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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

五  松山(道後)平野の新興野菜産地


 新興野菜産地

 松山平野の野菜産地では、旧市街地に接する小栗・竹原地区、伊予灘沿岸の砂丘地帯、準高冷地の五明地区などが、古くからの野菜産地として知られていた。これらの旧来の野菜産地は都市化の波を受け、その栽培面積が次第に減少している。これに対して、松前町の北伊予・岡田地区、伊予市の南伊予・北山崎地区、重信町の南吉井地区、松山市の荏原・坂本地区など、従来、米麦二毛作を主体としていた水田地帯は、米の生産調整などとも相まって、近年、野菜生産の伸びが著しい。
 これら新興の野菜産地のなかには、伊予市・松前町の冬レタスと春レタス、伊予市・双海町の夏秋なす、松山市・北条市の道後キャベツなどが国の野菜指定産地となっている。指定産地は、野菜の二分の一以上を指定消費地に出荷すること、出荷量の二分の一以上を共同出荷することが、指定の要件となっているので、いずれも農協や青果組合による共販体制のもとに、京阪神地区など大消費地と結合して野菜生産がなされているのが特色である。重信町南吉井地区のいちご、松前町・伊予市の枝豆、松山市荏原地区のアスパラガス、松山平野一帯のそらまめなどは、国の指定産地ではないが、やはり農協の共販体制のもとに、阪神地区と結合して、その生産を伸ばしており、指定野菜と類似の性格をもっている。


 松前町北伊予地区のレタスと枝豆

 松前町の北伊予地区から伊予市の南伊予・郡中地区にかけては、レタス・枝豆・そらまめの生産が盛んなところである。このうちそらまめは古い栽培の歴史をもつが、レタスと枝豆はその栽培の歴史がきわめて新しい。レタスが松前町の北伊予地区に導入されたのは昭和四三年であり、枝豆は同四八年ころからレタスと結合して生産が伸びてきた。昭和五五年現在の県の野菜類の生産統計によると、松前町のレタスは栽培面積八〇ha、生産量一四五〇トン、伊予市のレタスは栽培面積八一ha、生産量二〇二〇トンであり、両者を合わせると、県内のレタス栽培面積の七六%、生産量の八一%を占め、県下随一のレタス産地となっている。また同年の枝豆の生産状況をみると、松前町は栽培面積三四ha、生産量一七〇トン、伊予市は栽培面積三七ha、生産量一九〇トンであり、両者を合わせると県内の枝豆栽培面積の四九%、生産量の四五%を占め、これまた県下随一の産地となっている。
 松前町北伊予地区の中川原と徳丸はレタスが最初に導入された集落であり、現在も松前町から伊予市にかけてのレタス生産の核心地である。この地区にレタスが導入されたのは昭和四三年であるが、当時、米麦二毛作地帯のこの地方では、価格低迷の続く麦にかわる換金作物の導入が模索されていた。レタスはその麦にかわる換金作物として北伊予農協の指導のもとに導入された。導入当初は、冬レタスを主として栽培していたが、昭和五〇年ころからは春レタスの栽培も多くなる。冬レタスが「伊予冬レタス(伊予市・松前町)」として国の指定産地になったのは昭和四六年六月であり、春レタスが「伊予春レタス(伊予市・松前町)」として同じく国の指定産地となったのは昭和五三年六月である。
 レタスの作型には、①転作田を利用して九月下旬に定植し、一〇月下旬から一一月上旬に収穫するものと、②極早生稲の収穫後一〇月上旬に定植し、一二月上旬から中旬に収穫するもの、③早生稲の収穫後一〇月下旬に定植し一月下旬に収穫するもの、④中生稲の収穫後一一月上旬に定植し、二月中旬に収穫するもの、⑤稲作や①のレタス跡を利用し一一月下旬に定植し、三月下旬に収穫するもの、⑥稲作や①・②のレタス跡を利用し、一二月中旬に定植し四月下旬に収穫するもの、⑦稲作や①から④のレタス跡を利用して三月中旬に定植し、五月下旬に収穫するものなどがある。①の転作田のレタスの前作は枝豆が多い。②から⑤は寒冷期に栽培するので、ビニールのトンネルで被覆する。このようにして一〇月下旬から五月下旬まで秋から春にかけて連続してレタスを収穫する(写真3-10)。
 作型は昭和四〇年代には、③・④・⑤の冬季に収穫する冬レタスが多かったが、五〇年代になってから、①・②の年内どりのレタスや、⑥・⑦の春レタスの栽培も盛んになり、栽培期間が秋と春に大きく拡大してきた。これは昭和四五年以降の米の生産調整政策などによって転作田が増加し、そこに九月下旬からレタスが作付されるようになったこと、同五〇年ころより夜盗虫の防除技術が進歩し、冬レタスの跡に春レタスの栽培が可能になったことなどによる。このようなレタスの作型の増加は、栽培農家の労力投下の分散を可能にし、必然的にレタス栽培面積の増加をうながす。昭和四五年ころには、一農家当たりのレタス栽培延面積は一五アール程度が平均であったのに対して、五八年には四〇アール程度に増加している。
 枝豆は転作田に稲のかわりに栽培されるものと、レタスの後作に栽培されるものがある。枝豆は二月下旬から六月下旬にかけて連続的に播種され、六月上旬から八月下旬にかけて収穫されていく。二月から四月上旬にかけて播種されるものは、レタスの後作であり、四月中旬から六月下旬にかけて播種されるものは転作田を利用したものである。レタスの後作に栽培されるものは、レタスのビニール被覆とマルチがそのまま利用される。レタスの後作に枝豆が積極的に導入されたのは、レタスのビ
ニール被覆を有効利用するためであったといわれる。
 レタス・枝豆・稲の輪作体系は、転作田の場合には、枝豆→レタス→レタスとなる場合が多く、稲作と結合する場合には、稲作→レタス→レタス又は枝豆となる場合が多い。
 中川原・徳丸地区の土地利用は、夏季は稲作、冬季は麦作が卓越し、米麦二毛作の伝統は今日も継承されているが、冬季の麦作のかわりにレタスと枝豆が、夏季の稲作のかわりに枝豆が導入されている水田がかなり見られる。この場合、レタスや枝豆の栽培地は全般的には集落に隣接した水田に多くみられる(図3-15)。それは、稲作や麦作に比べて集約的な管理を要するので、住居に近いところが栽培地に選ばれること、また集落の隣接地に道路が発達し、かつ水路網が完備しているので、収穫作業や灌水に便利であることによる。
 レタス・枝豆は北伊予農協の手によって共同出荷されるものが多い。共同出荷されるレタスの八〇%は阪神市場に向かい、枝マメも八〇%は同じく阪神市場に向かう。収穫されたレタスは、冬季は翌日農家の庭先で箱詰めされ、三日目に農協に出荷され、次の日の早朝の大阪市場の市売にかけられる。収穫から市場に出荷されるまで、足かけ四日もかかるが、冬季にはこれで充分鮮度が保たれ、このくらいの時間をかける方が、適度に水分がぬけて荷造りを容易にする。枝マメは収穫された当日に農家で荷造りされ、翌日農協に出荷され、次の日の早朝の大阪市場の市売にかけられる。
 北伊予地区のレタス・枝豆は農協の技術指導や市場開拓、さらには共同出荷の体制によって大消費地と結合して生産が伸びたのであり、共販体制のもとに生産量を伸ばす新興野菜産地の特色がよく示されている。しかし一方では、レタスの約二〇%は個人出荷によって松山市場に出荷されている。このように共販体制をとりながら、一方では個人出荷も併存するところに、地方都市松山に比較的近接した新興野菜産地の特色が表われている。


 重信町南吉井地区のいちごと花卉

松山平野の東部に位置する重信町は、いちごと花卉の栽培が盛んである。昭和五五年の野菜類の生産統計によると、いちごの栽培面積は一五ha、生産量は三八〇トンとなっている。これは周桑農協管下の東予市・丹原町に次ぐ栽培面積と生産量である。花卉栽培は、昭和五五年の農林業センサスによると、収穫農家一〇二戸、栽培面積八haであり、これは共に県下の第一位を占める。
 重信町のいちごと花卉の栽培の中心地は南吉井地区の田窪・牛渕・野田などである。これらの地区は重信川右岸の肥沃な沖積平野をひかえたところであり、古来、米麦の二毛作が営まれてきた。野菜栽培の先駆をなしたものは、すいかとトマトであり、共に昭和初期に導入された。昭和二年に導入されたすいかは、これが麦畝の間に栽培され、その収穫後の八月上旬に稲が植えられたので、米と麦の生産を制約しないところから、その生産が急速に伸びた。昭和一〇年には栽培面積一〇haに達し、先進地今出のすいかを追い越し、県下随一のすいか産地となる。トマトはすいかに少し遅れて導入された。その栽培が急速に伸びたのは昭和二八年ころからであり、松山平野のトマトの先進地、正円寺トマトを凌駕し、県下一の主産地となる。昭和三六年の南吉井地区のトマト栽培面積は八ha、生産量は六七六〇トンであったが、このころをピークに、連作障害の影響を受け、トマト栽培は次第に衰退していく。
 いちごが南吉井地区の牛渕に導入されたのは昭和二九年である。数年にして隣接の田窪・北野田等に広がり、次第にいちご産地が形成されていく。導入当初のいちごは、一〇月下旬から一一月上旬に稲の収穫後の水田に定植し、五月中旬から六月上旬にかけて収穫する露地栽培であった。マルチで地表を被覆し、ビニールのトンネルをかける方法は昭和三三年ころから普及し、さらに一部は石垣いちごも栽培される。トンネル栽培や石垣いちごは日照効果を高めることによって、露地栽培より早く三月中旬から五月下旬にかけての収穫を可能にした。当時のいちご栽培農家は、稲作を行なう水田の裏作の麦のかわりにいちごを栽培するものであり、いちごは稲との輪作体系のなかで栽培されていた。
 ビニールハウスによる栽培が普及したのは昭和四三年以降である。この時期より、短期株冷や無冷促成が開始される。短期株冷は0度C程度の冷蔵庫に一か月程度入れておいた苗を一一月末に定植し、二月下旬から四月上旬と、五月上旬から五月下旬にかけて二回収穫する栽培方法である。無冷促成は九月下旬に定植したいちごを、一二月中旬から三月下旬と、四月中旬から五月下旬にかけて二回収穫する栽培方法である。無冷促成には昭和五二年から電照が加味されているハウスもある。
 昭和五五年からは山あげ促成が開始される。これは八月二〇日ころから約一か月間、大野ケ原や五段高原に仮植していた苗を九月二〇日ころハウス内の本圃に定植し、一一月下旬から一月下旬と三月下旬から五月下旬にかけて二回収穫する栽培方法である。現在重信町では、短期株冷五%、無冷促成六五%、山あげ促成三〇%程度の生産割合であるが、栽培農家はこの三つの作型のうち、二つから三つ程度の作型を組み合わせて、ハウス内でいちごを栽培している。
 重信町のいちご栽培面積は昭和四〇年には三haであったが、四五年には一八haとなり、以後一五ha程度で安定した栽培面積を保っている。昭和四〇年から四五年の間に栽培面積が急増したのは、ハウスの導入と、短期株冷・無冷促成の栽培法が同時に導入され、栽培期間が長くなり、特に多くの労力の投入を要する収穫期間が分散したことが、各農家の栽培面積の拡大をうながしたことによる。
 今日のいちご栽培農家の土地利用は、いちごが固定された大型ハウス内で栽培されるので、その圃場は移動せず、また、その作型の主体が九月下旬に定植する無冷促成と山あげ促成になっているので、いちごの圃場に夏季稲を作付することはない。いちごを収穫した後のハウスは、稲やとうもろこしを植えてこれを青刈りして圃場にすき込んだり、太陽消毒をする期間となっている。一部の篤農家のなかには、いちごの収穫を早目に切りあげて、メロンを後作に栽培している農家もある(図3-16)。いちご栽培農家の農業経営は、稲作にいちごを加味したものが多く、麦作はいちごと労力的に競合するのであまり見られない。
 いちごの出荷先は、栽培当初は松山市場であった。農協による共同出荷は昭和三六年にはじまるが、それに先だつ四年前に生産者による共同出荷によって、松山市場にいちごが出荷されていた。生産量の拡大は松山市場のみでは販売が不可能となり、昭和三六年ころからは農協によって北九州、広島・呉・姫路などの中国地方などの新しい市場が開拓される。昭和五七年現在の重信町農協のいちごの出荷先の八三%は京都市場であり、残り一七%が松山市場となっている。京都市場の開拓は昭和四八年ころからであるが、これら新市場の開拓に努力したのは農協である。重信町のいちご栽培は農協主導のもとに共販体制をとることによって、中央市場と結合して発展したのであるが、一部の農家は農協の共同出荷の体制にくみせず、松山市場に個人出荷している。共同出荷と個人出荷が共存するのは、松山をひかえた都市近郊の新興野菜産地の特色である。
 南吉井地区で栽培される花卉の代表的なものは、きく・カーネーション・てっぽうゆり・グラジオラス・ストック・フリージヤなどである。このうち県内での生産比率の高いのはきくであり、昭和五六年の重信町の切花出荷量は、露地菊で三七一万本、施設菊で九五万本であり、これは共に県下の三四%と一九%を占めている。
 南吉井地区にきくの栽培が導入されたのは、昭和二五年田窪の渡部益太によってであった。数年後には、彼の指導のもとに隣接集落にも花卉栽培がひろがり、同四〇年には「南吉井花卉園芸組合」が結成された。花卉の栽培が盛んになったのは、昭和五〇年ころからであるが、それは米の生産調整政策とも関連する。花卉栽培農家は、花卉専業のものもあるが、その多くは稲ときく、又は稲ときく、その他の花卉の複合経営が多い。
 きくには露地菊と電照菊があるが、露地菊の出荷時期は六月から一一月であり、特に価格の高い七~九月が出荷の最盛期である。電照菊は八月下旬から九月下旬にかけて定植した温室内のきくに電照をほどこし、一二月から一月に正月用の切花として出荷する。きくとその他の花卉の出荷先は松山市場であるが、きくの出荷の最盛期である七月から九月にかけては神戸市場にも出す。神戸市場に出荷するきくはすべて重信町農協の共同出荷であるが、松山市場に向かうものは、個人出荷である。


 松山平野のそらまめ

 そら豆は松山平野の特産品に数えられる野菜である。松山平野のそら豆の栽培の歴史は古く、特に城北の清水村(現松山市清水町)では、「清水の一寸そら豆」として名声を博した。この一寸そら豆は「お城の見えるところでないと良いものはできない」といわれ、明治年間には清水村の特産であったが、交雑を重ねるうちに松山平野全域に広く栽培されるようになった。
 昭和五五年の松山平野のそら豆の栽培面積は二六二haであり、県内の五〇%を占めている。主な栽培地は、伊予市八五ha、松山市八四ha、松前町七五haであり、松山平野の西部がその主産地となっている。伊予市・松前町など松山平野の周辺に栽培面積が拡大したのは昭和三八年ころからであるが、松山平野のそら豆生産が四三年ころから急増したのは、従来の主産地であった千葉県・茨城県がウィルス病の蔓延により生産が減退したこと、そら豆の輸送が冷蔵車を利用して京浜市場に有利に輸送できるようになったことなどによる。
 そら豆はその嗜好の関係から、京浜市場がその市場であり、今日も松山平野のそら豆の約八〇%は京浜市場に出荷されている。その京浜市場に青さやそら豆を鮮度を保持して容易に出荷できるようになったのは、昭和四二年に県経済連が低温輸送を開始して以降である。現在、愛媛県は京浜市場に出荷されるそら豆の全国一の産地となっている。
 そら豆は稲の裏作として栽培される。一〇月中旬から下旬にかけて稲の刈取り直前に直播きされる方法と、苗床で育苗されたものが、一一月上旬に畝立てされた圃場に定植される方法がある。そら豆は風に弱いので成育につれて株の中に土入れをすることと、土寄せをして倒伏を防ぐことが肝要である。一〇アール当たりの粗収入は一八万円と麦の二・五倍に達するが、収穫期に多くの労力を要するので、一〇アール当たりの投下労力は二四人も要する。
 収穫されたそら豆は農家で選別・箱詰めされ、各農協に出荷され、県経済連の冷蔵車で京浜市場に出荷される。労力のある農家には麦より有利な裏作であるが、嫌や地性が強く、一度栽培すると五年は休閑を必要とすることから、作付面積はおのずと限定され、近年栽培面積は停滞ぎみとなっている。

図3-15 松前町徳丸の土地利用図

図3-15 松前町徳丸の土地利用図


図3-16 重信町田窪の農家(高須賀昭三)のビニールハウスといちご・メロンの輪作体系

図3-16 重信町田窪の農家(高須賀昭三)のビニールハウスといちご・メロンの輪作体系