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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

六 松山港の内外貿易

  1 海上出入貨物

 戦前の海上出入貨物

 昭和初期における松山港の出入貨物総トン数は移出と移入を合わせて約二〇万トン、入港船舶数は約二万隻であり、この傾向は一二年ころまで続いた。一三年になると移出入量は社会情勢の急変により大幅に増加し、一四二万五三一〇トン(移出九一万六五五トン、移入五一万四六四五トン)となった。一五年には戦前最大の移出入量が記録されるとともに入港船舶数も最大となった。同年の移出入量は一八〇万九五五二トン(移出七三万三三九四トン、移入一〇七万六一五八トン)であり、入港船舶総数は一〇万六〇九〇隻であった。
 一七年の移出入品目を見ると、移出(八三万一一四二トン)は木材類と雑貨類で九三%を占めており、他に米穀類や生糸などがある。移入(七五万五九二○トン)は木材類(三〇%)、雑貨類(二九%)、石炭及びコークス(一四%)が中心で、他に鉄砿石及び同製品や金属及び同製品等が見られ移出入とも戦前の特色をよく表わしている。


 戦後の海上出入貨物

 一九年までは出入貨物量は一五〇万トン以上あったが、敗戦とともに激減し二一年にはわずか二九万二八五三トンになった。しかし、戦後の全国的な経済復興及び松山地区における臨海工業地域の成長等により、二八年には再び一〇〇万トンを超えた。同年の移出品目を見ると油類(約二五万トン)、木材類(約一六万トン)等であり、輸移入はラスタヌラ(サウジアラビア)からの原油輸入(約一七万トン)をはじめ、油類、石炭・コークス、鉄砿石、セメント、金属、木材、雑貨等の移入が見られる。
 二九年七月一日の関税法による開港指定以後は従来の内国貿易に加えて外国貿易が本格的に開始され、松山港の出入貨物量は増加した。総トン数を見ると三〇年には二〇〇万トンを超え、三五年には七〇〇万トン以上に達した。四〇年から自動車航送(自航)が開始されたため、同年には九〇〇万トンを超えた(表2-37)。輸出入は三〇〇万トン程度で、他は移出入で占められている。輸出入はそれ以後も二〇〇万~三○○万トンで推移しているが、移出入のうち自航によるものの増加が顕著である。自航によるものは、四〇年には出入貨物量の一二%であったが、四五年には三五%となり、五五年には五四%に達した。現在では出入貨物量の半分以上を自航に依存している(図2-32)。
 出入貨物総トン数は四三年に輸出入が三〇六万七五五四トン、移出入が八一〇万九〇七〇トンとなり、はじめて一〇〇〇万トンを超えた。その後も出入貨物量は増加し、五四年には一八〇〇万トンに達した。しかし、以後は重化学工業部門の構造的不況等の影響のため漸減状態に陥っている。


  2 輸出入品目及び数量

 輸出入量

 戦後外国貿易が始めて行なわれたのは昭和二七年であった。同年の輸出は九五九トンで、輸出先はすべて沖縄であった。また輸入は一一万三九〇〇トンで全てラスタヌラ(サウジアラビア)からの原油であった。
 松山港が開港に指定された二九年以後輸出入量は増大し、三〇年には六七万五四一八トンとなった。しかし、このうち輸出はわずか二八六二トンしかなく、輸出品目は飲食物(一三五四トン)、雑品(三〇八トン)であった。輸入品目は原油がほとんどすべてを占めており、輸入量は六七万三三八八トンである。輸入先は二七年の場合と同じくラスタヌラからのものがほとんどであるが、わずかにウムサイドやバーレンなどのものも見られた。
 輸出は年による変動が激しく、三五年には一六万四一二七トン(アメリカ合衆国向けの石油製品)であったが、四〇年には皆無になってしまった。その後輸出は五万~一〇万トン程度で推移しており、松山港の出入貨物総トン数からすれば一%にも満たない量である。


 輸出品目及び輸出先

 四五年は糸及び紡績半製品(二六七二トン)と化学薬品(五八三トン)がいずれも韓国へ、その他機械類(一七四四トン)がフィリッピンヘ輸出されており、発展途上国が輸出の対象国となっている。五〇年になると、その他化学工業品が輸出総トン数の七九%に当たる五万二二三二トソが輸出されており、輸出先は主として韓国で、わずかにフィリッピンやタイ向けも見られる。その他の輸出品としては、その他機械類(七六一五トン、イソドネシア・オランダ等へ輸出)、化学薬品(五一三八トン、韓国・フィリッピンヘ輸出)等をはじめ、同年ころからその他食料工業製品(ジュースなど)の輸出が見られるようになった。
 その他食料工業製品の輸出は五〇年には輸出総トン数のわずか一%(六四トン、サウジアラビアへ輸出)であったが、五五年には六三%(四万一九八八トン)に増加し、輸出先も中近東ばかりでなく、東南アジアや東アジア諸国にも広がってきた。しかし依然としてサウジアラビア向けのものが多く、全体の六七%(二万八四九四トン)を占めている。


 輸入品目及び輸入先

 輸入量は二九年には約五一万トンであったが、それ以後増加が続き三五年以後は二五〇万~三五○万トンで推移して来ている。三五年の輸入を見ると、原油が輸入総トン数の九九・九%を占め、松山港の輸入と言えば原油という時代を象徴する時期であった。輸入先はクウェートが六九%、インドネシアが二九%であった。四〇年になると原油の輸入量はさらに増加し三二三万九〇〇〇トンとなり、輸入先もサウジアラビア・クウェート・イラン(各々全体の二〇%以上)のほかインドネシアやソ連からの輸入も見られる(図2-33)。
 このころから原木の輸入が見られるようになったが、四〇年の原木輸入は輸入総トン数のわずか二%(六万九八六八トン)であった。しかし四五年には輸入総トン数の一〇%(三一万五〇〇九トン)に増大している。同年の木材輸入先はアメリカ合衆国が全体の四八%で、他にニュージーランド・フィリッピン・北ボルネオ・マレーシアからの輸入もあった。原油の輸入量は二七二万一七九トンで輸入総トン数の八八%を占めている。輸入先はイランからのものが七三%で大半を占めているが、インドネシア・ソ連からのものも見られる。なお、中国からの原油輸入は四九年から開始された。
 四九年度から今出地区の木材専用港の築造が始まり、マイナス一Om岸壁二バースが完成したのに伴い、木材輸入量は増大していたが、五三年の木材集積地の完成を契機に輸入量は一層増加した。五五年の輸入品目・数量を見ると、原木は全体の一八%に増加している。なお、同年の原木輸入先はアメリカ合衆国からのものが六一%を占め、二二万三三九一トンに達しているが、原油は減少し全体の六九%となった。原油の輸入先はインドネシアからのものが全体の二七%、次いでサウジアラビア・イランとなっている。イラン・イラク戦争の影響等のため従来と比較してイランからの輸入が減少している。

表2-37 松山港の海上出入貨物及び入港船舶総数等の推移(松山港)

表2-37 松山港の海上出入貨物及び入港船舶総数等の推移(松山港)


図2-32 松山港の海上出入貨物の推移(昭和5~55年)

図2-32 松山港の海上出入貨物の推移(昭和5~55年)


図2-33 松山港の輸入品目及び原油・原木輸入先の推移

図2-33 松山港の輸入品目及び原油・原木輸入先の推移