松は現世帯主池本友一の家。⑤泊出身の小池恒右ヱ門は現世帯主小池鶴蔵や小池勇の家である。
 釣島の戸数は文久三年に、久松藩から開拓手当一日米一升をもらって移住したときは七戸であった。当時の釣島の管理は、由良の庄屋堀内と、泊の庄屋石崎が交代に治めていた。廃藩置県のとき釣島は泊の庄屋石崎安次郎の所有となった。それを由良の堀内新三・山中忠次・山下安次郎に譲った。


 釣島の売却

 明治一九年(一八八六)までは釣島の果樹栽培も僅かで、年貢も安く、由良の堀内新三ら三人の共有地で、地租を分担していた。石本熊太郎らは小作料を堀内家に持参したという。釣島の小作料は滞納し勝ちであったので、堀内らは大可賀の土建屋の今岡豊蔵に三五〇〇円で売った。それは石材の関係である。今岡はそれに一〇〇〇円つけて明治二八年(一八九五)に四五〇〇円で、中島の宮野部落に売却した。世話人は竹上浜蔵・中村石太郎・池下定明らで購入代表者は田村伊勢吉であった。それは宮野部落の人は明治一五年(一八八二)以来釣島海岸の肥藻を畑の肥料にするため、年三円の採藻料を払って毎年採取に来ていたからである。
 宮野の三六人が釣島株四五株(四五〇〇円)を有するので、一人で数株有する者もあり、半株の者もある。配当金は部落の老人の小遣銭などに供された。宮野部落としては網船を買う話もあったが、釣島を買うことになり、一時四五〇〇円は中島の粟井の船舶業者に借りたという(写真6―9)。


 農地改革と釣島株

 昭和二一年一一月二三日の農地改革で、釣島の宅地と耕地は解放されたが、山林はまだ宮野部落の共有地である。釣島株は最初は一〇〇円で配当は年二回で八円であった。明治三九年(一九〇六)旧一月改之の「釣島収益金配当簿第二号」によると、同三九年度は旧六月末に六円、旧一二月末に九円配当している。同四一年には一株につき七円と二円である。昭和一〇年には一八円、一七年六二円、二〇年五八円、二一年二四円、二二年二〇〇円、二九年七〇〇円、三八年一二〇〇円、最近は一万円と変動がある。
 農地改革で一〇五筆一七町一反○六歩、うち宅地三反二畝、うち養魚池六畝を解放したが、保安林の山の二〇町六反三畝二〇歩と、漁業権は今も宮野部落が所有し、固定資産税は宮野部落が払っている。


 朝日農業賞を得た釣島

 釣島には現在二〇戸の農家があるが、各家とも農業後継者がある。経営規模は三反から一町三反ぐらいで若干階層はあるが、貧農はない。果樹経営は、蜜柑・伊予柑・枇杷・桃と各農家とも多角的であり、最近は宮内伊予柑に力を入れている。各農家の耕地が分散しているので、地力・日当たり・距離・樹種に差があり交換分合は容易でない。各農家が農船を有しており、十余軒の農家が興居島の北浦に、果樹園を入手し、船で出作している。昭和五八年三月九日に、温泉青果釣島柑橘生産部が、優秀なので愛媛県朝日農業賞を得た。
 釣島の収入は農業が八〇~九〇%、漁業が一〇~二〇%である。二〇戸の農家が農船のほかに、大半が漁船の小舟を有しており、農閑期にたこつぼを業としている。漁獲物は生ボートで阪神方面に送られる。