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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

五 上灘の渓口集落


 灘町の発展

 大洲藩が肱川河口の長浜に船奉行所を置いたのは元和元年(一六一七)であったが、上灘川河口にも同様に藩の倉庫や番所を置いたのは寛永年間(一六二四~一六四三)のことであった。灘町は下浮穴郡一二か村(現双海町内の串村・大久保村・上灘村・高岸村・高野川村と現内子町に属する麓村・境村・石畳村・現中山町の出渕村・中山村・佐礼谷村。現広田村の総津村)の年貢米の集散地であった。「大洲藩上灘御蔵」に貯蔵された米は、上灘浦から船積みされ大阪蔵屋敷まで送られた。明治四三年(一九一〇)の『上灘郷土誌』には次のように書かれている。

「御領内の上灘村は人住稀有にして恰も森林渓谷重疊し、雑木日光を蔽ふ未開の地なり。時に寛永年間喜多郡長浜の住人久治左衛門、其の子叶助は上灘村庄屋役被仰付諸方より漁師・百姓を召集(中略)何国人たるを問はず召集開墾を督励し(中略)自然に茲に移住し、漸次殖産に傾注す」

とある。『大洲藩規則集』の寛政一〇年(一七九八)領内領外物産移動手続によると

「内山筋から蝋・櫨・蜜を犬寄越に出すことは差し止め、上灘出津に取りはからうべきこと」

と記録されており上灘は泉貨紙、櫨・蝋などの林産物の集散地として繁栄をほこった。桁行一五間、梁行四間の上灘御蔵とそれに付随した番所、役人の詰所を中心にして紙地拂商・荷夫木問屋・材本問屋などが店を構えた。藩の廃止とともに番所は撤去され上灘経由の積荷は次第に減少した(犬寄峠から郡中にぬける物資が増加した)。しかし一方では晒蝋の生産が明治初年より上灘地区で盛んとなっている。廃藩後の上灘からの積み出しは、米や和紙から薪が中心となっていった。住田屋・大和屋などの大きい薪炭問屋が運搬船を所有し、年間二〇〇〇万貫の薪が阪神方面に出荷されていた。


 林産物の出荷

 上灘の晒蝋業は、内子より最盛期が二〇年遅れ、内子地方が衰退してからも盛んであった。『上灘郷土誌』によると藩政期にも小嶋屋・本田屋・要比須屋などという業者が存在したが、大半は明治になって開設している。明治四三年当時の晒蝋業者八軒の氏名とその開設時期は本田浅吉(一五〇~一六○年前)、岡崎米次郎(慶応元年)、若松茂次郎(明治四年)、丸山磯吉(明治九年)、美野利吉(明治二三年)、浮田鶴松(明治三八年)、福岡馬之助(明治四一年)、岡崎正(明治四二年)であった。晒蝋には広い敷地が必要であったので、灘町でも一丁目の、現在の鉄道陸橋周辺部に晒場があった(写真5―4)。村上節太郎は、上灘が他地域に比べて有利であった地理的条件について主に次のように述べている。(一) 日照時間が盆地状の内子に比べてかなり長いこと。(二) 輸送費が安くついたこと。原料の七割が周桑郡の中川方面であった。またそれが良質であった。(三) 上灘の業者は生蝋搾りと晒蝋を兼ねており生蝋業者に中間利潤を抜かれなかったこと、(四) 生産能率を高める努力がなされ雇い人も下灘の方がよく働いたことなどである。戦後も長浜の喜多製蝋の下請として存続していたが、昭和四五年廃業している。
 明治期、上灘上流の曳坂および犬寄峠より中山方面の林産物が減少したとはいえ、河口の灘町に集められたのに対して下灘では、断層山地の三つの峠を通して内子方面の林産物が出荷された。東から仏峠・鳥越峠・朝ヶ峠であり、朝ヶ峠の往来が一番盛んであった。薪炭と木材の出荷が主体であったが「猫車」と呼ばれる四輪の引き荷の道具で、六〇〇~七〇〇㎏の物資を運搬した。聴き取りによると、海抜五〇〇mの峠から海岸の集合所まで一日二往復したという。特に往来の多かった朝ヶ峠には、奥西・奥東地区の住民が常時四〇人程度かかわっていたという。米一升が一二銭五厘の時代に、三六~四〇銭の酒一升分の賃金で働いたというから労賃は安いものであった。しかし、奥西・奥東・富岡・閏住の農家にとっては現金収入の面において大きな魅力であった。北川満樹は、「うねごえ通婚」に着目し日喰・閏住・富岡の各集落は旧満穂村と強く結びつき、奥西・奥東は旧柳沢村と強く結びついていたとしている(図5―8)。時代の進展に伴う交通の変革による生活圏の変化、あるいは生活様式の変化によって、「うねごえ」の内子と伊予灘海岸の結びつきは弱体化した。


 街村としての灘町

 灘町における現在の宅地の地価等級を地籍図の中に図化すると、由並小学校前より海岸線に平行した街村を示す地割が読みとれる。灘町三丁目の街道筋であり、かつて松並木が植えられていた浜は、港町として栄え六反帆の船が出入したが、上灘漁港の改修、国道の整備によってその面影はない。地価等級は、島綿酒造の奥島家付近が最高で三九等級を示している。明治九年(一八七六)の地籍図では、蔵・番所のあった由並小学校前より上灘川に沿った旧道(かつて晒蝋で富を築いた岡崎家などの重層な屋敷が残っている)にかけて、宅地が短冊状の地割を示しており、藩政期よりL字状の市街地化した灘町が推測される。なお現在では、双海町役場前から上灘中学校前までのびる直線道路が幹線として機能してきており、反対派をおしきってすすめた井上熊太郎町長の先見をうかがい知ることができる(図5―9)。
 明治末期の商工業状況をみると、大栄口、高野川、高岸などの道端の茶店や駄菓子屋を除けば、ほとんどが灘町の商工業構成を示している。宿屋業が五軒もあったことは当時の繁栄を物語るものである(表5―8)。藩政期の米・紙を除けば、明治期になって最も活気を呈したのは薪材商業とその運送業であり、盛時には灘町だけで積込み人夫が六〇人も生計をたてていたという。大洲藩の在町として形成され、位置づけられてきた灘町は廃藩後も、中山・内子方面の林産物の積み出しと、農山村への日用雑貨品の販売等の商業活動でその機能を保ち続けてきた。村上節太郎は、灘町をその発達過程から渓口集落としてとらえている。すなわち、地理的条件の異なった山地と、臨海部の生産物の交換の場として発達した宿場町としての機能に着目したものである。時代の進展に伴う交通の変革と生活様式の変化は、中山・内子の山間地域と伊予灘海岸の結びつきを弱体化させたことは先述したが、こうした中で灘町の機能も渓口集落としての機能を弱め、灘町三丁目の古い格子戸のたたずまいなどに往時が偲ばれるのみである。

図5-8 双海町下灘地区部落別うね越え入婚の割合(町外入婚者に占める割合)

図5-8 双海町下灘地区部落別うね越え入婚の割合(町外入婚者に占める割合)


図5-9 双海町灘町(中心部)の宅地地価等級図

図5-9 双海町灘町(中心部)の宅地地価等級図


表5-8 双海町上灘町における主要商工業

表5-8 双海町上灘町における主要商工業