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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

第二節 中予の地域区分

 中予の地域区分

 本巻地誌Ⅱ(中予)は次の六地区に分けて記述する。一 県都松山市 二 松山(道後)平野(松山市近郊) 三 北条(風早)平野 四 伊予灘海岸 五 忽那諸島(島しょ部) 六 久万高原とその周辺(山間部)


 県都松山市

 大化の改新を経て国郡制が整備されていったころ、『和名抄』(九三〇年ころ)によると、現在の松山市の領域には和気・風早・温泉・久米・浮穴・伊予の六郡一六郷が存在している。時代は下って、近世農村の機構が確立した慶安元年『伊予国知行高郷村数帳』(一六四八)によると、現松山市の領域内六郡の数と名称に変わりはないが、村数は一〇四か村に達している。さらに下って、明治二二年(一八八九)市町村制が実施されると、松山市は本県最初の市として発足するが、松山市のその後における市域拡大ならびに主要教育・文化および交通機関の整備経過をみると、表1-1・1-2のごとくである。
 市制発足時の人口が三万余りであった松山市が、四一万を超える四国第一位の都市にまで、成長発展させた要因は何だろうか。
 松山市はわが国の都市のなかでは、奈良・金沢・松江などとともに、訪ねてみたい、住んでみたい、と思う都市の上位グループにあるようである。このことは、松山市が魅力ある地域固有の、生活文化をもっていることの反映とみることができよう。
 古くから聖徳太子をはじめ貴人の来浴があった道後温泉、万葉女流歌人額田王の歌にみる熟田津の港、加藤嘉明により形成、命名された城下町松山、石手寺をはじめ四国八十八か寺のうち八か寺をもつ松山、正岡子規・高浜虚子らの俳人を生んだ詩情豊かな松山――。これら松山市の個性ある歴史と文化が、温暖で台風・地震などの少ない自然環境とともに、松山市に「おだやか」で落ち着いた風情・風格を付与しているといえる。
 松山市域の形をみると、旧荏原村と旧坂本村の合併した旧久谷村が南に突出し、三坂峠(七二〇m)で久万町に接している。市域全体の姿からみると、この合併した旧久谷村が重信町と砥部町との間に袋状に深く入り込んでいる。このため全体としての格好はよくないが、この地区は、集落・寺社・道路・信仰などに、古くからの趣を伝えて田園風情があり、「やすらぎ」の場を与える地区となっている。
 熟田津については山越説・和気堀江説・三津説などがあるが、道後温泉に近い城北の山越か姫原か堀江和気方面と考えるのが無難である。なお、堀江の内宮の遍路橋付近までは、条里制の遺構があるので陸地であった。海岸線が一三〇〇年前に、姫原や山越まで湾入したと考えるのは無理である。潮入川を底の浅い高瀬舟で、道後温泉の近くまで遡ったり、下ったりしたもので、海上を航行する船とは乗換えたものと思われる。


 松山(道後)平野

 行政区域でいえば、松山市・伊予市・松前町・重信町・川内町などを含む地域で、重信川・石手川流域の松山近郊の平野である。昔から東予の道前平野に対して道後平野と称してきた。建設省の面河川の水利事業でも「道前道後水利開発事業」と称している。しかるに戦後、建設省管下の国土地理院が、濃尾平野や近江盆地など伝統的な呼称は認めながら、道前平野を新居浜平野に、道後平野を松山平野と改めて、検定の地図帖にも載せてしまった。その平野の中心都市名を平野名にしたのはうなずけるが、西条平野・周桑平野の区域を新居浜平野で統括していることや、昔の中等学校の校歌にも唄われ、なじんでいる、伝統のある道後平野の名を改めたことを迷惑に感じている人々は多い。
 この地域の人々に大きな影響を与えたものに替地による藩域の改変がある。松山平野の地域は寛永一一年(一六三四)までは松山領であった。蒲生忠知が嗣子なくして京都で急死してお家は断絶となり、久松定行が松山に就封するまでの一年間は、大洲藩主加藤泰興が管理した。その間に、大洲藩は家老大橋作右衛門の計略で、藩政上、不便な風早郡と桑村郡にある大洲領の飛地五七か村一万三千余石を、大洲領と地続きである松山藩領の、伊予郡と浮穴郡内の三七か村一万三千余石とを替地し、同一二年八月幕府の許可を得た。「お替地」の名は生きて親しまれ、今でも松前の老人は、郡中へ行くことを替地へ行くという。また、伊予市には大替地という地名もある。
 松前地区の黒田村は二分され、北黒田は松山領、南黒田は大洲領、釣吉村も二分され、北(字安井)は松山領、南釣吉村(字加佐)は大洲領に編入された。その境界分けは石高を合わすための村分けで、不自然なところもあり、後に村境争いを起こす原因ともなっている。
 替地は領域の変革であって、領民は新たな事態への対応をめぐって、長年にわたる紛争を惹起することにもなる。山林の「入会山紛争」、漁場の「網代紛争」、灌漑の「水利問題」などはもちろん、両藩による障子の寸法や、塩の計量容器が違う不便などもあった。
 さらにまた、大洲藩主は禅宗を信仰し、儒教が盛んであったので、大洲藩内には四国八十八か所の札所は一つもない。これに対し松山市内には、四国の市の中では最も多い八か寺の札所がある。


 北条(風早)平野
         
 北条(風早)平野は北条市の平坦な区域で、まとまった地域である。立岩川・河野川・粟井川などの、複合扇状地式三角洲の地域であるが、旧浅海村は鴻ノ坂を越えて北側にある。また、高縄山(九八六m)の南の九川は、石手川流域であるが北条市域である。昔は分教場があったが、今は近くの松山市立の日浦小学校と日浦中学校に越境通学している。昔の不自然な行政区画のためである。
 北条平野を風早平野というのは、藩政時代には北条は辻や柳原と似た小さな集落で、北条の名を平野名にするほど成長せず、郡名の風早という名称を思慕する気風があったからである。昭和五三年創立の現在活動している文化団体に「風早歴史文化研究会」がある。
 風早平野の名は「風の早い地」という説が一般的で、西風の卓越するところの意のようである。松山市の和気地方が、太山寺丘陵や興居島のために、西風が防がれるところとなっているのと対照的である。昔の風早郡のうち五明村だけが松山市に編入された。風早郡の地方は北条市域であるに対して、島方は忽那諸島(風早諸島)と称し、安居島のほかは中島町に統合されている。


 伊予灘海岸

 伊予市の南部から双海町を通り、喜多郡の長浜町を経由して、佐田岬半島に至る岩石海岸は、伊予灘断層海岸として有名である。
 双海町の双海とは、上灘町と下灘村が合併したときの名称で、灘という字は字画が多いので、海としたといわれている。双海はフタミかフタウミか紛らわしいので、抵抗を感じ、昭和五四年に「伊予灘町」と改称する問題が起きた。町議会で決議し、町長まで改選したが、またもとのままである。
 この地域の特色は、傾斜地で平地が少ないこと、戦前は晒蝋や木炭製造が盛んであったが、戦後は柑橘栽培に変わった。沿岸は相変わらず漁業が盛んで上灘と下灘の二漁協があり、漁場も異なって競合しない。


 忽那諸島(島しょ部)

 忽那諸島(島しょ部)の忽那七島は瀬戸内海国立公園に入る島々で、中世には中島(忽那島)・睦月島・野忽那島・怒和島・津和地島・二神島と周防の柱島を含む地域であった。近年興居島を便宜上、柱島の代わりに忽那七島に入れているが、元来興居島は和気郡で、他の島が風早郡で一時大洲藩領であったのと性格を異にする。このほか中予には住民がいる島に安居島と由利島がある。興居島と釣島は松山市域で釣島には学校もある。
 安居島は北条市に属し、文化一四年(一八一七)に浅海の庄屋大内金左衛門が開拓するまでは、無人島の好漁場であった。昭和八年まで遊女のいた潮待港で、最近まで学校もあり、船乗業者の多い島である。
 由利島は二神島の付属島で、昭和四〇年まで六人住んでいたが、今は無人島である。戦時中は砲台や監視所があった。由利千軒といって大きい集落があったという伝説があるが、非現実的である。終戦当時、夏のいわしやたこの漁期に、二神島から約一〇〇人が来住し、掘立小屋をつくり、いわしを干していた時代があった。


 久万高原とその周辺(山間部)

 中予の久万高原とその周辺(山間部)は上浮穴郡五か町村と、伊予郡の中山町と広田村の行政区域からなる。上浮穴郡という郡名は明治一一年(一八七八)にはじまる。藩政時代に一〇〇か村あった浮穴郡が、上浮穴郡四四か村と下浮穴郡五六か村に分けられて成立したものである。
 その後、同二二年(一八八九)の市町村制実施により上浮穴郡は一五か町村、下浮穴郡は一四か村に整理された。下浮穴郡一四か村のうち、江戸期大洲・新谷藩であった八か村は同二九年(一八九六)伊予郡へ。翌三〇年、松山藩領であった六か村も温泉郡のうちに加えられ、下浮穴郡はわずか二〇年間で消滅することになる。
 その後、もと下浮穴郡たった温泉郡浮穴村と久谷村とは松山市に、南吉井村と拝志村とは重信町に、三内村は川内村とそれぞれ合併した。伊予郡の砥部町・中山町・双海町・広田村はもと下浮穴郡と称した。
 昭和一八年、上浮穴郡の浮穴村が分離して、北半分は喜多郡河辺村へ、小屋分は惣川村(現東宇和郡野村町)へ編入したので郡の面積に変更があった。

表1-1 松山市の隣接町村の編入

表1-1 松山市の隣接町村の編入


表1-2 松山市の主要教育・文化および交通機関の整備

表1-2 松山市の主要教育・文化および交通機関の整備