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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

一 伊予市の削り節業


 起源と名称

 戦前は「郡中の花かつお」で知られていたが、郡中は昭和三〇年に市制を施いたので伊予市となった。「削り節」に統一され、鰹節を原科とするものだけを、「花かつお」と称する規定になった。これは昭和五一年からで、農林大臣(大石武一)告示による品名規格で、原料名を表示することになった。花かつおの花とは薄片のことである。
 削り節の起源は大正二年(一九一三)、福山市川口町の安部和助(明治一九年生まれ昭和三七年歿)(戦時中全国の会長)が削り節機を発明したのが最初である。郡中の岡部仁左衛門がこれにヒントを得て創業したのが大正五年(一九一六)、翌六年に城戸豊吉が創業、明関友市が翌七年に創業している。郡中のこの三企業の敷地が、図3-26のように隣接しており、三者が大正前期に相次いで創業し、その三創業者の生い立ちが似ており、この三者で全日本の削り節生産の約五〇%を占めているのが特色である。


 削り節御三家の生い立ち

 伊予市の削り節の創始者の岡部仁左衛門は明治一五年(一八八二)、米湊村(現伊予市)に生まれ、明治三八年(一九〇五)から海産物商を始めた。海産物の販売で広島・阪神・名古屋方面に出張して、福山市の安部和助が削り節を製造しているのを知り、これにヒントを得て削り節機を発明した。時に大正五年(一九一六)である。郡中の名越仁吉の鉄工所で二~三台造らせ、当時男女従業員は数名であった。篠崎勇(明治三八年・一九〇五生まれ)は小学校五年生であったが、アルバイトに日給四〇銭で働き、アツシをモーターに挾まれ、あやうく怪我するところであった。削り節機は手回しから足踏み、動力と改良された。仁左衛門は郡中町の商工会長や町長を勤め、業界はもちろん、町の発展に貢献した。昭和三五年、七九歳で病歿した。天理教会前に銅像が建てられている。第二代の岡部義雄は養子で、経営を継いだが、投機で失敗し、昭和四三年九月、ヤマニを弥満仁KKに改組し、手を引いたのは遺憾であった。先代の時代は常にヤマキを上回っていた。工場と厚生施設の敷地は合計六七八〇坪である。
 ヤマキの創業者の城戸豊吉は明治二四年(一八九一)に北山崎村尾崎(現伊予市)に、六男一女の長男として生まれた。松山中学・弓削商船学校に学んだが、家庭の事情で明治四一年(一九〇八)中退し、翌四二年一九歳で、栄町で海産物商を始めた。その後米穀商を営み、尾崎では地曳網の網元であった。大正六年(一九一七)、二七歳のとき大阪で削り節機を見て、三台購入して始めたという(年表)。一説には岡部仁左衛門が、削り節で儲けているので、篠崎房衛が、すすめて始めたともいう。大正七年(一九一八)の有名な郡中の米騒動には、城戸は網元だったので、網子が防止して難を免かれたという。城戸豊吉は削り節の日本一になっただけでなく、昭和一五年の合併後の初代町長になり、同二七年再び町長となり、伊予市発足と同時に、初代市長となった。昭和三八年には名誉市民の称号を贈られたが、昭和四〇年七月一四日、七〇歳で病歿した。
 経営は大正一〇年(一九二一)に米湊に工場を設け、弟の喜市・坂夫・隆嘉が協力した。削り機も二〇台にふやし、販路を開拓した。昭和六年東京市場を開拓し、支店を設け、城戸稔を支店長にした。昭和一二年工場を拡張し、敷地が三四三二坪となる。同一三年いわしが豊漁で、房州では一貫目が二〇銭に暴落したので、安い原料を仕入れ、大陸へ販路を開拓した。昭和一六年削り節が配給となり、城戸稔が応召し、城戸弁吉が東京支店長となる。同一八年企業整備となり、機械設備を海軍に提供したのが同一九年である。敗戦により工場は返還され、昭和二二年一〇月削り節統制が緩和し、生産が復活した。
 昭和二五年関東地方の市場を開拓、東京城戸商店を設立した。同三二年には名古屋、同四一年には福岡出張所を開設、同四二年には女子独身寮と男子独身寮を建設し、同四三年には仙台、四四年には札幌、同四五年には大阪支店、同四六年には広島出張所を開設した。昭和四七年九月にかつおパックの発売を開始した。昭和五一年には新川工場を新設し、パートタイムの婦女子の労力を活用し、荷造発送に能率を上げている(写真3-23)。
 創業者豊吉の胸像は昭和三六年、全国の特約販売店一同が寄贈し、敷地内に建てられた。
 マルトモの創業者明関友市は、明治一六年(一八八三)生まれで、父は大工で、四男一女の次男。今は伊予市に合併したが、北山崎村生まれで、畳商となり、大正の初に満洲に渡る。大正二年(一九一三)に長女のチヨエ誕生、弟の道太郎に畳商をゆずり帰国。友市三〇歳のとき、今の敷地に長兄の和三郎が海産物商と、三台の削り節機で営業していた。和三郎が八倉で酒造業を営むので、弟の友市がこれを継承した。
 大正一三年(一九二四)の大福帳をみると、一日に削り節が九〇〇袋売れている。昭和四年明関合名会社に改組した。
 昭和一四年海光丸(八〇トン)を購入し、長崎方面の原料買付に使った。昭和二〇年に南宇和郡の深浦で漁獲網を取得し、原料から一貫企業に乗り出し、同二三年冷蔵庫を新設、昭和二五年には、新造船海光丸(一五〇トン)を進水させ能率をあげた。同年大阪中央市場および北海道と東京に支店を設け、販路を開拓した。同三一年友市が死去したので、孫の当主明関和雄(チヨエの長男・昭和六年生)が社長となり敏腕をふるった。同三七年には海光丸を処分し、同三八年には大阪営業所を開設した。さらに昭和四一年福岡出張所、翌年山形駐在所、四四年相模原、翌年札幌と仙台、四八年に岡山と名古屋へ、五〇年に長野と千葉、五一年に明石・新潟・栃木にそれぞれ出張所を設けた。同五二年には沖縄駐在所を置いた。
 工場施設も充実させ、昭和二三年に削り機を二三台、同三一年には四三台に増設した。同三四年には尾崎に千鳥食品KKを設立し、ポリ袋を開発した。翌三五年に原料加工のため焼津に協力工場を開設したが、四九年に枕崎にトモフジ(株)を設立したので、焼津は廃止した。三七年には川口市に東京工場を開設し、四〇年にはJAS認定工場となる。四七年パック自動計量充填機と自動ガス充填包装機を設置し、ブルーパック(かつおパック)を新発売した。四八年パックギフト商品の販売を開始した。同五〇年冷蔵倉庫を新築し、さらに五三年には原材料収納能力一〇〇〇トンの冷蔵倉庫を建てた。同五一年には第二工場を新築し、東京工場を閉鎖し配給センターにした。同五二年九月に営業本部を東京に移した。


 昭和三七年度の原料と原価計算

 現在は三社ともかつおパックが大半で、原料も鰹節が主であるが、昭和三七年度には鰹節は五%にすぎなかった。いわしが五〇%、さば三〇%、あじ・さんま一五%で、工員の日給が二八〇円であった。原価計算は削り節の三〇匁入りの一袋が実費二四円で、三〇円に売っていた。内訳をみると原料代六五%、包装用紙九%、宣伝費七%、人件費五%、利子四%、運賃三%、その他七%となっている。


 昭和五五年度の商品と原価計算

 ヤマキKKの昭和五五年度の製品は、かつおパック六○%、花かつお一五%、だしの素一〇%、削り節一〇%、わかめパック・めんつゆその他五%である。原価計算は原料三〇%、包装代二五%、販売費管理費広告費二五%、工場電気費一〇%、人件費五%、利益五%である。昭和三七年度と昭和五五年度とでは原価計算の仕方が違うので、比較しにくいが、交通輸送費や原料費の割合が減っている。


 伊予市の削り節業が日本一に発達した要因

 ①三企業の立地している伊予市の米湊の栄町は、創業者の出身地に近く、海産物問屋で、水産加工の削り節業に着手しやすかったこと。
 ②陸海交通が便利で、原料・製品の輸送が容易であった。国鉄予讃線が昭和五年に南郡中駅まで開通した。戦前は鉄道輸送も多かったが、現在はほとんどトラックである。戦前郡中港は定期便の大阪-若松線が毎日二便あり、特船の輸送も盛んで、原料や製品が容易に運ばれたこと。
 ③原料が入手しやすかったこと。当初は宇和海牛九州のいわし・あじ・ソウダカツオを主に原料にした。南宇和郡に投資して原料加工の協力工場を設けた。後には関東の安いいわしも入手した。今は主に焼津・枕崎や土佐清水から鰹節をトラックで、フェリーを利用し、仕入れている。一部は南洋群島の鰹節を輸入しているが、品質が内地ものに比し劣るという。
 ④広大な工場敷地が早く得られたこと。新しく今ごろ工場を設置するには、土地代が高くて容易でない。この三社とも、若干凸凹はあるが、敷地がまとまっている。
 ⑤伊予市の海岸が、寡雨で乾燥性があるので、原料保存に好条件であったこと。終戦後は冷蔵庫が発達したが、戦前は伊予市と宇和海の気候の差が、原料の乾燥や貯蔵に大きく影響していた。伊予市の海岸で煮干を乾すように、削り節の原料を天日で乾していた。雨の多い宇和海や九州産のものは、伊予灘や燧灘の煮干に比して、乾燥が悪かった。
 ⑥安い豊富な労働力。ほかに大企業もないので、低賃金の地元の通勤労働力が得られた。特に婦人のパートタイムの労働力が今も豊富である。また企業家の方も、男子と女子の寄宿舎を設け、厚生施設に意を用いている。
 ⑦住民性が勤勉で協調的であること。終戦後間もない昭和二六年七月には、マルトモ社内で労働争議が発生したが、今は労使関係は協調的で、地場産業として好況を呈している。
 ⑧銘柄で御三家で並んでいる。削り節といえば伊予市を連想するほど、三社が隣接していて、日本の生産額の半分をここで出している。商標のヤマキ・マルトモ・ヤマニは全国に知られており、互いに競争し、信用を得ていること。
 ⑨経営者の能力手腕の優秀性。研究機関を設け、常に製品の研究改善に努めている。ヤマキは「信は万事の本をなす」の精神をモットウにしている。マルトモの社是は「和をもって誠心を示す」、社訓は「実践・調和・啓発」である。マルトモの千鳥のマークは、千鳥の群れ飛ぶところに鰹の大群がいること。千鳥が二羽、重なっているのは生産者と消費者を示す。友は創業者の友市をとったものである。三社が競って厚生施設や慰安見学旅行あるいは、野球・お花のクラブ活動を行っている。「創業は安く守成は難し」の古諺のように、三代目になると経営の堅実で信用性が高いことが期待される。
 ⑩情報と新技術の導入。削り節の日本の元祖の福山市の安部商店や豊田水産加工は、ベストテンには入るが、伊予市ほど活気がない。かつお節のミニパックの創始者、KKにんべんの研究室長の新海豊一の一五年におよぶ窒素ガス置換包装技術の研究成果が、昭和四四年公開され、今日の業界に貢献した。本家の川口市のにんべん蕨工場の研究室は休止している。伊予市の削り節の先覚者岡部仁左衛門のヤマニも今は経営者が代わり、やっと五位に止まっている。日進月歩の新技術を導入し、内外の情報をいち早く入手し対策を講ずるのに伊予市は遅れていない。隣接刺戟でライバルとして常に研究開拓している。


 削り節協会長と全国ランキング

 全国削節工業協会の会員は二〇〇〇近くある。昭和五四年九月の理事会で選出された会長は安部和一(福山)、副会長は城戸恒(ヤマキ)・名田善一郎(マルアイ)・高津伊兵ヱ(にんべん)・磯部弘(蒲原町)の四名であった。戦時中は先代の安部和助と城戸豊吉が統制時代で会長であった。戦後任意団体の時代に岡部義雄が会長、昭和三八年JASの認定で社団法人となり福山市の豊田正市(大正四年生)が会長となり九年間に及ぶ(豊田宗平若死・大正五年創業豊田伝七明治一六年生-昭和三八年歿、三代目正市)。昭和四七年から蒲原町の杉山高蔵が二年間会長。昭和五〇年から二年間、伊予市の明関和雄が会長。昭和五一年から安部和一が七年間会長である。
 昭和五七年度の全国のランキングをみると、一位ヤマキ、二位マルトモ、三位にんべん、四位名古屋のマルアイ、五位弥満仁、六位尾道市の村上商店、七位富山市のかね七(石黒重兵ヱ)、八位が元祖の安部商店、九位が豊田水産加工、一〇位が鹿児島市の丸茂(大茂領三)である。