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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

三  松山近郊の野菜産地


 松山平野の野菜産地

 昭和五五年度の野菜類の生産販売統計(県農林水産部)によると、松山平野の野菜の栽培面積は二〇二四ha、生産量は四万三九六六トンであり、共に県の二一%を占め、県内最大の野菜産地となっている。松山平野に野菜栽培が盛んになった最大の要因は、県都の松山市を控えていることである。野菜類は、花卉・生乳などと共に鮮度を尊ぶものであり、輸送条件に恵まれた都市近郊はその立地上最も有利な地点にあるといえる。
 松山平野の野菜産地を旧町村別にみると、旧松山市域をはじめ、五明・伊台地区、松前・郡中地区、南伊予・北伊予・岡田地区、荏原・坂本・南吉井地区などが、その栽培面積の広い地区である(図3-8)。このうち第二次大戦前からの野菜産地として有名であったのは、松山市の市街地に接した小栗・竹原・生石地区、準高冷地の五明地区、伊予灘沿岸の海岸砂丘のみられる松山市の北吉田から松前・郡中にかけての地区である。それに対して、南伊予・北伊予・岡田地区や、荏原・坂本・南吉井地区などの水田地帯は近年栽培面積の伸びてきた新興の野菜産地である。


 小栗地区の野菜栽培の立地条件

 松山市街の南西部に接する小栗地区は、それに隣接する藤原地区や竹原地区と共に、古くからの野菜産地であった。大正五年(一九一六)の『新編温泉郡誌』によると、小栗・竹原地区の属する雄群村は「本村は附近にやや大きな消費地を控へ、地勢平坦にして比較的耕作地多く、緋蕪其の他蔬菜の栽培地味適するを以て、之による収入少からず、比較的金儲け良き所となり、之れ地の利を占むるの結果にして、他村の直ちに模倣し得ざる所なり……」と、すでに野菜栽培が盛んであったことを明記している。
 小栗地区に野菜の栽培が盛んになった第一の要因は、松山市街地に近接し、生鮮野菜の出荷がきわめて有利であったことによる。小栗地区に接する土橋には、明治末年にはすでに青果市場があった。当時の青果市場は、松山の外港であり、物資の集散地であった三津浜と土橋にあったが、土橋地区に青果市場が成立したのは、それに接する小栗・竹原地区が軟弱野菜の産地であったこと、また海岸砂丘を利用した野菜産地の北吉田・松前・郡中方面からの交通の便に恵まれていたことによると考えられる。
 大正末年から昭和の初期にかけての土橋の市場は、中央部に広場があり、それをとり囲んで青果問屋が並んでいた。広場は振り売りの場所であり、株を持っていた小栗・竹原などの農家が一坪程度の空間をそれぞれ占拠し、そこで市内の仲買商人・小売商人などを相手に野菜を相対売りしていた。問屋に荷受けしてもらい市売りするのは、五明・北吉田・松前などのやや遠隔地の野菜農家であった。農家が直接商人相手に野菜を販売する振り売りと、野菜をセリにかける市売りでは、問屋に手数量をとられない振り売りの方が二割方は農家の手取りが多かったという。市場に近接していた小栗・竹原の農家は、松山市内の仲買商人や小売商人と顔なじみになっていたので、それらの商人を相手とする振り売りが可能であり、それだけ野菜の販売に地の利を得ていたといえる。
 小栗地区の農家が土橋の市場まで野菜を出荷する方法は、昭和一〇年ころまでは、菜園寵または平寵と呼ばれた竹で編んだ底の浅い寵を天秤棒で担って出荷した。野菜の収穫は夕方にするものと、朝採りするものがあった。だいこん・かぶなどの根菜類は夕方に収穫されたものが、早朝に水洗いされて出荷されたのに対して、きゅうり・なす・トマトなどの果菜類は朝収穫され、ただちに出荷された。みつば・ほうれんそう・しゅんぎくなどの葉菜類も早朝に収穫されたものが泉や川で水洗いされ、適当な大きさに束ねて出荷された。根菜類を除いては、早朝に収穫されたものが、そのまま市場に出荷できるという有利さがあり、交通不便な時代には鮮度を尊ぶ軟弱野菜の栽培では他地区の追随を許さなかった。
 農家から市場までの距離は徒歩にしてわずか五~一〇分であり、朝の野菜の出荷状況をみて、その日の野菜の収穫をはじめる農家も多かった。親子で野菜を栽培している農家では、まず早朝に年配の親が軽い荷を担って市場に行き、そこで市売りをはじめる。青・壮年の息子は、野菜の出荷状況を見て、品薄と思われる野菜を収穫して順次出荷する。多い日には一荷一七~二〇貫程度の野菜を四~五回も出荷したという。早朝からの収穫・水洗い・荷造り・出荷は瞬時のいとまもないほどの忙しさであり、朝食は野菜の出荷の終わる一〇時ころにとるのが常であったという。市場にはタイコマン屋などが軒を並べていたが、ここで販売されるタイコマンは野菜を出荷する途次の農夫が、空腹を一時的にしのぐために買い求められるものも多かった。野菜の出荷がリヤカーになったのは昭和一〇年ころからであるが、第二次大戦前には平寵で担って出荷するのが主体であった。
 小栗地区の野菜栽培が有利であった第二の要因は、松山市民の下肥を肥料として得る上に有利であったことである。野菜畑に投入する肥料は、大正年間から昭和の戦前にかけては、厩肥やゴミもあったが、その最大のものは下肥であった。下肥は一般家庭のもの、一般企業や公共施設のものなどが取得の対象となった。一般家庭のものは斗肥といわれ、一世帯の年間の下肥を米一斗の代金でもってもらい受けるのが相場であった。一般企業や公共施設のものは、数人が下肥購入の組をつくり、その組で払下げを受けることが多かった。
 下肥の運搬は近距離のものは天秤棒で担って帰ったが、遠距離のものは大八車に肥桶を積んで帰った。大八車は野菜の出荷用ではなく、主として下肥の運搬用であったので、肥取車と呼ばれたりした。農家にとって帰られた下肥は、田の隅につくられた「ためつぼ」で数週間腐敗させてから野菜畑に投入された。石手川の土手には、松山市のゴミの集積場があり、このゴミを堆肥に利用できるのも、小栗地区の野菜栽培には有利であった。
 小栗地区の野菜栽培が有利であった第三の要因は、地形や土壌・水利などの自然条件に求められる。この地区は石手川の形成した扇状地の扇端部にあたり、比較的乾燥した砂質の土壌である。このような土壌は重粘土質の土壌と比べて、野菜栽培には好適であるといえる。それは土が軽質であるので、鍬を使っての農作業が容易であり、また葉菜類などを収穫するとき、ひき抜きやすいといわれている。またこの地は扇端の湧水帯にあたり、地元住民がイケと呼ぶ湧泉が七~八箇もあった。湧泉の水が豊富であることは、灌漑水の取得に有利であるのみでなく、葉菜類や根菜類を水洗いする上にも極めて有利であった。冬季も清冽で暖かい地下水が至るところに得られるこの地区では、野菜の水洗いが楽であり、「小栗の野菜はきれいだ」と松山市民の好評を博したという。湧泉のほとりやそれから流出する灌漑水路ぞいには、板がこいしたトタン屋根の「野菜の洗い場」があり、昭和三〇年過ぎるまでの小栗の風物詩であった。洗い場は数戸で共同利用するものが多かったという。「洗い場」が消滅したのは昭和二四年専売公社が立地し、地下水位が下がり、湧泉が枯渇した以降である。


 小栗地区の野菜栽培の特色

 小栗地区の野菜栽培の特色は、野菜の品種からすれば、ほうれんそう・しゅんぎく・みつば・さらだな・からしな・カリフラワー・たかな・しゃくしな・キャベツ・ねぎなどの葉菜の軟弱野菜の栽培が盛んなことである。しかもこれらの葉菜類の大部分は稲の裏作として冬季に栽培されるものが多い。夏季の代表的な野菜は、なす・きゅうり・トマト・枝豆などである。今日も軟弱野菜の栽培が盛んなことは、市場への近接性を有利に生かしているといえる。
 土地利用上の特色は、それが極めて集約的な土地利用であるということである。小栗地区は古くから野菜栽培が盛んであったが、昭和三〇年代までは夏季の稲と冬季の麦作を主体とし、その間に野菜を栽培するものであった。夏季の野菜のなす・きゅうり・トマトは、二月上旬に温床で苗を仕立て、これを麦畝の肩に五月上旬に定植する。東西に走る麦畝では、畝の南側の肩を利用し、温室効果を高めた。麦を六月上旬に収穫して後は、きゅうり、トマ卜の収穫の最盛期となる。六月下旬まできゅうり・トマトを収穫し、七月一日から三日の間に田植をして水稲を栽培する。なすは七月・八月に収穫するので、その後作に水稲を作付することは不可能であり、ほうれんそう・しゅんぎく・だいこん・かぶなどの秋播き野菜を栽培した。麦の間になす・きゅうり・トマトなどの夏野菜を栽培する水田は全体の三分の一程度もあったという。秋から春にかけての冬野菜は、麦を栽培しない冬季の水田を野菜畑として利用するものであったが、このような水田は全体の一〇%程度であった。
 昭和四〇年代になると、冬季の麦作はほとんど消滅し、冬季の圃場は全面的に冬野菜にとって替わられる。その冬野菜の栽培景観をみると、一枚の圃場に実に多くの野菜が作付されている。そのことは、四三アールの水田耕作を営む小栗町在住の松本義雄の土地利用に如実に示されている(図3-9)。この図によると、一枚の圃場は数か所に区分され、それぞれ異なった野菜が栽培されている。また同種類の野菜でも植付けと収穫の時期をずらしているものが多い。
 面積六アールのDの圃場は九つにも区分されている。(ア)にえんどうを一列植えているのは、日当たりがよくて、よく結実するからであるという。二列以上えんどうを植えると日当たりと風どおしが悪く、収量が落ちるので一列しかえんどうは植えないという。(ウ)にほうれんそうを植えているのは、この部分のかぶが早く収穫できたからほうれんそうの栽培が可能であったという。(オ)のたかなは三月中旬から四月下旬にかけて収穫されるが、その収穫法は「葉かぎ」であり、たかなの成長につれて、その葉を一枚ずつかぎ取る方法である。たかなは一般にはしゅんぎくと混植される例が多い。それはしゅんぎくと混植したたかなには虫がつかないからだという。
 面積六アールのEの圃場は六つに区分されている。(オ)は耕耘作業のときの折り返し点にあたる「まくら」にあたるが、ここに稲架があったので、この部分は(ア)の部分に比べてさらだなの植え付けが遅れた。(ウ)には一つの畝に二列の雁木が切られ、一方にはからしなを、他方にはほうれんそうを植えている。五月上旬にはなすが定植されるが、そのなすの畝の両肩には枝豆としそが混植される。このように冬季を中心とした土地利用はきわめて多彩であり、かつ集約的である。このような集約的な土地利用景観のなかに都市近郊の野菜栽培の特色がよく示されている。
 小栗地区の野菜栽培の特色を出荷形態からみると、それは個人出荷にあるといえる。土橋の野菜市場は昭和五〇年久万ノ台に松山市中央卸売市場が開設されるに伴って消滅したが、各農家は軽四トラックにて中央卸売市場に出荷する。栽培する野菜の種類が多く、かつ同一種類の野菜でも、その植付と収穫の時期がずれているのは、各農家が市況の値うごきをにらみながら、その日に最も高価に売れると思われる野菜を、少量ずつ個人で出荷する出荷形態と密接に関連しているのである。共同出荷の体制が確立されず、個人出荷が卓越する点にも、歴史の古い都市近郊の野菜産地の特色がよく表われている。


 小栗地区の野菜栽培の変貌

 小栗地区の野菜栽培は、近年都市化の影響を受けて大きく変貌をとげている。昭和三〇年ころには、農家戸数七〇戸、水田六〇ha程度であったが、今日では農家戸数三四戸、水田一〇ha程度にと減少している。農地は国道バイパスの建設や宅地化に伴って、昭和四〇年代以降急激に減少した。残存している農地も新興住宅地の谷間に没するような状態である。また農家の質も大きく変貌している。三四戸のうち専業農家は数戸にすぎない。これらの農家も後継者は皆無で、中高齢者のみが農業にたずさわっている。農家のなかには通勤兼業をしている者もあるが、農地をアパートや賃貸住宅あるいは駐車場などに転用していて、次第に兼業収入に重きをおいている者が増加している。農地の市街化と農民の高齢化のために、後一〇年もすれば、小栗町の野菜栽培は消滅するのではないかとささやかれている(図3-10)。


 竹原・生石地区の緋のかぶらとカイワレ

 竹原と生石は国鉄松山駅の西方に位置する松山の近郊村であり、小栗町と同様、明治年間以降の松山市場を控えた野菜産地として有名であった。この地区の野菜栽培の立地条件、野菜栽培の特色、その変貌過程などについては、小栗地区と共通する点が多いので、それらの点については割愛し、ここでは栽培作物について、その特徴的な点を述べてみたい。
 竹原・生石地区の野菜として特筆されるものは「緋のかぶら」である。緋のかぶらは藩政時代の初期に近江の日野から導入されたと伝えられているが、竹原町の土質に適合したものと見え、伊予節にうたわれるほどの特産物となった。だいだい酢に漬けると鮮やかな紅を発する緋のかぶら漬は、松山市の名産として、道後温泉などで土産品として販売されたり、歳末の贈答品として高価に販売された。昔から、「緋のかぶらはお城の見えるところでないと良いものはできない」といわれ、竹原を中心に生石・小栗などのごく限られた地区に生産は限定されていた。
 緋のかぶらの生産は昭和の戦前が最盛期であり、七〇~八〇戸程度あった竹原の農家では、各戸五アール程度は緋かぶらを栽培し、この地区の農家の最大の現金収入源であった。緋のかぶらは砂地がかった沃土を好むといわれ、水田になす、稲との輪作体系のもとに栽培されてきた。緋のかぶらの前作はなすであり、九月中旬に収穫の終わったなすの後に、二筋の雁木の切れる畝立が行なわれ、九月の彼岸ころに種播きが行なわれた。間引きは一〇月の上旬に荒わきがされ、次いで一〇月下旬に本わきがされた。肥料は下肥を主とし、他に堆肥が施された。緋のかぶらには虫がよくわくので、害虫が発生するたびに、煙草の粉を撒いたり、石鹸の粉をたいたりして消毒をした。収穫は成育の良いものから順に、一二月半ばから年末にかけて行なわれた。販売方法は農家が土橋の市場に出荷するものや、漬物商が畑に生えているままで見込んで買い取るもの、漬物商との契約栽培などがあった。種子は各農家で採取したが、種子が採取できるのは四月中旬であったので、苗代田にする予定の水田に種子採取用の緋のかぶらは作付された。
 その緋かぶらも第二次世界大戦後はウィルス病の蔓延によって衰退し、中山町や広田村などの山間部へ産地は移動してしまった。現在竹原には、種もの商と契約栽培する二戸の農家合わせて一五アール程度の種子採取圃場があるのみで、昔日の面影はまったく見られない。
 緋かぶらと共に、秋季から冬季にかけて栽培される野菜には、かぶ・冠かずきだいこん・秋まきにんじん・たまねぎ・キャベツ・そらまめ・みつばなどがあった。このうちだいこん・にんじんなどは集落に沿って広がる畑に栽培された。一方、夏作の野菜としては、水田にはきゅうり・トマト・なす・さといもなどが、畑にはかぼちゃ・とうろくまめなどが栽培された。これらの作物のうち、かぶ・だいこん・にんじんなどは二回程度の間引きがされたが、間引きされたものは、かぶ菜・だいこん葉・にんじん葉として市場に出荷され、農家の現金収入の一助となった。このような点にも近郊野菜産地の特色がうかがえる(写真3-8)。
 竹原・生石地区の野菜栽培は、水田・畑をとわず、小栗地区同様に極めて集約的な土地利用を特色としたが、その最たるものは農家の庭先で栽培される青しそ・かいわれ・たでなどであった。青しそは刺身の妻に使われるものとして栽培されたが、その方法は陽当たりのよい庭先の一角に、二坪ほどの温室をつくり、その中にすくもを入れて栽培した。温室には藁とぬかを伏せ込んで熱を発生させ、上を油障子で被って保温をはかった。一一月から三月の間に順次三~四回栽培を重ねたが、植えてから収穫するまでに要する日数は、わずか二〇日間程度であった。かいかれは根の長いだいこんの二葉であり、刺身の妻や吸物用に料亭などで珍重された。これも日当たりのよい農家の庭先の一角に油障子を張った温室の内で栽培された。地面に播いただいこんに、芽が出るとすくもを順次かけていくと上は二葉でありながら、一〇cm程度にも根の伸びただいこんができる。播種後一五日程度で収穫ができるので、一つの温室が何回転もできた。青しそ、かいわれは、竹原・生石の農家の大部分で戦前栽培されていたが、このような集約的な野菜栽培の見られるところに、都市近郊の特色が端的に表われている。


 五明地区の根菜類

 松山市の五明地区は、松山市街の北東七~八km程度の距離に位置する近郊山村である。藩政時代から城下町の松山への野菜の供給地であったといわれ、根菜類の生産が盛んであった。大正五年(一九一六)発刊の新編温泉郡誌には、「菅沢の牛蒡は本村唯一の名物たる丈け其産額殆ど二千円に達し全郡を圧して優に一頭地を抜けり……」と、五明村の中心地菅沢のごぼうがすでに特産品としての地位を確保していることが明記されている。
 五明地区はほぼ全域が花崗岩でおおわれ、その中心地の菅沢を中心にして、三五〇~四〇〇m程度の定高性をもった高原状の丘陵地が発達している。丘陵地の間には侵食谷が複雑に走り、谷底平野の発達も良好である。集落は谷底平野に主として立地し、住民は谷底平野の水田耕作のかたわら、丘陵の緩斜面を利用して畑作を営んできた。一農家当たりの経営規模の平均は水田四〇アールに畑二〇アール程度であった。明治・大正年間から昭和の戦前にかけての住民の現金収入源は、畑に栽培する野菜と背後の山林を利用しての薪炭の生産であった。
 畑に栽培する野菜は花崗岩の深い風化土を利用したごぼう・にんじん・だいこんの根菜類の生産と、準高冷地としての気候特性を生かしたほうれんそう・トマト・しゅんぎく・すいかなどの生産に特色がある。このうち根菜類の生産は古い歴史を誇るが、ほうれんそう・トマトなどは最近導入された新しい栽培作物である。
 ごぼうは四月上旬から下旬にかけて播種し、八月中旬から翌年の四月にかけて収穫した。五明の土壌はどこまで掘っても石が出ないという花崗岩の深い風化土であるが、良いごぼうを作るためには、播種前に畑を鍬で深く耕起しておく必要があった。これを「ごぼうじりを打つ」というが、深さ六〇~七〇cmにも耕起することは大変な重労働で、男一人役で一アール程度しか耕起できなかったという。耕起の際には腐らした枯草を一番下に埋め込み、有機質の補給をはかった。この作業は一月から三月にかけて随時行なわれた。収穫もまた重労働であった。男が大鍬をふるって深さ六〇~七〇cmにも側壁を掘り進むと、女が根を折らないように慎重に抜きとって行く。一人役では一アールの収穫作業が限度であったという。五明のごぼうは細身でしかも長さ一mにも達し、形が良いのみでなく、色が白く、かつ風味にもすぐれ、品質において他産地の追随を許さなかった。同じごぼうの特産地である大洲盆地のごぼうと比べて、一・五倍の値で取引される状態であった。出荷の最盛期は一〇月の松山祭と正月前であった。
 にんじんは田植の終おった六月中旬から下旬にかけて播種された。にんじんは播種後九〇日で収穫できるといわれ、一〇月上旬の松山祭に盛んに出荷された。また、ごぼう同様越冬して春まで収穫を伸ばすことも可能であった。にんじんの作付地も播種前に耕起を要したが、これは深さ三〇cm程度の耕起でよく、ごぼう畑に比べると随分作業は楽であった。にんじんもまた品質佳良なものが栽培された。
 だいこんは準高冷地の気候を利用して夏だいこんである美濃早生だいこんの生産を主とした。第一回目の播種は四月二〇日ころで、五月末から六月上旬に収穫できた。次いで第二回・第三回の播種が行なわれ、一〇月上旬の松山祭までに同一耕地で二~三回のだいこんが栽培された。
 これらの根菜類の栽培の中心地は菅沢を中心とした五明の中心地区であるが、これらの作物は冬作の麦と共に輪作体系を組んで栽培された。ごぼうは連作障害が大きかったので、一回栽培すると三年以上は他作物を栽培しなければならなかった。ごぼうの後作はにんじんかだいこんであり、次いで冬作に麦が栽培される例が多かった。にんじんには連作障害は少なかったので、二~三年連作してもあまり支障はなかった(図3-11)。
 根菜類の出荷先は、元来松山市場であった。明治・大正年間の出荷方法は平籠と天秤棒で担って出したり、大八車や馬の背に積んで出荷した。輸送路は瀬戸風峠を経由して道後に通ずるものであったが、道後の常信寺あたりまで来ると、松山市内の小売商人がたむろしていて、そこで相対売りをするものが多かった。帰路は下肥を馬や大八車に積んで帰るものもあった。
 昭和三年からは五明産業組合が野菜の共同出荷をはじめた。各農家の荷造りしたものが産業組合の庭先で組合の評価員によって上・中・下に評定され、そこで組合に買取られた。組合は三津浜などの業者のトラックを雇い松山市の土橋の市場に出荷したり、遠くは呉・広島などへ出荷した。昭和の戦前には野菜の七〇~八〇%は軍港でにぎわう呉に出荷された。組合が依託販売でなく買取販売の形態をとったのは、すでに、松山市場に野菜を出荷して現金調達の方法を知っていた農家に野菜を出荷さすためには、その場で現金を渡す方法をとらざるを得なかったからだという。
 第二次大戦後は五明農協の依託販売による共同出荷となり、五明農協が昭和三九年温泉青果に合併されてからは、温泉青果の依託販売による共同出荷となっている。現在の出荷先は、松山市場のほか、今治・西条・新居浜など東予の各市場に向かっている。
 準高冷地の気候を利用して栽培するほうれんそう・トマト・しゅんぎくはいずれも近年導入された野菜であり、一部篤農家によって栽培されている。ほうれんそうは昭和五四年に導入され、五七年現在では一三人が栽培にとり組んでいる。このうち八人は露地栽培、五人が雨除ハウスを利用した施設栽培である。一農家当たりの栽培面積は一〇アール程度であるが、年間を通しての周年作であり、一つの圃場に年間四作はするので、延作付面積は八ha程度になる。出荷のピークは五月から六月であり、次いで七月、八月が多く、準高冷地の気候を利用した夏季栽培に特色がある。
 昭和五五年に導入されたしゅんぎくもほうれんそうと同じく周年作である。同一圃場で年間二回から三回は収穫される。五七年現在一二戸の農家で延二haほど栽培されているが、ほケれんそうの雨除施設をもつものは、その施設内でほうれんそうと一緒にしゅんぎくを栽培している。
 トマトは昭和五三年から本格的な栽培がはじまる。一時期、一五戸程度の栽培農家があったが、価格の低迷から昭和五七年には八戸に減少した。一戸平均一〇アール程度を栽培している。四月上旬にトロ箱に播種し、五月上旬にポットに上げ、六月上旬に本圃に定植する。収穫は七月二〇日ころから一〇月半ばまでであり、冷涼な気候を利用した抑制栽培である。久万町のように雨除施設はなく、すべて露地栽培であるので、品質はやや劣る。
 ほうれんそう・しゅんぎく・トマト共に栽培面積はまだ狭いので、市場はすべて松山市を指向する。前日に収穫されたものが、各農家で選別・荷造りされ、集荷場に集められる。松山中央卸売市場までの運送は各栽培農家が交替で分担する。名目は共同出荷であるが、実質的には個人出荷であるといえる。
 五明地区の野菜栽培は、松山市場と結合して成立し、昭和の戦前には呉市場と結合して発展した。第二次大戦後も昭和四〇年ころまでは根菜類の栽培が盛んであったが近年は停滞的である。その要因としては、①五明の野菜栽培の規模が小さく、県内外の大型産地との競合に勝てなくなったこと、②長年の根菜類の栽培で連作障害が出るようになったこと、③昭和四〇年代ころから五明ではぶどう、みかんなどの果樹栽培が盛んになり、地区内で野菜と果樹が競合するようになったこと、④昭和四〇年代になって、交通不便な集落では過疎が進み、一方、中心地の交通便利な集落では松山市街への通勤兼業が増加し、野菜栽培の労力が減少したことなどの諸点が指摘できる。Uターン青年などを含む篤農家によって、ほうれんそう・しゅんぎく・トマトなどの生産が新たに開始されているが、まだ主産地を形成するまでには至っていない。

図3-8 松山平野の野菜栽培面積とその推移

図3-8 松山平野の野菜栽培面積とその推移


図3-9 松山市小栗町の農家(松本義雄)の圃場と野菜の輪作体系

図3-9 松山市小栗町の農家(松本義雄)の圃場と野菜の輪作体系


図3-10 松山市小栗町の農家の分布と土地利用(昭和58年3月現在)

図3-10 松山市小栗町の農家の分布と土地利用(昭和58年3月現在)


図3-11 五明地区の畑作の輪作体系(大正時代~昭和30年ころ)

図3-11 五明地区の畑作の輪作体系(大正時代~昭和30年ころ)