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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

三 郡中港

 郡中の名称

 文化五年(一八〇八)七月二九日 雨の日、伊能忠敬一行一六名が測量に来て、米湊灘町の本陣の宮内小三郎宅と別宿宮内惣右衛門宅に宿泊したときは、郡中の名はない。松前方面の人は郡中地方のことを替地と称していた。文化一四年(一八一七)正月二七日に、替地一円を郡中と改称し、郡奉行出張所を米湊役所と呼ぶよう、藩主から布告された。文化一四年当時の港の万安港は、万事安全を希う意味であり、郡中は伊予郡の中心地の意味である。旧万安港は内港で、今は埋立てられ、五色浜の前の駐車場になっている。替地とは周知の如く寛永一二年(一六三五)八月、風早郡の大洲領飛地と、伊予郡の松山領とを交換したからである。灘町とは同一三年に上灘村の宮内九右衛門、清兵衛の兄弟が、米湊村の分村に来住し、開拓したからである。下吾川村の分村を小川町と称し、後に湊町と改称した。


 郡中築港の歴史

 天保六年(一八三五)豊川市兵衛祐盛の書いた『郡中波戸普請帳』という記録(伊予史談会蔵)があり、『伊予市誌』はこれを詳細に解説している。文化九年(一八一二)、大洲藩代官所の手代の岡文四郎重道らが、波戸の必要性を痛感し、町民の要望により、世話方豪商の宮内一族四人の協力のもと、藩の融資を得て、波戸普請に着工した。郡中は地勢上、沿岸潮流と西の卓越風のため、常に砂が堆積し、港が浅くなる欠点がある。
 初年度の工事は重波戸二六間半の構築であった。これは根置八間、高さ三間一尺七寸、馬乗二間半の規模であった。必要な石材は忽那島(中島)と隣の森村から運び、材木は高野川村から購入した。次いで文化一二年には、重波戸の延長工事が施行された。その費用は市中・旅人の寄附、頼母子、船床ならびに村々の合力のほか、大洲藩と城下と郡奉行役所から下附された。以後毎年のように工事は進められた。
 築港の工事は文化九年から天保六年にわたり二四年間に及んだ。文政六年(一八二三)には波戸役所を設けるとともに、帆別銭を徴集した。入港に対して沖帆一反につき銭一五文の運上(税)を課した(写真3-32)。
 郡中港の港湾整備はその後も継続され、明治三三年武智町長時代に、延長波止六三間、砂礫坪四一四坪の浚渫を行った。藤谷町長時代の明治四四年から同四五年には、七一九九坪の埋立と、西防波堤二〇間の新設、物置場、灯台、港内浚渫、四〇三間の護岸工事を施行した。
 大正元年には新ナギと灯台ができた。同三年には八一四〇坪の埋立を行った。昭和七年の時局匡救対策土木工事として、西突堤の増築がなされた。昭和一二年木村町長時代に、県営で外港の築港に着手し、昭和一九年三四〇mの北防波堤ができた。戦後昭和三三年、城戸市長時代、起工以来二二年を要して、防波堤・護岸・岸壁・臨海道路・埋立荷揚場の大工事が完成した。これで一〇〇〇トン級の船が岸壁に横付けできる近代港となった。このとき郡中港を伊予港と改称した。
 昭和三三年五万坪の外港の完成を記念して、五色浜公園の北端に「伊予港竣功記念」の碑が建てられた。五色浜公園には、このほか岡文四郎の墓碑(天保一一年)、郡中巷衢創業原誌碑、旧灯台、粥喰山、元町長の胸像など、郡中港の歴史を語る史跡が並んでいる。


 粥喰山

 安政元年(一八五四)一一月五日の大地震で、郡中港は「波戸石垣大痛み」(塩屋記録)とあるように、被害甚大であった。なお大暴風もあり、高潮で町裏は洗われた。石垣崩壊の修理は翌年春から、大洲藩の工事で行われた。石工は忽那島から動員され、波戸西の石垣にも灯台が設けられ、三灯台となった。大洲藩は文久元年(一八六一)二月、波戸下の砂の浚渫を計画した。当時は物価が高く、町内に窮民が多かったので、救済を兼ね工事を行った。窮民出動は湊町組と、灘町三島町組と一日交替制にし、賃金は一人銀札三匁、以下割下げて子供も参加した。昼時と八つ時には、粥と味噌汁の給食があった。
 現在の五色浜神社・彩浜館の地所は、幕末から明治維新に、港内の土砂を浚渫して盛り上げた高さ数mの小高い丘である。いまこの丘を、浚渫工事の休憩時に、粥を食べたので粥喰山という。


 帆別銭と入船範囲

 郡中港では港の浚渫費や運上金を得るため、文政六年(一八二三)一〇月、波戸役所を設けるとともに、帆別銭を徴集した。入港に対して沖帆一反につき銭一五文の運上(税)を課した。
 「郡中波戸普請帳」(二一頁)によれば、入船は地元のほか讃岐・播磨・石見・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・豊前・豊後・今治・西条・三津浜・高浜・宇和島などからであった。天保五年(一八三四)一一月から翌年一〇月までの入船数が月別に記してある。旧暦で七月が閏月で一三か月の合計が一二七五隻で、反数(帆前船の大きさ)は一万〇五七六反で、帆別銭は銀二貫二六六匁三分であった。但し忽那島の諸船と地元の漁船は、帆別銭を徴集しなかった。


 富籤・遊郭

 明治維新には、郡中港の港湾の浚渫費が不如意のため、いろいろ工作している。明治元年には港修繕に要する運上金(税)を得るため、灘町天神社内で、富籤が行なわれている。そして明治二年(一八六九)には、南突堤に四〇間の堤防が増築された。明治三年には港の埋立地の相生新地に遊郭を設け、町の繁栄と財源確保をはかった。しかし同四年にはともに廃止された。
 これに対して三津の朝市(元和五年以来、魚市場)で有名な三津浜港は、松山藩の水軍の根拠地であった。元禄四年の古地図をみると、当時の造船所・船蔵・番所や錯綜した町屋や組屋の配置がよくわかる。三津浜には須先や中須賀の町名の如く砂嘴が発達していた。天保一四年(一八四三)に三津浜の内港に、長崎の出島のような、稲荷新地を築き、遊郭を置き繁栄した。郡中港と異なり昭和三三年まで、三津の遊郭は赤線地域として存続していた。


 海上定期航路 

 東に三津浜港、西に長浜港があるので、戦前にも、大阪商船や宇和島運輸の定期便は、郡中港を素通りするものが多かった。現在の伊予港には、瀬戸内海の定期便はいずれも寄港せず、物資の輸送はトラック便に奪われ、昔の俤は見られない。
 大正一四年版の『伊予郡の現勢』をみると、戦前の郡中寄港の大阪-若松線と、三津浜-三机線の定期便の時刻表が出ている。大阪-若松線は大正四年(一九一五)五月から始められ、若松行は毎日午後七時に郡中港を出て、早朝に門司と若松に着くので、朝鮮行きの関釜連絡船や台湾航路に乗るのに、近みちで便利であった。また門司から長崎や熊本鹿児島行きの列車に乗るのによかった。大阪行は朝七時半に郡中港を出た。船は三〇〇トン級の大井川丸と利根川丸の二隻が交替に往復していた。また戦前には大阪から大連行の照国丸が毎週郡中港に寄港していた。
 三津浜―三机航路は、宝安丸と阪予丸が交互に運航していた。時間は朝六時に三津浜を出て、七時前に郡中へ寄港し、上灘・豊田・長浜・櫛生・出海・磯崎・喜木津・伊方・大成を経て三机に着いた。直ちに引返して夕方五時に郡中港に寄って三津浜に帰る。また朝三机を出た阪予丸は午前一一時に郡中に寄港して三津浜に着く。正午に三津浜を出て、郡中・上灘・豊田・長浜その他各港を経て三机に帰るのである。したがって郡中港へは毎日午前と午後と上り下り二回寄港していた。
 昭和二六年当時は大阪-郡中-宿毛(隔日)の定期便が通っていた。
 国鉄予讃本線が伊予上灘に開通する昭和七年ころまで宝安丸は通っていた。そのころ、大洲から松山に出るには、愛媛鉄道で長浜に出て、宝安丸に乗り、郡中港に上陸し、伊予鉄道で松山へ来るのが普通であった。昭和の初めに大寄峠越えの三共自動車や、上灘経由の予州自動車のバスがあったが、六人乗りの小型のため、車両も少く、バスによる大量輸送はできなかった。


 郡中の商圏の拡大

 慶応二年(一八六六)に執筆された『愛媛面影』に郡中のことを半井梧庵は次のように書いている。

此所は山中より出る産物伊予砥をはじめ、砥部の陶品そのほか材木・綿・砂糖などすべて此の郡中に出して、それより船馬等にて諸国に運輸せり、因りて旅客の往来常に絶えず、商家も又日々繁栄して、人姻ますます盛なり云々

とある。

 日下部正盛の『伊予のあしあと』によれば、明治二八年(一八九五)の郡中の移出物品は、「米六万石四万八千円、材木二万四千円を筆頭に、綿・砂糖・酒・摺付木・縄・煙草・種油・酢・炭・砥石・椋梠皮などで、金高にして十万四千六百参拾円」であった。郡中に砥部の陶器が出ていないのは、松前港がその集散地のためである。
 明治三八年に犬寄峠の新道が完成したので、内子・中山・広田・小田方面の物資を上灘港に出さず、郡中港に集散するようになり商圏が変わった。戦前戦後のトラックの発達で、内山・肱川地域の木材輸送が、肱川の筏流しをやめ、馬車やトラックで郡中に集散されるようになった。伊予市には今でも郡中灘町を中心に、五十余軒の大小の製材業者や竹材業者が分布している。


 明治中期の郡中の住民性

 明治中期の郡中の人士には積極的な人が多かった。明治一八年(一八八五)に、郡中開町二百五十年記念として「郡中巷衢創業之碑」を灘町住吉公園の五色浜神社前に建てる計画をした。山下清風撰文で河東坤の書で、明治二七年七月二二日に竣工した。豊川渉や宮内治三郎・同直吉・同六郎右衛門・本三郎の有志が発企人である。明治一九年には郡中銀行を創立している。明治二七年には道後温泉の本館建築に対抗して、郡中の人士は彩浜館(公会堂・貸席)を建てた。明治三八年にはロシア軍捕虜を彩浜館に招待し慰安している。同二八年には武智町長が郡中港の浚渫を県知事に請願している。明治二九年には宮内治三郎を中心に地元の力で南予鉄道、後の伊予鉄道郡中線を開通させている。