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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

一 御荘・城辺の姉妹町


 市街地の発達過程

 御荘町の中心、平城地区の歴史は比較的新しい。藩政期、四国霊場八十八か所第四〇番札所の平城山観自在寺の山門下に寺町が形成されたことによる。寺の縁日には寺町を中心に露店商が集まり、多くの参詣客で賑わっている。札所前の十字路から下手が柳町となって町場が形成され、平城村役場などが置かれていた。藩政期当地方の商業の中心は平城ではなく、僧都川河口に位置していた貝塚港と、その周辺の、馬瀬・節崎・長崎・長洲・菊川などであり、僧都川流域の林産物の積出港として栄えていた。また西宇和郡出身者による酒や醤油製造業が営まれ、これらの店舗平倉庫が集中した。しかし僧都川河口の土砂の堆積は次第にこれらの地区の港湾としての機能を失わせた。特に明治三五年長崎港が整備されると、これらの港は衰微した。
 門前町であった平城は、僧都川河口の諸港の衰微から次第に商業機能を集中した。それはまた交通の中心が海上交通から陸上交通に変化することに対応するものであった。
 明治中期には浦和銀行・第二九銀行御荘支店・御荘銀行などの金融機関が立地し、明治末期から大正にかけて市街地は僧都川右岸沿いに東にのびた。明治三〇年(一八九七)、郡役所をどこに置くかで、城辺以東の村と御荘以西の村で争われ、宇和島方面、船越方面どちらに行くにしても、交通便がよく、南宇和の中央であるという地理的条件から平城の中央部に設置された。また同じころ御荘警察署を平城下町に新設、城辺分署を廃止している。明治の終わりにはこのように政治の中心としての機能が集中するようになった。
 城辺は戦国時代の城下町で、現在の諏訪神社の上に本丸があった。僧都川と蓮乗寺川が堀の役目をしていた。明治維新当時は古町が町の中心であり、七~八軒の商店が存在していたという。現在の市街地が形成されたのは明治一二年(一九七九)の蓮乗寺川の改修以降である。
 明治一〇年(一八七七)から一二年にかけて西宇和の舟木屋、武内、井上らの移住、明治二九年(一八九六)御荘~一本松の県道開通、明治四一年(一九〇八)の城辺~深浦の県道改修が城辺商店街隆盛の大きな原動力となった。宇和島自動車が昭和一四年城辺町矢野町を起点として郡内各地や宿毛に運行してから、城辺町商店街は南宇和郡の表玄関としての機能をますます強めてゆくことになった。
 昭和二七年の緑僧都との合併、昭和三一年東外海町との合併は、農村漁村の商業機能を城辺商店街に集中させることになった。

 平城地区と官公署の分布

 郡を代表する官公署の分布は、宇和島地方局御荘出張所、御荘警察署、南宇和消防署、御荘電報電話局、南宇和高校など平城地区東部に集中している。ほかに、城辺町には属するが、僧都川右岸に位置する南宇和郡農協、県立南宇和病院などを合わせると、公共施設は城辺商店街と平城商店街を結びつける箇所に位置していることがわかる(図7―6)。
 平城地区が南宇和郡の管理中枢的機能をもつことは、昼間人口の動きにあらわれている(表7―20)。就業者、通学者共に流入超過を示しているのは御荘町だけである。特に南宇和高校が御荘町にある関係で通学者の流入・流出が御荘町と他町村で対比される。

 城辺地区の商業機能

 城辺の商店街は、かつての国道五六号(昭和五一年バイパス完成後、県道となる)沿いに形成された典型的路線型商店街といえる。道路の幅員は五~六mで、人車分離はない。
 城辺町の施設密度は一一四八㎡で、宇和島の一〇三八・八㎡を上回っている。店舗密度・店舗規模などにおいても他町村をはるかに上回っており、城辺が南宇和郡全体の中心的商店街としてかなりの力をもっていることが推察される(表7―21)。城辺町の昭和五七年の小売商業人口支配率は一〇〇・三%で野村町に次ぐ高い比率となっており、かなりの消費需要を周辺町村より吸収している。しかし昭和五四年と比較すると九・八ポイントの大幅な落ちこみとなっており、町外流出が懸念される。宿毛市が一〇〇以下であるのは高知市、中村市への購買流出の結果である。しかし宿毛の商圏は南宇和郡の一本松町を含んでおり、城辺町から二〇㎞のところにあって、高知市に次いで大規模小売店の占拠率の高い地域であることは、城辺の商店街にとって大きな脅威である(表7―22)。
 城辺の中央商店街は、約一・二㎞の間に一二七軒の店舗が集中し、買回り品の店舗が六一軒(四八・〇%)を占めて、残り最寄り品店が四〇軒(三一・五%)、飲食・サービス店二六軒(二〇・五%)を占めている。城辺商店街は、西から古町・中町・矢野町・伊勢町の四町から構成されている。そのうち商業密度の一番高いのは矢野町で八〇・五%である。次いで中町の七三・五%が高い。古町が最も古く慶応元年(一八六五)には八軒の店が数えられた。中町・矢野町が商業地区となったのは、明治一二年(一八七九)の蓮乗寺川の改修以降のことであり、比較的歴史は新しい地区といえる。
 僧都川をはさんで大型店二店が進出しているが、その位置は、城辺商店街の入口にあたり、御荘町・西海町・内海村より流入する顧客を吸収される現象がおこっており、地区中心型商店街から近隣型商店街への衰退の兆がみえる。

 平城・城辺商店街の連続と合併問題

 御荘町・城辺町の境界線は特に永の岡地区で非常に複雑に入りくんでいる。特に県立南宇和高校のグラウンド付近に、城辺町に所属する地域が飛地的に存在しており、付近に住む者にも、はっきりとした境界はわからない程である。図中では、南宇和農協会館、みやたショッピングランド南予店、フジ南宇和店など比較的広い敷地を所有しており、ほかに城辺商店街の延長ともいうべき商店、その他が県道(バイパスの建設により五一年国道より変更)沿いに立地している。
 また当地域は東に延びてきた平城商店街の先端部でもあり、まさしく城辺・平城商店街の連合する地域ということができよう。図7―7からは、主に御荘町に属する永の岡地区の住宅地の分布と、県道と僧都川にはさまれた地区のアパート群を見ることができる。また城辺・平城商店街と比べて、倉庫及び駐車場が分布しているのは、比較的土地に余裕のあったことを意味している。またこの地域は、長月方面からの出口にもあたる。
 昭和二八年の町村合併促進法は三か年の時限立法であったが、県は御荘・城辺の合併を中心にして南宇和郡をまとめようとしたが、御荘と南内海、城辺と東外海の合併は成立したものの、御荘・城辺の合併は実現に至らなかった。
 平城地区が南宇和郡全体の政治、教育の中心的役割をもち、城辺が南宇和郡の商業地区的役割をもつといった補完的関係にありながら、合併できなかった理由としては次のようなことがあげられる。
 明治二三年の町村制実施以来、平城・城辺・の競争意識は特に郡役所の位置などをめぐって争われてきた。とくに南宇和市場の獲得を目ざした両商店街の対抗意識は激しく、商業機能のやや劣勢であった平城商店街にとっては合併は不利に見えた。ほかに東外海・南内海といった地区の漁村における漁業権の整理・統合も合併を困難にさせる一要因であった。
 また一方では城辺町有林の和口山の帰属をめぐっての城辺町・御荘町の争いなどがあり合併は失敗に終わった。
 しかし、昭和五一年の、バイパスの建設はこうした平城・城辺の二地区の間に新しい関係を作りつつあるといってよい。とくに栄町交差点を中心とした飲食業及びサービス業の立地が顕著である。南レク都市開発のブームは平城・城辺の各商店街を大きく包括したかたちで進展しているといえよう。





図7-6 御荘・城辺商店街の形成と官公署の分布

図7-6 御荘・城辺商店街の形成と官公署の分布


表7-20 昼間人口の動き

表7-20 昼間人口の動き


表7-21 施設密度等

表7-21 施設密度等


表7-22 小売商業人口支配率の推移

表7-22 小売商業人口支配率の推移


図7-7 御荘・城辺町 隣接地域の市街地化

図7-7 御荘・城辺町 隣接地域の市街地化