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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

一 忽那諸島の農業


 畑作に生活をかける島

 忽那諸島に法隆寺の庄が置かれた七四七年の『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』や、官牧地の牛馬が増えて作物を食い荒らした八七六年の『三代実録』等の文書をみれば、すでに八・九世紀に忽那諸島で農牧生産が盛んに行なわれていたことは明白である。しかし近世に至るまで瀬戸内海の島しょ部に共通する畑作中心の零細農業の例外ではあり得なかった。
 天正一五年(一五八七)の太閤検地によると、忽那諸島の中心集落である大浦村で検地に記されている二二七人のうち、五石以上の者は僅かに二五人で、当時は五石以上で、ようやく一家の生計がたつといわれたことからみてもその実態は想像されよう。元禄六年(一六九三)の大浦村年貢は定米九〇石、定豆三〇石と記されており、共に現物で納められていた。『大洲秘録』による忽那諸島の産物をみても、黒豆・えんどう・白豆・ぶんどうなどの豆類が多く記載されており、「二神村諸作物人別約帳」をみても当時の畑作物がよくわかる。二神村は一七七六年の田面積七・七町、畑面積一七・八町の島であるが(『懐中万年鏡』)麦、粟、きび合わせて二〇五石を、五二八人で一日に五合食したとしても七五日分しかない(『二神村米井雑穀人別』)との記述があり、米を上納した後の雑穀でのきびしい生活であったのである(表6―1)。
 これらの在来型畑作物に対して、新作物として現われた甘藷(さつまいも)は、新しい主食として頼戸内農民の救世主であった。忽那諸島へは正徳年間(一七一一~一五)に越智郡の大島からもたらされた。そして生産は増大し、幕末から明治初年にかけては出荷されるようにもなった。大正初年から、昭和二八年ころにかけて、神浦を中心として澱粉加工工場が各所に建設され、加工農産物としての実績をあげたことをみれば、甘藷は換金作物としても貴重であった時代があったのである。


 しょうが・たまねぎからみかんへ

 忽那諸島で最初の商品作物として、しょうかが導入されたのは文政年間(一八一八~二九)であり、導入の功労者として中島町役場前に建てられた「生薑碑」に、その名を刻まれた島田藤七の生年も天明七年(一七八七)である(写真6―2)。このしょうがは食用・薬用として消費され、特に中島産は良質なので「種しょうが」として多くの需要があった。この栽培には多くの廐肥が必要であるが、長く和牛飼育の歴史を持つ忽那諸島では、このことが営農上合理的に結びついて、商品作物として成功させたものである(表6―3)。
 立間みかんの名をほしいままにする立間村(現吉田町)においても、しょうがは換金作物として導入され、明治末年五千貫を収穫したが中島のように定着はしていない(『吉田町史』)。反当収益は米や甘藷の五~六倍にもなり、明治一二年ころの農産物粗収入の約五〇%を占めたのをみれば、典型的な換金畑作物であったわけである(表6―2)。しょうがは大正八年(一九一九)から腐敗病が発生し漸減の傾向を示していくが、これに代わる換金作物としてのたまねぎは「根の食べられるねぶか」として明治三九年(一九〇六)ころ栽培が始まり、大正四~五年(一九一五―一六)には一町程度であったが、大正一二年(一九二三)には東中島村だけで栽培面積六一町、収穫高八四万貫に達した。また除虫菊も島しょ部の換金作物として各地に栽培されたが、中島でも明治三〇年(一八九七)ころから栽培され、昭和八年で八〇町、二万六千余貫を収穫する最盛期を迎えた。しょうが・たまねぎ・除虫菊について反当収益を比較するとしょうがが他を引きはなして有利であるが、その漸減をたまねぎと除虫菊で十分補うことができた(表6―3)。
 温州みかんは明治二〇年(一八八七)に(一説には明治五年とも言われる)東中島村大浦(現中島町大浦)に栽培され始めたと言われるが、篤農家や行政担当者が、その将来をみこして基礎的栽培を始めたのは明治中期以後である。そして本格的栽培が始まったのは大正中期から、昭和初期であり、約一五万貫の生産をあげるようになった。以後増加の一途をたどり、昭和一九年には一三八万貫を生産、二一年には約五分の一に減ったが、昭和三〇年ころからの柑橘の大好況に乗って三九年には県産の八・七%に達する一七四万貫を生産した。昭和五五年には全耕地の九四%が柑橘園となり、典型的な果樹単作地域となった。


 土地利用の推移と経営規模の拡大

 中島町の田面積は、安永五年(一七七六)と大正一〇年(一九二一)を比較すると、ほとんど変化せず一九〇~二〇〇haである。これに対し畑面積は、この間に約四倍近くに増加している。このことは山林開拓による畑面積の拡大を示すものであるが、大正一〇年と昭和五五年を比較すると、約二〇〇haあった田は全部畑に転用されており、山林の開墾も更にすすんで畑面積は安永五年の約七・五倍に達している。当然山林面積は、大正一〇年の一五七一haから昭和五五年には約三分の一の五九七haに減少している。かくして果樹園面積は全耕地の九四%に達し(県平均は四七・九%)、まさに水田・山林変じて果樹園となる、という単一栽培化現象によって県下有数の柑橘専業農業地域となった(表6―4)。なお普通畑は、昭和四五年以降は全耕地の約一・九%(約三〇ha)をわずかに保っているが、これは自給蔬菜確保の最少面積である。次に農家経営規模別農地面積についてみると、昭和四〇年と比較して一ha以上の農家が倍増しており、逆に〇・五ha以下の小規模経営は約四三%も減少している。一戸当たり平均耕地面積は、大正一〇年で〇・三六haであるが昭和五五年には〇・九一haとなり約二・五倍の増加である。最近の農地面積自体はもはや拡大の余地はないから、地域内陶汰現象による農家経営面積の拡大である(表6―5)。例えば昭和五〇~五五年の離農農家は一一七戸であるが、そのうち所有農地の売却が三五%、貸付が五六%であり、その結果営農面積が拡大したものである。農家経営面積(夫婦労働で)の適正規模をどこにおくかは、耕地の傾斜度、栽培品種、就業年齢等とかかわって単純には決められないが、営農者からは一・五~二haの声が高い。一ha以上の耕地所有農家が約ニ二%の大三島町、六五%の吉田町と比較した場合、その中間であってなおしばらくの陶汰が必要といえよう。前述の農地移動、特に貸地については、農協が全面的にあっせん役を果たしているのは適切なコントロールといえる。


 農業就業状況と専兼業別農家率

 農家率は五三・九%で(愛媛県二一・一%)純農村の地位を維持している・専業農家率は五〇・七%で県下第一の高率である(表6―6)。これは他産業の立地や町外通勤雇用が期待できない現況にあって、伝統を誇る中島みかんのブランドを背景に、後に引けない営農立町体制をとった現われとみることができる。農業就業者の年齢もまた、それを反映して六〇歳未満の専業労力は約六二%で、吉田町と共に県下で最も高率を示している。しかし、一五歳未満の農家人口が約一〇%しかないのは近い将来に大きな問題を残すことである。
 兼業については、第一種兼業農家が兼業農家の約五八%を占めており純農村型である。また兼業種類別農家については、自営兼業農家(四四%)のうち約五〇%が漁業兼業であるのが特色であるが、これは漁業資源が豊富なためということもできる(表6―6)。農業就業者の意識調査では、四〇歳未満の青年労働層に意欲を持つ者が多く(約六〇%)、後継者の組織的活動とも合わせてその積極性に将来への期待が持たれる。


 農業粗生産と主要換金作物

 明治以後の忽那諸島の二大換金作物はしょうがと柑橘であり、それを補い代替する作物としてたまねぎ・除虫菊があり、また養牛があったといえる。しょうがの最盛期は大正年間であるが、すでに、明治一二年(一八七八)の大浦村粗生産の中では約五〇%を占めており、最盛期には農業粗生産の七〇~八〇%を占めたのではないかと推察される。中島町大浦の篤農家高岡寅行は、明治末期から現在にいたる自家農産物販売会計簿を詳細に残しているが、それをみてもしょうがと柑橘が換金の七〇~八〇%を最盛期に占めていることがわかる(表6―7)。柑橘は昭和三〇年代から農業粗生産の八〇%以上を占め、忽那諸島の単一換金作物の典型となった。冷害・干害の影響(昭和四二年の干害、同五五年の冷夏)などで多少の変化はあるとしても、今後とも八〇%台の地位を保っていくものと考えられる(図6―4)。なお副業として、かつて木綿縞や薪炭の生産があった。家内工業としての木綿縞は、糸を仕入れて加工賃を得る方法であるが、みかんの最初の導入者である森田六太郎が木綿縞の行商で和歌山を訪ねた時、みかん苗一〇〇本を持ち帰って植えたと伝えられるのも因縁であろうか。薪炭の副業も古くからおこなわれ「割木船」といわれる帆船が四~五隻あって、呉・広島や三津浜へ運搬していたが、大正期からの山地開墾にともなって漸減していった。

表6-1 忽那諸島二神島の畑作物

表6-1 忽那諸島二神島の畑作物


表6-2 明治12年大浦村における主要農産物の栽培面積および粗生産額

表6-2 明治12年大浦村における主要農産物の栽培面積および粗生産額


表6-3 東中島村の午・しょうが・たまねぎの生産推移

表6-3 東中島村の午・しょうが・たまねぎの生産推移


表6-4 中島町の田・畑面積の推移(ha)

表6-4 中島町の田・畑面積の推移(ha)


表6-5 中島町の経営規模別農家の割合(%)

表6-5 中島町の経営規模別農家の割合(%)


表6-6 中島町の専・兼業別農家数(戸)

表6-6 中島町の専・兼業別農家数(戸)


表6-7 中島町の特定個人農家の粗収入割合

表6-7 中島町の特定個人農家の粗収入割合


図6-4 中島町の部門別の農業粗生産額割合

図6-4 中島町の部門別の農業粗生産額割合