データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

一 松山市の商店街

 地区別概況

 昭和五四年における松山の商店一万五五九のうち集積が大きいのは番町の一六二五、東雲九九八、味酒七七四、雄郡六五〇の順となっており、続いて商店数五〇〇以上の地区は、道後・石井・清水・八坂・新玉・三津・素鵞である。卸売商店の割合が高い地区は、久枝の四四・八%をはじめ潮見の三〇・二%、以下清水・味酒・余土・石井・新玉・味生がつづき二五%前後となっている。味酒・清水・新玉は卸売商店の集積は大きいが、商店数、年間販売額の伸び率は低く、久枝・垣生・素鵞・石井・潮見・三津浜の六地区は、商店数、常時従業者数、販売額ともにその増加率が市の平均を上回った。
 小売商店の集積が大きいのは、番町六五九、次いで三津浜五五〇、味酒三六七、東雲三六三、雄郡三四四の順となっており、三〇〇以上の地区は石井・素鵞である。このうち味酒・雄郡・石井は商店数、常時従業者数、年間販売額の伸びが大きい。飲食店については、番町八八〇、東雲五六一とこの両地区に特に集積が大きく、松山市全体の四一・八%にあたる。特に、この地区においては全商店の過半数が飲食店である(表2-25・図2-24)。
 ドーナツ化現象が進展する中で、従来各種商店の集積が大きい地区であっても世帯数の減少が進んでいる地区においては卸売・小売業が停滞している。一方、石井・久枝を核とした周辺地域では商業活動が活発化している。


 大規模小売店

 松山市における大型店としては、まず「三越」が昭和二一年に進出し、四六年の「いよてつそごう」開設まで百貨店の地位を独占した。松山市における小売業の核的存在として、大街道商店街の発展と深くかかわってきた。
 四三年三月の「フジ湊町店」「いずみ」、四月の「ニチイ」の進出によって本格的なスーパー時代の幕が開けた。四四年以後は「フジ」の多店舗化戦略が開始される一方、四五年一二月には「ダイエー松山店」(現在千舟ショッパーズプラザ)が進出し、千舟町通りに新たな核が出現した。四六年七月には「いよてつそごう」が開店した。これを機に、松山市駅前の再開発構想がスタートしており、こうしたことから松山市駅周辺の顧客吸引力は飛躍的に上昇した。その後、「いよてつそごう」は「三越」と顧客の人気を二分することとなり、交通条件、人口動態面に恵まれていた銀天街にさらに大型店の強味も加わり、銀天街の成長性が大街道を上回ることになった。四八年一一月には、「ニチイ」をキーテナントとして既存店四店が入居する形で「ラブリープラザ」が開店し、これにより市駅側に比べてやや停滞気味であった湊町三丁目商店街は再び活気を取り戻した。五二年七月には、「ラブリープラザ」と同様の形で熊本市のスーパー寿屋をキーテナントとして既存店四店が加わった「シルバーモール」が開店し、銀天街の「まつちか」入口付近における核となった。
 大型店売上高の品目別構成をみると、一般に(全国平均)、百貨店においては衣料品が四二・七%と主力を占め、次いで食料品、家庭用品(家具・電器・台所用品)、雑貨の順になっている。スーパーでは衣料品三三・六%、食料品四三・一%と二品目で四分の三強を占めている。松山市内の大型店の場合、「三越」はほぼ全国平均並み、「いよてつそごう」は全国平均に比べて食料品(二五%強)のウェイトが高く、衣料、家庭用品のウェイトが低い。また、食堂・喫茶部門は両店とも全国平均(二・七%)を大きく上回って五~七%を占める。スーパーについては、衣料部門が強く、「ニチイ」(ラブリープラザ)、「フジ湊町店」ともほぼ衣料品一〇〇%、「愛媛いずみ」も衣料品が五〇%を超えている。「千舟ショッパーズプラザ」(ダイエー)はほぼ全国平均並みであるが、それでも衣料品と食料品のウェイトは接近している。このように、松山市内における大型店は衣料品部門に重点をおいており、その分中央商店街の衣料品店に与えた影響が大きかった(表2-26)。
 人口移動による都市構造の変化とモータリゼーションの進展は、駐車場の有無をキーポイントとして、中心商店街の地区別動向に大きな影響を及ぼし、中心商店街地域の大型店の集客力に大きな差を生じさせる一方、大型店の郊外への進出と大商圏に居住する顧客をもつ大型店の形成を促している。例えば、「三越」では、立体駐車場と本館駐車場を合わせても、日曜日には一日で八〇〇台しか処理できないが、「いよてつそごう」はターミナル口駐車場と西側駐車場を合計すると、日曜日には一日で約二七〇〇台の車を収容している。また、「ダイエー南松山店」では、五六年一一月八日(日曜日)の調査によると、一日の総入店客数が一万二六八五名、駐車台数三三八一台、総入店客数に占める車で来店した人の比率は六五・九%、自家用車族の三〇%は七㎞以遠の大商圏に居住する顧客である。


 中央商店街の発展

 大街道一・二丁目、湊町三・四丁目および「まつちかタウン」(地下商店街)は松山の中心をなす商店街である。松山市駅から一番町口にかけて一二〇〇mにおよぶL字形商店街は、交通網、大型店配置ともにほぼ理想的に配置された商店街として、強大な商業力をもち、県内各地域からの集客力も非常に大きく、その美しさと充実した街並みは、全国的にも早くから知られてきた。
 藩政時代には、大街道は小唐人、湊町は永町あるいは長町と呼ばれ、一・二・三番町や山手代町(千舟町)に住む武士相手の商店が若干みられるにすぎなかった。明治維新になり、県庁(明治六年設置)や市役所(明治二二年市制施行・人口約三三〇〇〇人)が城南地区に設置されたことから、松山の都市機能は城南地区に集中するようになり、商業機能も古町から外側に中心が移り始めた。
 明治二一年の伊予鉄松山―三津間軽便鉄道開通以来、松山市駅・一番町が三津・道後とともにターミナルとして発展していくことになり、大街道・湊町はこの松山市駅と一番町をつなぐ重要ルートとして、沿道に商店が立ち並ぶようになった。わが国の富国強兵策による経済の拡大と相まって、商店街として順調な歩みをみせ、ここに松山における中央商店街の地位は古町から大街道・湊町へ完全に移ってしまうことになった。
 明治二〇年には大街道の街頭にガス燈が架設された。大正の末期から昭和初期にかけて、大街道・湊町双方に鈴蘭灯が建設され、引き続いて湊町には南北両側にまたがるテントが、大街道には東西両側にまたがる鉄骨のアーチが架設された。昭和三年に県下で最初に行われた交通調査によると、大街道一・二丁目は平日で一万人を超え、もっとも人出が多かった。当時、湊町が初めて道路のアスファルト舗装を完成させた。大街道は日よけテントの延長計画を変更、昭和四年に道路をアスファルト舗装した。大街道と湊町は競い合いながら、共同施設によって近代的装いを凝らしながら順調な発展を遂げた。


 松山中央商店街

 昭和二〇年七月二六日の空襲で松山の中心街はほとんど焼失し、中央商店街も灰燼に帰した。戦災直後、大街道・湊町の商店主の多くが、戦災を免れた立花に間口を借りて商売を始めたため、立花町が一時松山の中心商店街と化した。しかし、昭和二一年に三越百貨店が大街道に開店した頃から大街道・湊町商店街の復興が始まり、数年を経ずして往年の中心商店街が再現した。この地域における商店の営業開設の年をみると、戦後開業のものがすでに三分の二を越える現状である。また、三番町には証券会社や銀行支店が集中した。
 松山中央商店街は、一番町口の「三越」と後に開業した「いよてつそごう」の二大デパートをL字形商店街の両端に要とし、スーパーラッシュの中で進出してきたいくつかの大型店を、途中の核店舗として着々と発展してきた。一方、都市地域の拡大と店舗、遊興娯楽施設の郊外化、モータリゼーションの進展は商業活動の郊外化を進め、主要道路に結びついているにもかかわらず、駐車場施設の不十分なこの地域に大きな問題を投げかけてきた。また、松山市駅がバス路線・軌道路線のターミナルとして強大な顧客の吸引力をもつのに対して、郊外バスの一部しか停車しない一番町口においては、バスおよび市内電車利用客の減少と合わさって、顧客吸引力が低下した。
 交通量調査の結果をみると、来街者の回遊距離は短くなっており、一二〇〇m通しての往来客は減少し、市駅あるいは一番町口を拠点とする動きが多くなっているため、中間地域である湊町三丁目から大街道一丁目特にL字形結節地域の人の動きが少なくなっている。
 商業近代化委員会松山地域部会の地区間来街者移動調査によると、大型量販店はそれ自体で高い集客能力を保有しているが、さらに相互に結合し合うことによってより一層高い集客能力を持つに至っている。一方、一般小売店はそれ自体では高い集客能力を保有せず、何らかの形で大型量販店と結合した形で顧客を集めているとの指摘がなされている。これらのことから、核店舗が存在しているかどうかと合わさって、この中央商店街における地域格差の問題が生じてきた(表2-27・表2-28)。
 中央商店街の業種構成をみると、衣料品一三六(三六・八%)、文化品七〇(一九・〇%)、飲食・喫茶五七(一五・四%)、身の回り品四二(一一・四%)、食料品二九(七・九%)、娯楽・サービス一九(五・一%)、家庭什器一六(四・三%)となっている。婦人服が急増して全商店の約二二%を占めるに至ったほか、袋小物類を扱う身の回り品店が増加し、婦人客と結びついた各商店の専門化の傾向がとらえられる。飲食・喫茶の急増と、菓子を主とする食料品店と家庭什器の減少傾向が強いこととも併せて、消費生活の変化や大型店・量販店進出との関係が著しく現れたものである。どの地区も衣料品・文化品主体の構成となっているが、「まつちかタウン」と大街道二丁目については、飲食・喫茶のウェイトがそれぞれ四五・七%、二一・五%とかなり高くなっている。五三年と比べると、湊町四丁目、大街道一・二丁目ともに婦人服を中心とする衣料品店の増加と若干の喫茶店の増加というパターンで変化してきたが、湊町三丁目のいわゆるL字型接点地区では他の地区に比べて変化が少ない。

 <まつちかタウン>  松山市駅前は、松山市の交通拠点として、伊予鉄道松山市駅、バスターミナル、市内電車・市内バスの乗降場が集積しており、また中央商店街や「いよてつそごう百貨店」にも接していることから、一日一〇数万人の人々が集散する県下最大の輻湊地である。
 「まつちかタウン」は、将来の地上交通の安全、円滑を図り、都市再開発による周辺地域の振興と美化を目的として、昭和四四年一二月二七日着工、約七億円をかけて、四六年四月一日に四国で初めて完成した地下街であり、その後、五六年には約一・五億円をかけて改装が行われている。地上連絡口としての七か所の階段と二か所の地下連絡口で銀天街、市駅前商店街、「いよてつそごう」と連なる。占用延面積四五一六㎡の空間のうち三七・六%の一六九六・八二㎡が店舗面積であり、すべてが松山市駅前地下街の貸店舗で、現在三三の店舗が進出している。東半分のショッピング街に対して、西半分には飲食・喫茶店が連なっており、商店街の性格としては、市駅と銀天街の結節機能をもち、憩いの場的性格が強い。

  <銀天街商店街>  銀天街(湊町三・四丁目)商店街では戦前からアーケード建造の気運が強く、戦後の復興が進展するにつれてその気運は盛り上がっていった。昭和二八年に二〇〇〇万円を投じてアーケードが造られ、三四年にはこれにモダンな照明が付設された。四〇年頃から全面改修の計画が持ち上がり、四一年に湊町三丁目、四二年に湊町四丁目でそれぞれ現在の近代的なアーケード(歩道幅八m、全蓋式、高さ六m)が完成した。この全面天井および建築化照明によるアーケードは全国でも初の試みであった。また、同時にカラー舗装、統一看板も完成した。さらに、四〇年にバイク、四九年に自転車のそれぞれ進入禁止が実施され、五七年の大街道全蓋式アーケード完成まで、松山で唯一の軽車両進入禁止商店街であった。
 市駅よりの湊町四丁目商店街は、中央商店街の中でも最も街力の強い地区である。ターミナルとの関係など立地条件がよく、販売額も群を抜いているが、レジャー機能がやや弱いといわれている。「まつちかタウン」入口付近の店舗力の弱さが指摘されていたが、昭和五二年七月の「シルバーモール」開店が一つの核を構成するようになった。
 湊町三丁目は、街力としては湊町四丁目に次ぐが、松山市駅と一番町口を拠点とする買物客の行動範囲の谷間にあたるところで、もともと四丁目に比べてやや停滞気味であった。昭和四八年の「ラブリープラザ」開店により活力を取り戻したといわれるが、L字型接点付近の衰退は著しく何らかの対策が必要とされてきた。昭和四六年の中小企業振興事業団による商店街診断においても、「L字型の結接点及び松劇通りを含めた都市の再開発が必要である」の勧告がなされ、地元においても各種の検討がなされてきたが、まだ実現への具体的な動きにはなっていない。

  <大街道商店街>  大街道は、戦後「銀座の柳」にならって柳を植え、柳並木が名物になった。また、歩車道(歩道各四m、車道七m)に分かれたが、歩道部分の上に板張りのアーケードが設置されるようになり、その後トタンぶきに改良された。やがて四二年に大街道一丁目、四三年に二丁目でそれぞれ大規模な近代的アーケード(高さ四m、瀬戸大橋を表象)が完成、同時に歩道のカラー舗装もでき上がり、「大街道の柳」は姿を消したが、花壇や統一看板の設置と相まって街並みは一変した。
 大街道商店街は、娯楽・サービス面で湊町三・四丁目より高い構成比を示してきた。このうち南部の一丁目は、構成比の上で湊町と類似の衣料品・身の回り品が多いパターンである(湊町三丁目六六%、大街道一丁目六一%)。湊町三丁目の「ラブリープラザ」から大街道二丁目の「ダック松山」までの間約四〇〇mにわたっては、核店舗がなく、通行量も少なく、また千舟町通りによって銀天街と分断されていることが集客力の上でマイナスとの問題があげられていた地区である。五三年当時飲食・喫茶がゼロであったが、五八年四月現在では三店の立地が認められた。
 大街道二丁目は、従来から「三越」への依存度がきわめて高い地区であった。昭和二〇年代から三〇年代にかけて、「三越」とともに松山中央商店街の中心として発展してきた。しかしながら四六年の「いよてつそごう」の開店以来、「三越」の相対的地位の低下に伴い、当地の街力は次第に低下し、銀天街との地位が逆転してしまった。
 業種構成においても、食料品、飲食・喫茶の二業種が多く、「三越」の補完機能的商店街の性格がうかがわれた。この五年間の変化をみても、やはりまだその傾向は強く残っているが、婦人服店および身の回り品店の急増と菓子店の減少が目立っている。


 ニュー大街道

 松山地域商業近代化地域計画報告書は、再開発すべき地域として、大街道商店街および銀天街商店街のうちの大街道商店街との接点地区を取り上げている。
 大街道商店街については、(一)銀天街商店街に比べて通行量がしだいに減少し、大街道商店街の地盤沈下傾向がみられる。(二)商店街が車道によって東西に二分されているので片側商店街の性格をもち、買物客も二分されて商店街としてのまとまりが十分でない。(三)大型店が一番町側の商店街入口に集中し、一丁目と二丁目とでは格差が生まれている。(四)一店一店はすぐれた店が多いし、専門店も少なくないが、商店街全体としては個性に乏しい。(五)近くに公営駐車場がなく、銀天街商店街に比べて駐車能力が不足しているとして、接点地区も含めて、再開発の方向を提案した。そのうち大街道については、①緑の買い物公園、②買い物と食事と遊びの広場、③ヤングとニューファミリーが集まる、触れあいの空間をめざすことが望ましいとの再開発の方向を提言した。
 大街道中央商店街振興組合(上野長寿理事長・組合員五二人)、大街道商店街振興組合(田中渉理事長・組合員九八人)により、五年がかりで再開発計画の研究が行われ、五六年八月に全蓋式アーケード・路面一体化案が決定した。それに基づいてアーケード建設委員会が組織され、総工費一四億一〇〇〇万円(約一〇億円は県の融資、市の補助二億一四三五万円)で五七年二月四日から工事に取りかかり、同年一〇月二二日にオープニング・セレモニーが行われた。
 アーケード建設が行われたのは、大街道一・二丁目の延長四八三m、幅員一五mで、帯広市の広小路、熊本市の紳士町に次いで全国で三番目の規模に相当する。「シンプル&モダン」をテーマに鉄骨構造、中央ドーム屋根方式の全蓋アーケードが建設された。
 ドーム屋根部分は乳白色のポリエステル製で、モール(青天井)と全蓋アーケードの長所を組み合わせるため一ブロック二二mのうち三分の二が自動開閉できるシステムとなっている。支柱には全蓋アーケードとしては、全国初の中柱方式(四四本、ステンレス製で瀬戸内の自然を象徴した装飾が施されている。)が採用され、アーケードの高さは天井部分で七~七・二m、ドーム部分一三mの広い空間が作り出された。車・歩道をなくし路面を一体化してカラー舗装がほどこされ、六か所にワインカラーのヨーロッパ調電話ボックス(そのうち一か所は身障者用)が造られ、二〇mおきに高さ五mのセンボンギ(かくれみの)が二二本植えられたほか、木製ベンチ、花壇、フラワーコンポ灰皿、クズ入れが置かれた。また、長さ二二m、幅八mの広場であるイベントホールが一〇か所に設けられ、展示、文化的催し物に利用する計画をもっている。さらに、天井部分が高くなったために、二階の利用を始めるなど、アーケード建設をきっかけに店舗の改装をする店もあり、商業集積が高まる可能性も出てきた。

図2-24 松山市の地区別小売業商店数・世帯数の増減率(54年/51年)分布状況

図2-24 松山市の地区別小売業商店数・世帯数の増減率(54年/51年)分布状況


表2-25 松山市の地区別商店数と業種別構成(昭和54年)

表2-25 松山市の地区別商店数と業種別構成(昭和54年)


表2-26 松山市に進出した百貨店・スーパー

表2-26 松山市に進出した百貨店・スーパー


表2-27 中央商店街の業種別構成

表2-27 中央商店街の業種別構成


表2-28 中央商店街の地区別業種構成

表2-28 中央商店街の地区別業種構成