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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

三 道後平野の条里集落


 条里の分布

 花崗岩山地を背後に控えた北条平野、松山平野のうちの石手川の堆積面は、主として花崗岩の風化した微細な土砂で形成されている。このために開発も容易で、したがって、古代に開発された条里制地割が、海岸低湿地を除く堆積面の全域にわたって分布しており、扇状地面も例外ではない。しかしこれに対して、松山平野のうち重信川水系の堆積面には、久米付近までは条里の地割は分布するが、これ以東の広大な扇状地面には全く分布していない。松山平野の南限は、八倉~向井原に至る伊予断層崖で限られ、この崖下に複合扇状地が配列をしている。この部分にも傾斜方向とは不整合に条里が一部食い込んでいる。伊予市北山崎地区には、五mの段丘崖で囲まれた隆起扇状地がある。ここには伊予郡の正方位の条里とは異なる北四五度西の地割が分布している。
 条里制地割は、明治四〇年ころから大正期にかけて進展した耕地整理や最近の圃場整備、都市化等で消滅化しつつある。このことは、図に示した明治三六年(一九〇三)測図、すなわち、耕地整理の進む以前の地形図を見ることによって一層明らかになる(図3-35)。しかし、耕地整理の実施にしても、一町(約一〇七m)に配列する坪割は、そのままの位置で道・水路、畦畔が整備され、坪内部の反割については一〇筆から一二筆に組み替えられ、したがって、坪割そのものについては痕跡をとどめたものが多い。慶長七年(一六〇二)~翌二年にかけ、松山城築城にともなって城下町が建設されたが、この町割は条里と同一の方向で、したがって、条里割りがベースとして利用され、このため町割も短期間に実施されたのではなかろうか。


 条里と境界

 条里制地割の分布する地域では、旧流路等部分的な地割の乱れは別として、集落の領域を限る境界は、小はホノギ(小字)から、大は市町村、郡境に至るまで、坪界線あるいは里界線に沿うたものが多い。このうち里界線に沿うているものは、例を挙げると旧北条町・正岡村と旧河野村、旧和気郡和気村と旧久枝村、旧潮見村と旧久枝村、旧温泉郡雄郡村と旧久米郡石井村(和泉…石手川の改修で南北に分断された。)、旧温泉郡素鵞村と旧久米郡石井村、旧温泉郡雄郡村・生石村と旧伊予郡のうち重信川北岸にある旧余土村・旧垣生村、伊予郡旧北伊予村と旧南伊予村等である。これらは条里地割成立の場合の里界線が、その後領域の変更を繰り返す中で、村落境界の一部分として受け継がれてきたことを意味している。


 条里集落

 条里の地割が、ただ単に集落とかかわりあっているだけでは条里集落とは言わない。条里集落は、あくまでも条里制の成立で発生した計画的な集落を指すものである。しかし、この成立を示す記録も望めないし、条里制実施についても大化前代説もあって、起源についても必ずしも明確とはなっていない。村落編成についても、郷戸(大家族制)か房戸(小家族制)か、その数も五〇戸又は三〇戸等の問題もあり、厳密な意味の条里集落を求めることは不可能であろう。そこで、やや広い意味での条里集落について考えることにしよう。
 さて、集落の領域を四辺とした場合、このうちの三辺以上が里界線に沿っていること、またこの領域の中央部に中心的な集落が分布すること、この二つを条件として条里集落を規定した場合、松山市高木町と伊予郡松前町横田の二つの村落がこれに該当している。このうち高木は、旧和気郡に属している旧村の高木村である。東は大内平田、西は和気浜、南は安城寺、北は馬木と接している。この周囲の四辺は、馬木との境界線の一部を除いて、すべて里界線で囲まれ、中心集落は一六・一七・二〇・二一ノ坪の位置にある。なお高木の北にある馬木は、古代和気郡にあった南海道の駅家に比定されている。
 伊予郡松前町横田は、同郡に属した旧村の横田村である。文明一三年(一四八一)の日野景次の谷上山への寄進状に「壹川竹内分 合横田一反 (下作)東野彦三郎 御祈念ハ諸願成就」とあって、記録からも中世にその所在が分かる古い集落である。村域は里界線で囲まれた一里の三六個の坪と、北の里界線に接合する三二個の坪を合わせ都合六八個にまたがっており(図3-36)、東は上三谷、南と西は下三谷と接している。このうち東の上三谷は二辺が里界線に沿い、又西の下三谷の水田地帯には、七・十八・はたち、北十四、中十四、南十四の遺存坪名もあり、共に典型的な条里地域であることを示している。集落は二か所に分布し、このうち、南にあるのが本村で、里のほぼ中央、すなわち、二二坪を中心位置としている。北部にある集落は仲台と呼び、〝オキ〟〝オオキ〟と通称している。これは集落から遠く離れた田圃の意味で、集落発生の新しいことを示している。沖台の中央を流れる川は、大谷川で天井川を形成しており、この川に沿うた東部に畑地が集中しているのは、氾濫による堆積の結果である。大谷川の北にある三二個の坪領域は、重信川水系の堆積面で、東西方向に傾斜し極めて低平で地割は長地型が多い。これに対して大谷川以南の地域は、伊予断層崖を流下する大谷川・長尾谷川等の短小な河川の沖積化によって形成され、傾斜は以北に比較して大きく、その方向も東南~西北に傾き、楠本池・蓼原池もこの傾斜に合わせ引水に便利な東南に位置している。地割も傾斜に対応した半折型が多い。(この項は池内長良の執筆である)

図3-35 道後平野の条理図

図3-35 道後平野の条理図


図3-36 松前町横田地籍図

図3-36 松前町横田地籍図