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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

一 北条(風早)平野の稲作と蔬菜栽培


 稲作

 北条市内の水稲作付面積は明治・大正を通して一四〇〇ha前後で推移していたが、戦後は一三〇〇ha以下になってしまった。特に昭和四〇年代以後水稲の作付面積は急激に減少している。これは、多量の過剰米対策として打ち出された生産調整及び五三年から始まった水田利用再編対策により、稲にかわる転作が推進されたことによるものである。この結果、本市の場合も、作付面積が最も多かった大正時代に比較すると二分の一に減少している(表4―4)。
 明治時代の実収高は変動が大きく、豊作年と不作年とでは倍以上の差があった。大正時代になると安定した収穫を得ることができるようになったが、これには明治三九年(一九〇六)県下のトップを切って施行された八反地の耕地整理事業をはじめ大正末までに市内一〇か所で実施された耕地整理の成果によるところが大きい。当時の耕地整理は区画整理のみならず潅漑・排水工事も行ない、干害や水害を防止し、農産物の増産を図るものであった。特に八反地の耕地整理事業は一毛作地をすべて二毛作地に改良するなど多くの成果を挙げたため、県下の注目する所であった。
 昭和に入ると作付面積及び収穫量とも漸減している。これは、当時においてもすでに農村の労働力が軍需工場や軍隊に吸収されたり、山間の部落では離村が相次いでおこったため放棄した水田も多かっかことによるものであった。全体的には安定した生産をあげていたが、昭和九年の大干害では収穫量は前年の二分の一という大被害をこうむった。恒久的な潅漑対策の必要性に迫られた当地方では、このことが契機となり、一二年に松田喜三郎北条町長らの尽力により、北条町他二か村用水改良事業組合が設立され、俵原池堰堤の築造が五か年の歳月を費やして行なわれた。完成した俵原池は、北条・正岡・難波の水田約五〇〇haを完全に灌漑することができ、干害の心配は一掃された(写真4―2)。
 近年実施されている減反政策により作付面積は急激に減少しているが、実収高にはあまり変化が見られない。これは不良田を減反の対象としたこと、単位面積当たりの収量が増大していること、病虫害の被害を最小限に押さえることが可能となったことなどがあげられる。


 麦作

 水田裏作の代表作物としての麦作は、本市においても、明治から戦前まで一貫して一二〇〇~一三〇〇ha程度栽培されてきた。これは稲作より二〇〇haほど少ないが、戦前においては営農者、ことに小作人にとっては重要な収入源であった。しかし昭和四〇年代以後、麦の需要の減少に加えて、より高収入をあげることのできる他の裏作作物への転換が急速に進むにつれ、麦類の栽培面積は急激に減少していった。
 五〇年以後は栽培面積及び収穫量はわずかながら回復している。これは、四九年以後実施された麦生産振興奨励金の交付をはじめとする麦作振興政策の効果である。しかし、五七年現在で六〇haにも満たなく、収穫量もわずか約二〇〇トンである。これらの量は、麦が最も多く作られた昭和一六年(一三七〇ha、三五四九トン)に比べ、面積では二五分の一に、収穫の量では二〇分の一に減少している(表4―5)。


 蔬菜栽培

 北条平野は従来より米麦二毛作地帯であったため、水田裏作として収益性の低い麦作に代わって蔬菜栽培が急速に拡大していった。たまねぎについては、昭和三〇年代後半より市内の各農協が積極的に取り入れ一大産地を形成していった。このような実績に基づき四一年八月一日付けで、北条市が野菜出荷安定法に基づく野菜指定産地に指定された。それ以後合併農協の指導のもとに安定した生産をあげているが、指定産地になった場合、出荷は三分の二以上を共同出荷とすること、また二分の一以上を指定消費地に出荷することが義務づけられており、北条市の場合も集荷・出荷の一元化を実施している。五七年度の栽培面積・収穫量はそれぞれ一一一ha、五四七二トンで、いずれも最高を記録した(表4―6)。
 そらまめの栽培面積、収穫量も着実に増加して来ているが、これは青ざやのそらまめが大都市で好評であったため、松山市周辺で「清水一寸そらまめ」の産地が拡大してゆく中で、北条市においても特産地化か進められて来た。価格が比較的良いことで面積は拡大され、五七年度には五〇haに達しているが、一時に比べて漸減している。連作できないことが欠点であり、これらを克服することが今後の課題であろう。
 たまねぎ・そらまめ以外に特産地化か進められているものにキャベツがある。キャベツも四〇年代まではごく少数が栽培されていたにすぎないが、五〇年代以後栽培面積は増加し続けている。五六年一月二三日付けで、北条市ではたまねぎに次いで二番目の野菜指定産地作物となっており、今後も安定した生産をあげることが見込まれている。
 春まきじゃがいも、えんどうのいずれも、近年は各々三五ha、一二ha程度で推移しており大きな変化は見られないが、水田利用再編対策との関係上今後の推移が注目される。


 俵原池及びその他の溜池

 年間降水量が一三〇〇~一五〇〇㎜の瀬戸内海沿岸地域では水稲栽培にとって溜池は欠かせぬものであり、おびただしい数の溜池が築造されてきた。北条市内だけでも二五三の溜池がある。築造された年代は明治以前とされるものが二一%、明治時代のものが五三%であり、昭和時代のものはきわめて少ない(表4―7)。
 溜池のほとんどはきわめて小規模なものであり、溜池の九〇%までが灌漑面積三ha以下のものであり、一〇〇ha以上は俵原池のみである。
 昭和九年に当地方は歴史的な大干ばつに襲われ、米の収穫量は前年の二分の一以下となり、多くの農民が苦しんだ。このことが契機となり、一二年一〇月、一町二村による用水改良事業組合が設立され、これにより比較的水量の多し立岩川の一支流萩原川の中流に堰堤が築造された。堰堤の規模は長さ一二〇m、幅七m、高さ二五mであり、周囲四㎞、面穫一二ha、貯水量一〇〇万トンの人造池が造られた。これが俵原池であった。完成には五か年の歳月を費やし、延人数一四万三六〇〇人、総工費三八万円に及ぶ大工事であった。毎朝数百人もの人が手に手に道具をもって山を登る姿が見られたとのことである。一七年三月に完成したが、これによって北条・正岡・難波の水田約五〇〇haを完全に灌漑することができるようになったため、以後干ばつの被害を受けることはまったくなくなった(写真4―3)。


 愛媛県農業試験場

 明治三三年(一九〇〇)愛媛県立農事試験場が松山市余土に創設され、同四五年(一九一二)に松山市道後に移転した。以来松山市南町の本場が愛媛県における農業の試験研究の中心地となってきた。しかし、同地区の都市再開発等により、五七年四月から三か年整備計画で北条市上難波及び庄への移転が行なわれている。土地面積は二六・五haで、南町本場より四倍も広い上地を有効に利用し、各種の試験・研究を行なうことが予定されている(写真4―4)。
 ほ場には水稲作試験地や特産野菜採種試験地のほか耕地生態系試験地・総合技術組立試験地など、従来見られなかったものも取り入れられており、水田利用再編成に関連する試験・研究も積極的に進められるものと期待されている。用地買収は一八億円余ですでに完了しており、現在はほ場整備及び建物建設が急ピッチで進められている。建物は付属施設(約六〇〇〇㎡)及び各種温室等の研究施設(約四〇〇〇㎡)の建設が計画されている。

表4-4 水稲作付面積及び実収高の推移

表4-4 水稲作付面積及び実収高の推移


表4-5 麦の作付面積及び収穫量

表4-5 麦の作付面積及び収穫量


表4-6 蔬菜栽培面積及び収穫量

表4-6 蔬菜栽培面積及び収穫量


表4-7 北条市の溜池

表4-7 北条市の溜池