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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

七 日吉村下鍵山の街村


 幸田町の成立

 高知県境に接する日吉村は、南予でも最も奥地の山村である。その日吉村の役場所在地の下鍵山には、広見川の形成する谷底平野に整然とした街村形態の集落が立地している。この集落は、かつて幸田町といわれていたが、明治末年以降、地元の先覚者井谷正命によって形成された計画的な市街地である。
 日向谷村(現日吉村内)の庄屋の家に生まれた井谷正命は、明治二三年(一八九〇)町村制が実施されるや、新生日吉村の初代村長に選ばれた。彼は奥地山村の日吉村の発展は交通の発達をおいてはないと考え、宇和島~須崎(高知県)線と長浜~日吉線の道路の開設並びに、国鉄を大洲から日吉村経由で近永(現広見町)に敷設することに尽力した。彼の努力の成果は、須崎~宇和島間の里道日吉線が明治三五年(一九〇二)に日吉村と宇和島市の両方から着工されることによって実った。日吉村の起点となった下鍵山は村の中心地であり、将来、大洲・野村方面への道路の分岐点となると考えられたので、井谷はここに日吉村の中心集落を形成すべく、自己の所有地に道路に沿って家屋を建設した。
 明治三五年里道日吉線が着工された当初の下鍵山の写真をみると、道路ぞいには一軒の家もない。しかし大正二年(一九一三)に宇和島~日吉間の道路が開設され、馬車が開通すると、この地は急速に市街化されてくる。大正三年には日吉村から野村方面に通じる道路の建設がはじまり、翌四年には日吉~檮原間の道路が、さらには下鍵山から父野川方面への道路が、それぞれ着工されると、交通の要衝となった下鍵山は新興市街地としての賑わいを見せてくる。昭和四年には土佐檮原への県道が通じ、土佐の木材・三極などがトラックで搬出されてくる。大正一一年には和田自動車が、次いで四国自動車が乗合バスの運行を始める。昭和一一年には国鉄バスが鉄道の代行として、近永~日吉~魚成橋(現城川町)の間に運行され、さらに昭和一三年に魚成橋~大洲間に運行されると、下鍵山の地は道路交通の要衝として、山間部随一の賑わいを見せるようになる。
 下鍵山の新興市街地は幸田町といわれたが、昭和初期の市街地を復元してみると、道路にそって約五〇軒の商家が並んでいる。この中には雑貨・呉服・駄菓子屋などもあるが、最も目だつのは旅館・料理屋であり、なかには芸者の置屋もあった(図6―9)。交通不便な時代に、この町が山間地の物資の集散地・中継地として賑わい、商人などが各地から集まってきた様子がよくわかる。この地区に進出してきた商人は、地元の日吉村出身者や、高川・土居・三島などの隣村出身者もいるが、遠くは高知県十川村や臨海部の三浦・下波村などから転入してきた者もいる。この町は昭和一〇年大火災をうけ、町の大半を焼失したが、その後、瓦屋根の商家の並ぶ市街地として、従前のように復元された。

 下鍵山の変貌
 
 下鍵山が大きく変貌したのは、昭和五六年国道一九七号のバイパスが開通したことに伴って、旧来の幸田町をとりまくバイパス沿線が新たに市街化したことである。国道バイパス建設は当初下鍵山の市街地の北方をトンネルでぬく予定であった。国道バイパスが下鍵山を経由せずに、大洲と須崎を結ぶならば、下鍵山、ひいては日吉村の発展はありえないと考えた村では、建設省に対して下鍵山の集落の南を迂回してバイパスを建設するよう陳情する。建設省がルート変更に応じたのは、日吉村当局がバイパス建設の用地買収にきわめて協力的であったことによるといわれている。日吉村では国道バイパスの建設を見こして、下鍵山の集落付近の用地買収をかねてから進めていたが、この村有地が国道建設にともなう立ちのき者の代替地となり得たことが、国道バイパスの用地買収を容易にしたのである(図6―10)。
 国道ぞいには国鉄バス営業所・郵便局・公営住宅などが並び、その新市街地の偉容は目をみはるものがある。また日吉村役場は旧来の国鉄バス営業所の跡地に、昭和五七年建設され、旧市街地の中核として機能し、旧市街地の活性化にも寄与している(図6―10)。下鍵山は国道バイパスの建設を契機に市街地の整備を計画的に進めている代表的な集落であるといえる。




図6-9 昭和初期の日吉村下鍵山幸田の集落

図6-9 昭和初期の日吉村下鍵山幸田の集落


図6-10 日吉村下鍵山の集落

図6-10 日吉村下鍵山の集落