データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

二 都市化の進展と宇和島市の変容


 第二次大戦前の都市化の要因

 城下町の宇和島は、明治二二年(一八八九)町村制の施行と共に町制を実施する。町村制実施当初の人口は不明であるが、二戸数は二七一一戸であった。降って同三七年(一九〇四)の戸数は三一一七戸、人口は一万二〇〇二となっている。人口規模からして松山・今治に次ぐ県下第三位の都市であり、南予最大の都市であった。
 城下町起源の宇和島市は消費都市の典型であり、明治中期までは商業以外にさしたる産業は見られなかった。したがって市街地の面積も明治維新以降、その中期に至るまでさしたる変化は見られなかった。その宇和島市の都市化の第一波は明治末年から昭和の初期におとずれた。この時期の都市化の要因は、明治中期以降の製糸工業・綿織物工業などの勃興にともなう工業化と、明治来年以降沿岸航路が開設、さらに陸上輸送では馬車道が開通したように交通路が整備されたことによる。
 特に工業においては、明治中期以降南予の段畑地帯などで養蚕業が盛んになるにつれて、宇和島は繭の集散地となり、製糸工業が盛んになる。昭和六年の市勢一般によると、宇和島市内の製糸工場は三五、うち明治年間の創業が三、大正年間が一六、昭和年間が一六となっている。大正年間から昭和の初期にかけて製糸工業が相次いで創立されたことがわかる。
 一方、この地方の綿織物工業は天保年間(一八三〇~四四)の繰替木綿に起源するといわれ、明治維新以降も宇和島市の綿繰商から綿花を供給された近郊農村の婦女子が副業として木綿織を営んでいた。明治中期になると、宇和島の綿替商のなかに工場を設立し、職工を雇用した工場制工場も出現する。前記の昭和六年の市勢一般によると、綿織物工場六のうち、明治年間の創業二、大正年間の創業四と記され、明治中期以降の工場創立が裏づけられる。
 これらの工場は、先駆的なものは明治年間に城下町の周辺などに立地していたが、大正年間になると旧市街地では用地難から町域を越えて、隣接の八幡村・丸穂村などに進出せざるを得なくなり、これらの地区の都市化をうながす(図5―28)。
 一方、交通路の整備では明治末年以降馬車道が整備され、北方の鬼北盆地や南方の津島郷から馬車が通いだすと、その馬車駅を中心として市街化か進む。その一つは、宇和島市街に北接する八幡村の下村地区(現和霊町)であり、他は市街地南部の元結掛・山際地区である。これらの地区には、交通の便を生かして製糸工場・綿織物工場、さらには酒・醤油などの醸造工場などが立地するが、それと共に飲食店や料亭なども多数立地し、宇和島の新しい花街が形成される。下村地区の花街は大正四年(一九一五)北新町に集められ、山際地区の花街も大正一一年(一九二二)新市街地に集められる。
 交通の発達では、大正三年(一九一四)鬼北盆地の近永と宇和島を結ぶ宇和島鉄道が開通し、その駅が八幡村下村の和霊神社下に開設される。この宇和島駅は、大正五年現宇和島駅付近の鶴島町一帯が宇和島町の実業家によって埋め立てられると、そこに移転する。新しい宇和島駅の局辺部には、運輸会社や銀行、旅館などが集中的に立地し、またたく間に市街化されていくが、この地区もまた八幡村の下村に属する土地であった。このように宇和島町の市街に北接する八幡村の下村一帯は、明治末年から大正中期にかけて都市化が著しく、宇和島町に合併する前の八幡村は、工業においては宇和島市と肩を並べるほどであった。
 工業の発達や交通路の整備にともなって、宇和島市街地が旧城下町の領域をこえて拡大すると共に、それら関係町村との間に合併の機運が急速に高まる。大正六年(一九一七)宇和島町を三方からとり囲む丸穂村を編入したのに続き、大正一〇年には北接の八幡村を合併し、ここに県下三番目の市としての宇和島市が誕生する。当時の戸数は六六五〇、人口は三万二二九三であった。

 城北地区の都市化

 広大な用地に恵まれた八幡村を合併したことは、大正末斯から昭和の初期にかけての宇和島市街の北方への発展をうながす。この時期に市街化の最も急速に進展した地区は、藩政時代に干拓された富堤・下村・山下の各新田であった。この地区の市街化の契機は、大正一〇年(一九二一)須賀川大橋から樺崎の外港に通じる朝日町本通が完成し、さらに機帆船の繋留地として、大正一〇年(一九二一)から一四年の間に朝日運河が掘削されたことによる。朝日町本通にそっては、進取の気風に富む新興商人なども進出してきたが、この干拓地に形成された朝日町・寿町・弁天町には、製糸・綿織物・造船・製材などの工場が進出し、宇和島市の工業地区となっていく。
 またこの埋立地の西端の築地には、須賀川の付け替え工事にともなって、北新町の花街から移転を余儀なくされた料亭が昭和五年に多数移転して来て、以後昭和三〇年ころまでは、宇和島市随一の花街としてにぎわう。その築地の一角には宇和島港が建設され、昭和二五年からは樺崎にかわって宇和島市の外港として機能する。ここには宇和島運輸の別府航路が離発着し、海上交通の一ターミナルとなる(図5―29)。

 城南地区の都市化

 大正年間から昭和の初期にかけての市街化が、市街北部の干拓地において急速に進展したのに対して、市街地南部の都市化はあまり活発ではなかった。この地区で市街化の進展したところは城山の西部の兼助新田・岡村新田の干拓地の部分である。この地区では、大正年間から昭和の戦前に内港の浚渫土砂の埋め立てによって桝形町の部分の住宅化が進んだが、最も顕著な現象は旧市街からの学校の進出である。
 まず大正九年(一九二〇)県立宇和島中学校(現宇和島東高)が御殿町から移転してきたのを手始めに、昭和七年には第一小学校(現明倫小学校)が御殿町から、翌八年には県立宇和島女学校(現宇和島南高)が桜町から、さらに昭和一五年には第二小学校(現鶴島小学校)が丸之内からそれぞれ移転してくる。かくして、この地区は宇和島市の文京地区に衣がえしてくるのである。

 戦災復興と都市計画の推進

 宇和島市は昭和二〇年五月から八月の間に五回の爆撃を受け、市街地の七〇%に当たる面積を焼失し。第二次大戦後の宇和島市の課題はヽ戦災からの復興と新たな都市計画の実施であった。戦災復興土地区画整理事業は昭和二一年から三一年の間に実施された。この事業によって街路網の整備、上下水道の拡充、公園の設置などが相次いで行なわれた。特に注目されるのは、街路網の拡充・整備であった。戦災を受けた市街地の街路網は幅一二mに拡張され、原則として車道と歩道の区分をした。昭和二〇年に開通した予讃線の宇和島駅と新たに建設された築地の外港を結ぶために建設された幅三六mの駅前通はその白眉であった。また昭和二四年には旧城濠を利用していた内港は埋め立てられ、港町の一角に新内港が建設された。
 昭和二〇年代に戦災復興と都市計画事業を実施した宇和島市は、昭和三〇年には三浦・高光両村を合併、次いで同三三年には南接する来村を合併した。かくして、昭和二五年の世帯数一万二五七四・人口五万六五七〇は、昭和三五年には世帯数一万七一〇八・人口六万八一六〇に増加した。しかし、この間に市街地の外延への拡大はあまり見られなかった。

 第二次大戦後の都市化

 第二次大戦後、宇和島市が都市化の波を受けたのは、昭和三五年からの高度経済成長期以降である。この時期の宇和島市の都市化を推進したものは、工業の発展と住宅団地の建設である。工場の新設は、同三九年宇和島市の工場設置奨励条例の適用を受けてなされたものもあるが、多くの中小企業は高度経済成長の恩恵を受けて新設・増設されたものである。住宅の建設は、高度経済成長期における周辺市町村からの人口流入並びに核家族化の進行と関連してすすめられた。
 工場の新設の著しかった地区は、市街地北部の北宇和島地区と市街地南部の宮下・寄松地区である(図5―30・表5―50)。共に国道五六号の沿線にあり、国道の整備にともなう交通事情の改善が工場進出を招いたといえる。このなかで特に工場進出の著しかった北宇和島地区についてみると、工場は昭和三〇年代後半から四〇年代にわたって設立されたものが多い。設立工場のなかには伊予段ボールのように外部から誘致されたものと、宇和島罐詰、宇和島漬物のごとく旧市街地にあったものが、規模拡大をはかるため移動してきたものがある。
 工業地区の形成では、坂下津の産業団地の形成も注目される。来村川河口左岸の坂下津は藩政時代の日振新田の干拓地である。この地には宇和島市最初の大企業といわれる近江帆布が昭和九年に誘致され、同一一年から操業を開始する。創業当初従業員九五〇人を数えたこの工場も、昭和一六年には経営不振から休業となる。のち施設は敷島紡績に引き継がれ、戦争の激化と共に海軍航空隊に接収され終戦に至る。戦後敷島紡績に返還された敷地は工場再建の計画もないまま荒れるにまかされていた。
 宇和島市では、昭和四二年この地に産業団地を造成すべく、一五万三〇〇〇㎡の土地を敷島紡績から購入し、同四三年から用地の整備にとりかかる。昭和四七年には用地造成は完了し、ここに木材・家具・鉄工・建設などの工業団地が形成され、約五〇〇企業が進出して来る。移転企業は朝日町・寿町・弁天町などの工場と住宅の混在地区にあったものであり、騒音公害にともなうトラブルを解消し、経営規模を拡大するために移転してきたものが多い(図5―31)。なおこの地区の臨海地区は、昭和四六年から五〇年にかけて宇和島港の一部として整備され、二〇〇〇~二五〇〇トンの外洋船が接岸できるようになり、外材輸入港として機能している。
 住宅団地の建設では、まず公営の住宅団地が市街地の外縁部に形成され、市街の拡張をもたらす。第二次大戦後、宇和島市で最初に建設された大規模な住宅団地は、昭和二四年から三〇年の間に建設された市営の伊吹町の住宅団地一二○戸である。次いで昭和三五年から四一年の間に建設された宮下の市営夏目ヶ市団地一二○戸、昭和四二年から四七年の間に建設された市営薬師谷団地一二五戸などが大規模な住宅団地として注目される。住宅団地には、ほかに県営の住宅団地が野川や坂下津に、民間企業によって開発された小規模な住宅団地は、来村川流域や、柿原・大浦地区など各地に多数建設されている。
 辰野川と神田川の形成する扇状地上に立地していた城下町の宇和島は、明治末年から大正年間にかけては、城北の須賀川の形成する三角州上や、その先端の干拓地に拡大し、第二次大戦後の高度経済成長期には、南北に伸びる国道五六号ぞいの谷底平野へと市街地を拡大していく。いまや宇和島周辺の沖積平地は市街地化の波におおわれてしまい、発展の余地はほとんど見られない。宇和島湾の埋立て工事や、丘陵地を削って造成した丸山地区の運動公園の建設は、用地不足に悩む宇和島市が、海と山に市街地を拡大している苦悩の姿とも見ることができる。










図5-28 地形図にみる宇和島市街地の発展

図5-28 地形図にみる宇和島市街地の発展


図5-29 宇和島市の市街地の拡張

図5-29 宇和島市の市街地の拡張


図5-30 北宇和島地区の工業地域の形成

図5-30 北宇和島地区の工業地域の形成


表5-50 宇和島市北部の主な事業所

表5-50 宇和島市北部の主な事業所


図5-31 坂下津産業団地に移動した工場の分布

図5-31 坂下津産業団地に移動した工場の分布