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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

二 釣島の灯台

 燈台の設置

 明治四年(一八七一)の『新浜村御用日記』に、釣島灯明台設置当時の文書がある(松本常太郎所蔵)。日本灯台表には簡単に載っているが、灯台設置当時のことを、昭和二四年に村上節太郎が、同三二年には岡田亀代海が、同五二年には久保田久敬が、紹介している。その原拠は石本ヒチという元治元年生まれで、昭和三三年に九六歳で死去した老女の記憶談と手記による(写真6―7)。
 灯台の入口の上に「明治六年癸酉六月十五日初照」とある。瀬戸内海に二一四灯(昭和二二年度)ある灯台のうち、釣島灯台は六番目に早く造られた。淡路島の北端の江崎(明石海峡)が明治四年四月、下関海峡東口の部崎(福岡県)が同五年一月、紀淡海峡の友ヶ島が同五年六月、神戸の和田岬が同五年八月、塩飽諸島の鍋島(香川県)が同五年一一月で釣島より少し早い。
 藩政時代は、航路を示すために、白い石の塔に煙をあげ、夜は狼火を挙げていた。越智郡の関前村の岡村島の観音崎や、波方町の大角鼻や梶取鼻などはその例である。慶長年間(一六〇〇年ころ)に、豊後の姫島に小倉藩主細川氏が、かがり火台を設け航路を示した。『日本燈台史』によれば、文久二年(一八六二)に大洲藩主が長浜に灯台を設置している。
 図6―10は釣島灯台の性能と付近の海底地形・土質・潮流状況を示す海図である。釣島灯台は白色と赤色が二〇秒毎に光り、五八mは海抜で、二〇・五は光達距離浬である。海底のCは粗いコースの略、Fは細いファインの略、Sは砂のサンド、Shは頁岩のシェール、Rは岩のロックの略である。数値は深さのmである。潮流の矢印は時速のノットであり、ギザギザの線は海底電線の位置である。なお釣島灯台の位置は東経一三二度三九分、北緯三三度五四分である。


 灯台の工事と外人

 明治四年九月一一日に、釣島灯台の工事に着手した。その予備調査に、船の横に水車のスクリュウのついた船に、英国人技師のチャード・ヘンリープラントンらを乗せた日本の工部省(明治三年進水のフランス船テーボール号八〇〇トン)の灯台船がボートを降ろして、早朝釣島海岸に来た。当時島には八軒あったが、外人をみて、「子取りが来た」とて、驚いて女と子供は山林に逃げたと、当時七歳であった石本ヒチ(元治元年七月生)は詳細に当時の状況を語ってくれた(昭和二二年八月二一日と昭和三一年九月一四日と二回面談)。
 燈台を建設するので調査に来たことが判明し、安心して山から帰宅した。工事のため島外から三〇〇人もの人が来た。工事は三か年を要した。当時人間の肝をとって薬にする風評があった。日本人の中沢夫妻が建築請負のため同行した。彼等の居る家を探したら、興居島の泊に帰った富蔵の草葺の家の座敷が空いていた。ヒチさんの主人は熊蔵と称し、息子の順一が、中島の宮野への年貢の係をしていた等々。ヒチさんの記憶は驚異的であった。
 最初に釣島に赴任した外人はミッチェルと称し、ハーリマン・ウストラ・ハレスの四人で、ミッチェルは短気で乱暴だった。ハーリマンは親切だった。ハレスは最後に来た人で小さい体で、初代燈台長で、厳格な性格であった。明治四年に釣島の人家は八軒あったが、姓はまだなかった(昭和五八年度二二世帯)。
 燈台守りの初代ハレスより、昭和二二年は杉本耕作所長、同三二年は二九代の稲村所長、同五二年は四一代の所長であった。所長夫人が、釣島小学校の助教諭の時代もあった。昭和二二年のころまでは、四六時中、沖を航行する船を観測していた。
 昔は燈台の用弁がいた。明治八年に小林鉄蔵が日給一五銭で入った。その後石本順一・大西重兵衛・小林熊太郎が引き継いでいる。昭和四三年一一月一日、釣島灯台一〇〇周年記念日に当たり、親子三代勤続により、小林年松(小林鉄蔵の孫)が、海上保安庁長官より表彰された。
 灯台や吏員宿舎の花崗岩の石材は、広島県の倉橋島および山口県の徳山産を使用した。木材は建設用地の東側にあった周り九尺に及ぶ桧の巨木を使い、そのほかの木材は喜多郡の長浜と伊予郡の郡中から仕入れたのである。
 昭和二八年三月二七日に、自家発電装置になり、同三七年二一月二三日に商用電力を導入し、予備電を装置した。同三八年三月二〇日燈火看視無電設備ができ、同三八年四月一日から看守員を常置しなくなった。

図6-10 中島町釣島灯台の位置と信号

図6-10 中島町釣島灯台の位置と信号