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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

五 石手寺


 四国遍路と石手寺

 道後の石手寺は、古くから四国八八か所のうち五一番の札所として名を知られ、遍路にとって忘れられない大伽藍である。道後温泉から東ヘ一kmのところにあり、温泉付近に立ち並んでいた多数の遍路宿と結びついて、四国遍路の重要な拠点として、遍路の散集する場所としての地位を保ってきた。
 神亀五年(七二八)国司越智玉純が聖武天皇の勅願で建立、本尊薬師如来は行基作と伝えられている。初め安養寺と号し法相宗であったが、弘仁四年(八一三)空海が真言宗に改め、寛平四年(八九二)に石手寺と改称したという。
寺名の起こりである衛門三郎の伝説は有名で、領主河野伊予守息利の長子息方は衛門三郎の生まれかわりといわれ、息方出生後三歳まで、弘法大師筆の「衛門三郎再生」と書いた小石を左手に握っていたと伝えられ、その小石が今も寺宝として残っている。
 石手寺はまた、数々の文化財をもつ寺院としても知られ、あるいは民間信仰の場として朝夕多くの参拝者が訪れる。


 石手寺境内

 市内に、この寺ほど多く見るべきものをもつ所は他に例を見ない。国宝一つ、重要文化財建造物六つ、工芸品(鐘)一つ、県指定の有形文化財工芸品四つ、彫刻四つ、絵画一つ、天然記念物一つ、市指定の物件工芸品四つ、彫刻一つ、考古資料三つ、古文書一つ、と誠に豊富である。
 石手寺の入口、今は枯死してしまったが県指定天然記念物であった老松の下に五輪塔がある。寺伝によると、源頼義の墓だといい、もと石手寺の東北の山間にあったのを、江戸時代に現在の地に移建したといわれている。総高二七三cm余りあり花崗岩の豪壮な五輪塔で、昭和二七年に重要文化財に指定された。石橋を渡って境内に入り、土産物屋の並ぶ廊下をくぐり抜けると、国宝の楼門(仁王門)がある。昭和二七年に国宝に指定された。文保二年(一三一八)の創建と伝えられ、三間一戸、左右翼廊付、重層入母屋造、本瓦葺で、全体の容姿はよく均整がとれ全国屈指の楼門といえる。また、中に納められた金剛力士像は運慶派仏師の作品といわれ、県指定文化財となっている。
 仁王門を抜けた境内には、重要文化財の本堂、三重塔(塔婆)、護摩堂、鐘楼、詞梨帝母天堂など多くの建造物が配置されている。本堂は桁行五間梁間五間、屋根は深い入母屋造り本瓦葺、柱はすべて円柱が使用されている。三重塔は三間四方の和様建物で、容姿はよく均斉のとれた清楚な感じをうける。護摩堂は宝形造、和様の簡素な建物であり、柱には面とり角柱が使われた特異な構造をもっている。詞梨帝母天堂は桁行一間、梁間一間、桧皮葺きの一間流れ造りの小祠である(写真2-25)。


 民間信仰

 明治一二年の寺院明細帳では二二の建造物が記載され、この地方の寺院にあっては群を抜いた存在である。そのうちの多くは今日も現存し、それぞれが一般庶民の素朴な信仰対象としても機能している。例えば、詞利帝母天堂は出産・安産の神として参詣者が多く、ここに願を掛けて堂前の小石を持ち帰り、願いが成就すれば、同じ大きさの石を新たに添えてお礼詣りをする習わしである。祠の前には、氏名・年齢を記した小石がうず高く積まれている。また、韋駄天堂には足を病む人々が平癒を願って藁草履を奉納しているし、子育地蔵も祀られている。このように、本堂・大師堂の他に民間信仰の対象となる小祠小堂が数多く併祀されているのが、いわゆる札所寺院の一つの特色でもあるようである。
 さらに、境内裏の愛宕山には、山頂の愛宕権現のほか、全山に亘ってミニ霊場の新四国が開設されており、これまた参詣者が絶えない。石仏の銘文などから、弘化二年(一八四五)に開かれたものと推定される。


 石手寺宝物館

 境内の奥まったところに位置しており、開館時間は九時から一七時まで、観覧料は大人八〇円・学生五〇円・小人三〇円である。内容は絹本仏涅槃図、弘法大師御真筆、木造菩薩面(二四面)、銅三鈷鈴、獅子頭、金銅弥陀三尊掛仏、さらに寺の歴史や永禄一〇年(一五六七)の衛門三郎の由来を刻む河野通宣刻板などである。