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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

一  松山(道後)平野の稲作と麦作(1)

 松山平野における農業生産地域を概観すると、図3-1のごとくである。北部・東部・南部の郡界に山岳地帯が連なり森林地帯を形成している。その山岳地帯の山麓部では、温州みかん・伊予かんを主力にした柑橘栽培地帯が幅広く分布する。この地帯の農家はかなりの水田も所有しており、果樹・稲作の複合経営地帯である。またここには乳牛・肉用牛・養豚等の団地化もみられる。果樹地帯の内側は重信川等の河川流域にひらけた平坦地で、稲作を中心に、麦類・たまねぎ・そらまめなど冬期作物の栽培が盛んで、多角的な土地利用が行なわれ、県内で最も優れた農業生産地帯となっている。次いで宅地化の著しい市街地周辺に移る。ここはかなりの農地を内臓しているが、兼業農家主体の稲作地域で、松山市の著しい都市化の波をかぶり、農業生産環境の悪化が進んでいる。一方、伊予灘に面した堀江・吉田浜・今出・松前などの海岸部には、海岸砂丘を中心にかなりの畑作地帯が分布していたが、工業団地・住宅団地、空港などの建設によって減少し、今は散見されるにすぎない。
 このような松山平野における地域差は、二市四町の農業生産の地域差となってあらわれている(表3-1)。これをみると、米の比率の高い松前町は松山平野の三角州に位置する低地であり、野菜の比率が高いことにもその特色があらわれている。これに対し松山平野の南端で山麓地域の広い砥部町は果実の地位が圧倒的に高い。また川内町は米よりも畜産の方が比率が高く、これに隣接する重信町では米に次いで畜産の地位が高い。松山平野の中心である松山市は、米は第二位で、第一位の果実のおよそ半分である。松山市の果実に占めるみかんの比率は一七・四%しかなく、伊予市の六一%、砥部町の五二%に比べはるかに及ばない。


 稲作の現況

 昭和五六年の松山平野における稲の作付面積は五七四二ha、収穫量は二万九九四八トンで、それぞれ愛媛県全体の二三・五%、二六・一%を占め、収穫量で約二〇%を占める周桑・西条平野と並んで県内における稲作の中心地を形成している。五六年の地域別収穫量をみると、松山市が四七・七%で半分近くを占め、松前町一五・六%、伊予市一三・五%、重信町一一・八%、川内町九・四%、砥部町二・〇%である(図3-2)。松山市の比率は四三年には五三・一%を占めていたがその後漸減し、五一年に四九・四%と半分を割り、ここ数年は四七~四八%台である。こうした地位低下の主な原因は田の耕地面積の減少による。
 松山平野における田の耕地面積は、都市化の進展による道路・宅地・工業用地等への需用の高まりや、みかん景気による樹園地への転換などで著しく減少した(表3-2)。田の耕地面積の減少率を四〇年以降五年ごとに区切ってみると、四五年から五〇年にかけての減少率が県全体でも松山平野でも最大である。これは四五年に米の生産調整が始まったことが大きく影響しているが、地域によって減少率に差がある。砥部町は面積は小さいが減少率が四二%と極端に大きく、次いで松山市が一九%である。これに対し川内町・松前町・重信町の減少率は小さい。こうした田の減少率の地域差はみかん栽培の動向も大きな要因となっており、その後のみかん不況は田から樹園地への移行を鈍化させた。また、経済活動の停滞なども影響して田の減少度はかなり弱まっている。
 田の耕地面積の減少にともない、松山平野における稲の作付面積も年々減少している。米の生産調整の動きにより多少の増減がみられるが、五六年の作付面積は三九年の六〇・八%まで落ち込んだ。収穫量も四五年に米の生産調整が開始されて以来減少する傾向にあり、五六年の収穫量は三九年の七一・八%である。なお図3-2中にみえる五五年の収穫量の特に著しい低下は、冷夏・長雨による異常気象の影響で、この年の松山平野における稲の一〇アール当たり収量は四五七・一㎏で、それまでの一〇年間の平均五〇〇・一㎏に比べ、約一割も低い。
 こうした稲作を取り巻くマイナス要因の下で、松山平野における水稲栽培農家も、年々減少している(表3-3)。松山平野全体では四五年から五五年までの一〇年間で約二〇%減少しており、地域別には砥部町の約三二%減を筆頭に、松山市の約二五%減、伊予市の約一五%減の順に続く。また水稲の経営規模も小さく、五五年には〇・五ha未満の零細農家が七〇%を占め、反面一ha以上の栽培農家はわずか四%にすぎない。〇・五ha未満の農家は四五年には六四%であったから、この間に労働力の流出や兼業化が進行するなかで、都市化による田のかい廃や生産調整による転作を反映して、稲作経営規模が著しく零細化している。
 このように水稲栽培農家の零細化か進行する一方で、農業の機械化は著しく、第二種兼業農家にまで普及するようになった。特に松山平野は愛媛県全体の平均に比べ機械化の水準が格段に高く、なかでも田植機、コンバインの普及が著しい(図3-3)。また、動力耕うん機は農用機械のうちで最も早く普及し、今では歩行型から乗用型への移行が目立つ。松山市の場合、個人所有の歩行型は約五万一八〇〇台で七六・六%、乗用型のうち、一五馬力未満のものが八九三一台で一三・二%、一五馬力以上のものが一〇・二%を占める(昭和五五年世界農林業センサス)。また数戸が共有しているものを含めると全体で約七万一二○○台余に達する。なお、米麦乾燥機が松山平野で特に普及しているのは、この地域にライスセンターが設置されてないことが大きく影響している。また動力防除機は散粉機の使用が定着したため五〇年に比べ減少している。
 松山平野の稲作農家のうち、農用機械による作業部門を請け負わせた農家は、四五年には約四五%あったが、五五年には約三五%に減少した。その背景には「機械化貧乏」といわれるほどの機械化の普及により、零細農家の「日曜百姓」が可能になってきたからで、耕起・代かき、田植え等の作業委託が減少した。その反面、稲刈り作業にみられる自脱型コンバイン等の大型機械による作業委託は、件数・面積ともかなり増大している。


 反収の推移

 温泉郡垣生村東垣生(現松山市)の土屋氏が、弘化三年(一八四六)から大正七年(一九一八)までの間、三代にわたって記録した同じ水田一反歩の収量をみると、文久元年(一八六一)と同二年に三九一kgの反収をあげている。愛媛県全体の平均反収がはじめて二〇〇kg台になるのは明治一八年(一八八五)、三〇〇㎏台になるのは同四四年(一九一一)、四〇〇㎏台になるのは昭和三年であるから、土屋氏の稲作技術の高さがわかる。水稲の多収穫については品種の選定同様に篤農家は特に力をいれた。大正三年(一九一四)に愛媛県農会主催で行なわれた水稲多収穫競作会には三〇〇点が出品され、伊予郡原町村(現砥部町)の相原弥太郎が一〇四二㎏の反収をあげ第一位となった(表3-4)。これは大正一二年(一九二三)までの全国第六位の優れた記録であった。この大会の上位者をみると伊予郡原町村(現砥部町)の農民が目立つ。また伊予郡岡田村(現松前町)や温泉郡余土村(現松山市)も高い反収をあげた農民を出している。昭和五年の愛媛県農会主催水稲多収穫競作会では、温泉郡生石村(現松山市)の和田源次郎が八一一㎏の反収をあげて第一位となったほか、第三位温泉郡久米村(現松山市)の七九〇㎏、第七位伊予郡岡田村(現松前町)の七八五㎏、第九位伊予郡原町村(現砥部町)の七七二kg、第一〇位伊予郡岡田村(現松前町)の七六七kgなど松山平野の農民が上位に続いている。こうした多収穫の伝統は市町村別の水稲反収にも表われており、砥部町を除く松山平野の二市三町はいずれも上位に位置している(表3-5)。

図3-1 松山平野における農業生産の地域区分見取り図

図3-1 松山平野における農業生産の地域区分見取り図


図3-2 松山平野における稲の作付面積・収穫量の推移(昭和39~56年)

図3-2 松山平野における稲の作付面積・収穫量の推移(昭和39~56年)


表3-1 松山平野における主な農業生産(昭和56年)

表3-1 松山平野における主な農業生産(昭和56年)


表3-2 松山平野における田耕地面積の推移と5年ごとの減少率

表3-2 松山平野における田耕地面積の推移と5年ごとの減少率


表3-3 松山平野における水稲栽培規模別農家数

表3-3 松山平野における水稲栽培規模別農家数


図3-3 松山平野における農用機械の個人所有状況(昭和55年)

図3-3 松山平野における農用機械の個人所有状況(昭和55年)


表3-4 愛媛県農会主催 水稲多収競作会記録(大正3年)

表3-4 愛媛県農会主催 水稲多収競作会記録(大正3年)


表3-5 水稲10アール当たり収量の上位市町村

表3-5 水稲10アール当たり収量の上位市町村