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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

一〇 津島町の過疎集落

 津島町の過疎の進行

 南予の農山漁村地域では、高度経済成長期以降人口流出が激しく、過疎地域に指定されている町村が多い。津島町の昭和三五年の人口は二万三三四一であったが、二〇年後の昭和五五年には一万六〇六一人に減少し、北宇和郡の中では日吉村に次いで人口流出の激しい町村となっている。過疎の進行は、どの町村でも域内で同一テンポで進行するのではないが、津島町においても地域によって人口流出率には差異が大きかった。
 津島町の集落ごとの人口増減状況をえがいてみると、役場のある岩松や、役場支所のある嵐や国永、岩淵地区では人口が増加している。これに対して、御槇・清満・畑地地区などの山間地の小集落のなかには、戸数の減少が著しく廃村になったり、廃村寸前にたち至っている集落も多数見られる。これらの地区では、昭和三〇年代になって燃料革命のあおりをうけ製炭業が衰退したことが、人口流出の大きな契機となった。また下灘地区や北灘地区などの漁村地域でも、立地条件の悪い半島部では戸数の減少の著しい集落が散見される。これらの地区では、昭和三〇年代になっていわし網漁業が不振になり、その後これに変わる真珠母貝養殖やはまち養殖にうまく転換できなかった集落が、人口流出の荒波をかぶった。
 過疎地域では人口流出によって、その地域のもつ資源―耕地・山林・漁場など―が荒廃していることが、大きな問題となっている。今日の過疎地域の課題はこれら荒廃する資源をいかに再開発するかということである。以下、津島町の過疎集落に事例を求めて、過疎地の再開発の条件をさぐってみたい。

 大道開拓地と大本開拓地

 大道開拓地は譲ヶ葉森の南斜面、標高五〇〇~六〇〇mの緩斜面に立地する開拓集落であった。地区面積四六ヘクタールで二〇戸の入植計画のもとに、昭和二一年から開拓農家が入植し、昭和三四年には一四戸の農家が二三ヘクタールの耕地を経営していた。開拓当初は、甘藷・陸稲・麦などを栽培し、昭和三五年ころからは美濃早生大根を栽培し、同四〇年すぎには養蚕や酪農も導入した。しかし営農は安定せず、挙家離村が続出し、昭和四八年には実質的に廃村となった。
 現在、農地はすべて耕作放棄され、荒地や植林地となっている。畜産団地などの再開発の計画もあったが、それが実現できなかったのは、耕地が著しく錯圃状態になっていることが一因であった。この集落では入植者による共同開墾が行なわれ、一区画の開墾が終わるごとに、小地片の耕地を各農家に分配していったことが、各農家の経営農地を分散させたのである。耕作放棄された農地が分散し、それが他の農家の所有地と交錯していることは、再開発を意図する者の一括した農地取得を困難とさせ、跡地の再開発を困難としたのである。
 大本開拓地は篠山の南麓にある第二次大戦後の開拓集落である。地区面積三二ヘクタールで八戸の入植計画のもとに、昭和三〇年より開拓農家が入植し、昭和三四年には八戸の農家が一六ヘクタールの耕地を経営していた。開拓当初は甘藷と麦の自給作物が栽培されていたが、昭和三七年ころにはたばこが導入され、次いで栗も導入された。しかし営農は安定せず、挙家離村が相次ぎ、昭和五二年にはわずか二戸の過疎集落になってしまった。
 しかしこの集落には、新たに二戸の酪農家が用地を求めて入植し、大規模な酪農を営んでいる。津島町高田に本拠をおく中田牧場では、二ヘクタールの開拓農家の跡地を取得し、そこに夏作のソルゴー・とうもろこし、冬作のイタリアンライグラス・えん麦などを栽培し、飼料自給率七〇%で、昭和五二年現在搾乳牛二〇頭と育成牛一〇頭を飼育していた。また津島町山財に本拠をおく山本牧場では、三戸の開拓農家の跡地とそれに隣接する山林併わせて一三ヘクタールの土地を取得し、昭和五二年現在搾乳牛一八頭、育成牛一一頭、乳雄牛三頭の計三二頭を飼育していた。この農家では畑にソルゴー・とうもろこし・イタリアンライグラス・えん麦などを栽培し、飼料を確保すると共に、山地の野草に乳牛を放牧するという独特の山地酪農を展開している。大本開拓地で開拓農家の耕作放棄した跡地が再開発できた一要因は、開拓農家の農地が集圃形態において所有されていたので、再開発を意図して入植した農家の土地取得を容易にしたことであった。
 大道開拓地と大本開拓地は同じような立地条件にある戦後の開拓地であったが、その跡地利用の成否を左右した条件は、開拓農家の所有地がどのような状態で所在していたかという土地所有形態の差異であったといえる。

 神田

 神田は岩松川の支流神田中川の源流地帯の谷底平野に立地する集落である。集落は散村形態をなし、谷底平野に散在する農家は、宅地の周辺に展開する水田を耕作するかたわら、集落領域内の私有林や隣接集落上槇の国有林などに依存して製炭にいそしんでいた。
 神田の戸数は明治二二年(一八八九)に二七戸で、第二次大戦まで戸数の増減はみられなかったが、戦中戦後の転入戸によって、昭和二七年には三三戸(一八五人)に増加した。これが神田の戸数のピークで、昭和三〇年以降は製炭業の衰退などによって、なだれ的な挙家離村がひきおこされる。昭和四一年に一七戸八五人に縮小した集落は、同五二年には七戸二四人、同五八年には四戸七人の集落に縮小してしまった。
 挙家離村が続出したことは、集落の地域構成や土地利用、土地所有、集落の社会組織などを大きく変えることになった。挙家離村は集落の縁辺部の散居居住者から始まって、次第に集落の中心部に波及していった。縁辺部の居住者の住居・耕地は荒廃していくのに対して、中心部の離村者の住居・耕地は縁辺部の居住者によって踏襲されるものが多い。このようにして、この集落は散居形態を維持しつつ、集落の縮小化をはかってきた(図5―47)。離村した農家の耕地・山林は同族を主とした集落内の住民に売却されたものが多かったけれども、残存した農家の経営規模拡大にはつながらなかった。それは残存農家が生産性の低い縁辺部の自己の耕地を荒廃化させつつ、集落中心部の転出した農家の優良耕地を利用してきたことによる。林野は団地化されて残存した農家に集積されていった。また土地利用の面では水田以外に省力化の可能な栗園が増加していることは注目される。
 明治中期には林野の九一%もが共有林であったことに示すように、共同体的な性格の強い神田は、過疎の進行においても、ある秩序をもって集落を縮小させていった。しかしこの集落は、いまだ集落再生の契機をつかむことなく、一方的に戸数の減少と耕境の後退を続けている。住民の生活領域が後退するのに反して、その生活領域を拡大しているのは、いのししや猿などの野生動物である。昭和五八年八月現在作付されている水稲は、いずれも竹垣によって厳重に囲まれていたが、これは収穫前の水稲をいのししの収奪から守るためのものであった。

 横山

 横山も神田同様津島町の山間地に立地する集落である。集落は岩松に注ぐ芳原川の源流付近の谷底平野に立地するものと、標高二三〇~二五〇m程度の山腹斜面に立地するものからなるが、共に水田耕作を営む散村であり、現金収入は製炭業によって得るものが多かった。戸数一六戸程度であったこの集落に挙家離村が続出しだしたのは、昭和三五年以降の高度経済成長期にはいってからである。
 離村戸の山林や耕地を購入するのは通例地元農民であるが、相次ぐ挙家離村は跡地の購入を地元農民のみでは対応不可能とする。そこに土地購入のために進出してきたのが吉田町のみかん農家であった。昭和三〇年代から四〇年代の前半はみかんブームの最中であり、吉田町の農家は経営規模拡大のために町外に土地を求めていた。横山は内陸ではあるが標高二〇〇~二五〇m程度の山腹緩斜面が広く、冬季冷気の滞溜しない地形で、みかん栽培の可能な土地であった。ここに土地を求めた吉田町の農家はブルドーザによる機械開墾によって山を削り谷間の水田を埋めて、みかん園を造成していった。彼等はこの地でのみかん園を、軽トラックや乗用車を利用しての通勤耕作で経営している。
 横山の農家は昭和五八年には七戸に減少したが、彼等もまた吉田町の農家に刺激されて、みかん栽培を始めたものが多い。かくして、現在の横山の土地利用は、横山の残存農家、横山の転出農家、町内他地域の農家、吉田町の農家などのみかん園や水田が交錯した状態となっている(図5―48)。
 横山は神田と同様に、山間に立地する交通不便な集落であり、高度経済成長期に挙家離村が続出した。神田が他産業に転換できなくて、一方的に過疎が進行しているのに対して、横山は土地利用をみかん園に転換させることによって過疎地の再開発をはかることができた。両集落で土地利用の転換の成否を決定した一要因は、みかん栽培を可能にするか否かの気候条件の差異であったといえる。

図5-47 津島町神田の土地利用の変化

図5-47 津島町神田の土地利用の変化


図5-48 津島町横山の土地所有と土地利用

図5-48 津島町横山の土地所有と土地利用