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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

二 闘牛と八ツ鹿踊


 和霊大祭

 南予の文化の中心地宇和島市には、この地が県の中央部から遠く隔っていたこと、また藩主伊達氏が遠く仙台より入部したことなどによって、特異な祭や郷土芸能があり、観光客の目を楽しませてくれる。宇和島市の祭には、愛媛三大祭の一つである和霊大祭をはじめ宇和津彦神社や、三浦地区天満神社の秋祭などが有名であり、郷土芸能には八ッ鹿踊・牛鬼・闘牛などがある。共に多くの観光客をひきつける重要な観光資源である。
 宇和島市街の北郊にある和霊神社は、藩政改革半ばにして非業の死をとげた家老山家清兵衛公頼の霊を祀る。公頼は仙台藩主伊達政宗の家臣で、政宗の長子秀宗が宇和郡の領主として入部するに当り、家老として派遣された。公頼は総奉行として敏腕をふるい、藩財政の確立にも努力したが、桜田玄蕃ら反対派に讒訴され、元和六年(一六二〇)秀宗の密命を帯びた刺客によって斬殺された。事件から一三年後、反公頼派の主謀桜田玄蕃が不慮の死をとげたのをはじめ、事件関係者が海難や落雷で変死し、人びとは公頼の怨霊だと恐れた。
 和霊神社はその公頼の霊を慰めるために建立された。最初森安に小祠が建てられ、のち承応二年(一六五三)山頼和霊神社が建てられた。現在地に遷宮されたのは享保一六年(一七三一)で、五代藩主村侯によって大社が造営された。和霊信仰は江戸中期以降、四国・中国・九州の各地に伝わり、無実の罪に苦しむ人、盗難・水難・病苦・生活苦にさいなまれる人びとが公頼を救世主として崇拝した。
 現在の和霊大祭は七月二三日・二四日の両日盛大に行なわれ、数一〇万人の人出でにぎわう。一日目には数百隻の参拝船が宇和島港を埋めつくし、船上で酒宴が催される。二日目には宇和島名物の牛鬼が街をねり歩き、闘牛大会も催される。夕闇せまるころには社殿の前を流れる須賀川で神輿の「走り込み」が行なわれ、祭はフィナーレをむかえる。

 闘牛

 和霊大祭と時を同じくしての催し物に南予名物の闘牛大会がある。闘牛の起源は、宝暦~明和(一七五一~七二)のころ、西海町の鼻面沖を漂流中のオランダ船を救助した謝礼に贈られた二頭の牛が格闘したことによるとも、また古くからの農民の娯楽として存在したともいい、詳かではない。江戸時代後期には広く南予各地に普及し、農民の大きな娯楽となっていた。第二次大戦前には、宇和島近辺から南宇和郡に至る山合いの村々には、いくつもの闘牛場があり、節句や大師様の縁日などには、たびたび闘牛大会が催された。第二次大戦前には「突合い」といわれ、闘牛という言葉はあまり使われなかった。
 宇和島地方の闘牛は、「突合い」の言葉が示すように、牛と牛とが角突き合わせて激突し、勝負を決するものである。闘牛の技には、押し・向う突き・ひら・横掛け・寄り込みなど、一〇種にわたるものがあり、勢子がひいきの牛につき攻防の手助けをする。番付には、横綱・大関・関脇・小結という位づけがあり、同格の牛同志が勝負を決する。給金は勝者が四分、敗者が六分となっているが、これは大観衆の前で勝利を収めることは、金銭ではかえられない名誉であるとの南予人の気質を表わしているといえる。
 宇和島近郷には一〇〇頭余の闘牛用の牛がいる。飼い主は、昔は主に農家であったが、現在は建築業者をはじめ、商人・運転手・サラリーマンと多様である。強い牛を育てるためには、餌にも注意をはらい、普段の鍛錬も欠かせない。土俵入りには化粧まわしをつけ、ひいき筋から贈られた幟をたてて入場する。さながら大相撲の土俵入りのような華やかさである。
 現在の闘牛は観光化してしまい、農民の娯楽とはあまり関係がなくなってきた。宇和島市の闘牛場には、野外の和霊土俵と昭和五〇年に完成した天満山の市営闘牛場がある。市営闘牛場での定期大会は、一月二日、三月の第一日曜日、四月三日、五月の第一日曜日、七月二四日、八月一四日、一一月二三日の年七回ある。ほか観光客の求めに応じて一結ないし二結の観光闘牛も随時行なわれる。
 観光客は昭和五二年には一万七〇〇〇人にのぼったが、近年は停滞的であり、昭和五七年には一万人にまで減少した。毎週土曜日に行なっていた無料観光闘牛も昭和五九年からは廃止されてしまった。観光用の闘牛になったとはいえ、迫力のある定期大会での闘牛は、観光客には見る機会が少ないといえる。

 牛鬼

 宇和島市では「うしょうにん」とか「ブーヤレ」とよばれる牛鬼は、南予の祭礼をいろどる象徴的な練り物である。その分布は南予一円のみならず、上浮穴郡の小田町、越智郡の菊間町などにもみられる。一般には秋祭の練り物であるが、宇和島市では夏の和霊大祭にも登場する。牛鬼の起源はさだかではないが、一説には加藤清正が朝鮮出兵の際、これを使って敵を威圧したのが最初といい、また喜多郡・宇和郡の領主戸田勝隆の家臣大洲太郎が赤布で牛鬼をつくり、猛獣を防いだのが最初であるともいう。
 牛鬼のドンカラ(胴体)は長さ五~六m、幅三m程度で、青竹の骨組の上に網をかぶせ、それを棕櫚の毛でおおう。顔は鬼面で赤または緑に塗られ、ロをカッと大きく開く、首は四mもの長さがあり、上下自在に動く。尾は剣をかたどって作られ、そこに白幣がつけられる。この異様な牛鬼は神輿の先駆けとなり、鉢巻姿の数十人の青年によって練り歩かれ、門ごとに頭を突込み悪魔払いをしていく。その後には数十人の子供が竹ボラをブーブと鳴らしながら従っていく。巨大な胴体の上で首を振りながら、あたりをはらって練り歩く牛鬼は南予の祭りの風物詩である。

 八ツ鹿踊

 宇和津彦神社の秋祭にいろどりを添える八ツ鹿踊も、また南予の祭礼の風物詩である。鹿踊りは宇和島藩主の伊達秀宗が元和元年(一六八一)入部した時仙台から移したもので、宇和島藩とその分藩の吉田藩に広く見られる。鹿の頭数は地方によって異なり、城辺町では「四ツ鹿踊」、八幡浜市では「五ツ鹿踊」、城川町では「六ツ鹿踊」、吉田町では「七ツ鹿踊」となっている。
 宇和島市の八ツ鹿踊は、一二~一三歳の子供八人が鹿の頭をかぶり、その面から垂れ下った紅染の布で顔をおおい、下に鹿の毛皮に似た着物と股引形の袴を着て、胸にかかえるしめ太鼓をトントコトントコ打ち鳴らしながら踊る。「回れ回れ水車 遅く回りて関に止るな」の歌に合わせて踊る所作は、隠れている一匹の雌鹿を七匹の雄鹿が探し求め、やっとすすきの影に雌鹿を見つけて、喜び合うというストーリをあらわす。哀調をおびた歌に合わせてのみやびやかな踊りは、牛鬼と共に観光客の目を楽しませてくれる。