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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

五 宇和島市の商圏


 商業と商業地域の発展

 文禄四年(一五九五)宇和郡のうち七万石の領主となった藤堂高虎は、翌慶長元年、宇和島城の本格的な城郭つくりと城下町建設に着手した。江戸時代の宇和島は丸の内など一三の家中町と本町一~五丁目など一七の町人町を中心としたが、辰野川・神田川の周縁と須賀川河口にも恵美須町・須賀通などの町が誕生した。そして堀端通など藩士の屋敷、大工町など職人の町、袋町など商人の町が形成された。城下町としての宇和島は御門内と御門外に二分され、一般の者は御門外に居住し、御門内に入る者は北と南の御番所を通過しなければならず、その道筋が繁華街となり、商業地域の基盤となった。宝暦四年(一七五四)には製ろう工業がおこり、安政三年(一八五六)には物産方ができた。当初は人参の栽培、海草の採取、寒天の製品を他藩に売り出した。後にははぜの実、製蝋、製紙、製茶、鉱山、わらび粉、藍玉、さつまいも粉など領内の産物を買い上げ、また精製仕上げをした。さらに、するめ、かつお節、干しいわし、あわび、煎りなまこなどを買上げ販売した。明治以後、南予経済の中心として発達し、明治一七年(一八八四)には宇和島銀行が設立され、製糸業が発展した。大正時代に入って新工場が急増し昭和一〇年ころには全市工業の七〇%が製糸業であった。
 明治のころの宇和島の商業の中心は追手通りで、これと並んで繁栄したのは本町及び袋町筋であった。大正から昭和にかけて、市制施行と共に市域は北部に伸び、新興の商業地域が生まれた。

 中心商店街の展開

 宇和島市は愛媛県南部の閉ざされた地域(宇和島圏域)の中心地として発展してきたが、なかでも商業の発展は著しく、当市の重要な産業の一つとなっている。五六年の純生産をみると、卸、小売業で二七四億一六〇〇万円と第三次産業の三五・六%、純生産の二六・一%を占めている。純生産に対する卸、小売業の割合は県平均で一六・四%であるから、この数字はかなり高率といえる。
 五七年の統計による商店数は二七〇三店で、内訳は卸売業三五九(一三・三%)、小売業一五四九店(五七・三%)、飲食業七九五店(二九・四%)となっており飲食業の多さがめだっている。五一年と比較すると、卸売業で三三店、小売業九七店、飲食業二三一店とそれぞれ増加している。次に商業年間販売額をみると、五七年は二二八九億三五〇〇万円で県全体の七・一%を占める。内訳は卸売業一五七八億六四〇〇万円(六九%)、小売業六五七億七三〇〇万円(二八・七%)、飲食業五二億九六〇〇万円(二・三%)となっている。小売店年間販売額は一店当たり四二四六万円、一人当たり一二一九万円で市部平均を下回るが、県平均とほぼ同じである。
 以上のような規模をもつ宇和島市の中心商店街は、市の中心部を南北にはしる幅員一二mの道路に面した袋町・新橋通及び恵美須町一丁目商店街で構成される銀天街を軸に、これを補完する形で追手通、恵美須二丁目駅前通、駅前南商店街が連接しており、総延長は一三〇〇mに達している。城下町時代の中心は本町通であったが、明治以後西に移動し、袋町・新橋通が繁栄してきた。海運が盛んになるにつれ、内港に近い浜通地区が発展した。
 明治三三年(一九〇〇)城濠が埋め立てられて市街地が西に伸び、大正三年(一九一四)宇和島鉄道が開通すると城北地区の都市化が進み、追手通―浜通の中心街は恵美須町の方向に伸長した。戦後は内港の埋め立てによって新橋通の街区が整備されてから現在の中心商店街の態様を備えるようになった。五五年に新橋通、恵美須町銀天街のアーケードが完成し、袋町銀天街は五七年に完成した。市内各地に近隣型商業機能をもつ商店街はあるが、中枢的小売機能はすべてこの商店街に集約し、南予における地域中心的商店街を形成している。表5―48により商店密度をみると、袋町二丁目及び恵美須町一丁目が共に一〇〇%、袋町一丁目が九三・九%、新橋通が八九・四%であるが、銀天街に連接する追手通、恵美須町二丁目、駅前南商店街などの密度はかなり低い。特にフジ宇和島店の立地する恵美須町二丁目は七一%と低く、幅員二五mの駅前通りによる分断とあいまって、商業機能の低さを示している。
 次に中心商店街の街区別に業種構成をみると、袋町一丁目、二丁目、新橋通及び恵美須町一丁目の銀天街は買回り品のウェイトが七〇%を超え、中枢的買回り品商店街を形成している。この内、袋町二丁目及び新橋通は特に衣料品が強く、恵美須町一丁目は文化品、袋町一丁目は身の回り品が強く各特性を示している。その特性の推移をみると、袋町一丁目、二丁目及び恵美須町一丁目は買回り品化か進んでいるが、恵美須町一丁目では飲食、喫茶の増加もめだっている。追手通はサービス業が減少し、買回り品化が進んでいるが、買回り品と最寄り品がほぼ同じで、しかも最寄り品では食料品店がめだち、商店密度の低さとあいまって商店街の特性は未確立である。駅前南はほとんど変化なく、駅前通は飲食、サービス、土産物店が強いが四九年に比べて減少し、代わりに文化品の増加がみられるが、小規模店が多い。恵美須町二丁目は買回り品化が急速に進み飲食、喫茶も増加し商店街形成が進んでいるが、依然として非店舗が多く、大型店のフジ宇和島店の立地にかかわらず、まだ中心商店街としての魅力に乏しい。
 しかし、表5―49のごとく、近年大型店の町村部進出が相次いで地元小売業の経営を圧迫している。宇和島圏では百貨店は宇和島市に一店みられるだけだが、スーパーは市内をはじめ周辺要地に多数進出している。又、農協系のAコープ店も同様である。「売り場面積当たりの人口」はAコープを除いて県平均を上まわっており。大型店密度の小さいことを表わすと共に今後の大型店進出の可能性を示している。
 全体として、宇和島市では、八幡浜市がフェリー港移転やトンネル開通で、また大洲市が大型店の進出で、それぞれみせたような買物客の流れの変化はみられない。五二年に進出したいよてつそごう宇和島分店は展示センター的な色彩が強く影響は大きくなく、市役所の移転(中央町から曙町へ)も中央町近辺の飲食業に若干の影響を与えたものの、客の流れを変えるまでには至っていない。他方、大型店の周辺町村への進出につれて、従来宇和島に出てきて買っていた食料品、身の回り品については地元大型店で間に合わせるといった顧客のUターン現象があらわれ始めている。これらに対応するため魅力ある商店街づくりが望まれている。

 卸売業の現況

 五四年度の年間卸売販売額の県都への集中度を四国で比較してみると、本県の場合、松山市への集中度が五一・九%と低く卸売機能の分散度が大きいが、他の三県はいずれも八〇%以上となっている。しかし三九年から五四年までの一五年間の推移をみると、松山市への集中度は高まっている。
 宇和島市の卸売業をみると、商店数、従業員数、年間販売額のいずれも県全体の七%台で県内一二市中第三位であるが、その比率は低下傾向にある。特に従業員数の比率低下が大きい。三九年から五四年の間における卸売業の商店数、従業員数、年間販売額の宇和島市の伸び率はすべて県全体のそれを下まわっている。特に五一年から五四年の間は商店数、従業員数共に絶対数が減少している点が注目される。特に減少の大きいものは、鉱物・金属材料、医薬品・化粧品、その他の三業種である。これらは成長期をすぎて減少したものもあれば、成長期であるが合理化、大型化で減少したものもある。次に卸売業の業種構成をみると、特化度の高いものは医薬品・化粧品、建築材料、農畜産物・水産物などであり、特化度の低いものは化学製品、家具・じゅう器、鉱物・金属材料などとなっており、農畜産物・水産物卸売が高いのは地域の特性を反映している。卸売業の規模を一店当たりの従業員数及び年間販売額でみると、従業員数は全国平均、県平均、松山市平均をいずれも下まわる七・九人で規模の零細性がわかる。販売額では県平均とほぼ同じで、松山市よりはかなり少ない三億六〇〇万円である。中でも農畜産物・水産物、医薬品・化粧品は県平均や松山市平均を大きく上まわっており、建築材料は全国平均をも上まわっている。これに「その他」を加えた三業種が宇和島市卸売業の中心になるものといえる。

 周辺商業地の特色

 宇和島圏域では唯一の市である宇和島市の商業中心性は一四二・五と高い。(伊予銀行「愛媛県内市町村の経済構造」)これは行政人口の四二・五%に相当する購買人口が、市外から流入していることを意味しており、この大半が北宇和郡からの流入である。南宇和郡は城辺町が副商業中心地としての役割を果たしており、北宇和郡ほど宇和島市への消費流出はみられない。以下、宇和島圏域における周辺商業地の代表例を若干考察する。
 まず、宇和島市に北接する吉田町は、五七年の商店数三四三店で、内訳は卸売一二店、小売業二七五店、飲食店五六店である。商業全体の年間販売額は九二億四九〇〇万円で、この内、小売業は六一億七一〇〇万円となっている。吉田町の商業はみかんと共に発展してきたが、道路の整備により消費の過半が宇和島・松山などの町外へ流出している。フジ吉田店の立地(四八年)は宇和島市高光地区からの客を誘致するという面もあった反面、地元商店街に大きな影響を与えた。その対策として地元の一〇店が集まって共同店舗「大栄ビル」を五四年に開店させた。
 吉田町の商店街は旧吉田藩によって中央部の立間川を境に南側に町人町を、北側に陣屋町が形成されたことにはじまる(図5―24)。現在、旧町人町に本町商店街が、陣屋町に桜丁・本丁商店街が形成されているが、西側は国道五六号及び国安川や吉田港によって、東は丘陵及び予讃線によって切断され、南北も丘陵が迫っていて拡大が困難である。しかも商店街の中央部を立間川が流れ、本町商店街と桜丁・本丁商店街に分断されている。桜町は大正年間に他は戦後、二〇年代に形成されたが、桜丁・本丁周辺に役場をはじめ公共施設、教育機関が集中し中枢機能を果たしているため、本町より本丁方面への商店街の重心移動がみられる。大型店は桜丁の国道沿線と本丁の一角に立地しているが、両者間の回遊性は乏しい。農協系のAコープが商店街の西端に位置しているため購買客の二極分化がみられる。
 次に鬼北地方では松野町と広見町の商業地域が注目されるが、松野町についてはすでに「地誌I」(総論)に述べられているので広見町について考察する。
 広見町は鬼北地方の商業の中心で、松野町よりすべての面で統計的に上まわっている。五七年の商店数は二四八店で、内訳は小売業二〇六店、卸売業九店、飲食業三三店で、年間販売額五四億四五〇〇万円となっている。しかし小売業の一店当たり年間販売額は二二五八万円、従業員一人当たり年間販売額八四七万円は北宇和郡平均に比べてかなり低く効率が悪い。国道三二〇号などの整備に伴って、高級品中心に宇和島への消費流出が拡大し、現在町の購買力の過半が町外に流出している。加えて五三年に農協系のAコープが開店し地元商店街に大きな影響を与えている。広見町の商店街は旧村単位に形成されており、規模は小さい。その中心商店街は近永商店街で、行政、金融、医療などの各機関が集中している。国鉄予土線の近永駅の北部を東西に走る県道沿いに自然発生的に形成されたもので、道路の幅員がせまく、中核をなすものがない。
 宇和島市の南部では南郡の中心地城辺町が県内の町村部では特色ある小売商圏を形成していることが、「地誌I」(総論)ですでに述べられている。ここでは宇和島市商圏の一部をなす津島町についてとりあげる。
 昭和五七年の商店数は三二六店で、内訳は卸売業一二店、小売業二六八店、飲食業四六店となっており、年間販売額は一二三億六四〇〇万円である。小売店における一店当たりの年間販売額は三九九六万円、従業員一人当たり年間販売額一六一五万円円は、いずれも郡平均を上まわる。津島町の商店街は図5―25のごとく旧村単位に商店のまとまりをもっているが、分散し、集積の単位は小さく二〇~五〇店程度である。中心の岩松地区を除くと、その商業集積は商業地形成に至っていない。岩松地区は岩松川をはさんで国道五六号沿いに各種公共機関が集中している。商店街は対岸で旧街並みに沿って自然発生的に路線状に形成された。藩政時代から塩座などがおかれ、津島郷の中心地として、農・水産物の集散の中心地であった。道路の幅員がせまいため五六号のバイパスができて以来、流れが大きく変化した。業種構成からみると最寄り品が多く、飲食、サービス店も他地域に比べると多い。しかし文化品など買回り品は宇和島への流出が大きい。また、日用品、食料品は大型店のフジや農協系のAコープへの依存度が高い。五四年に開通した松尾トンネルは今後宇和島への流出を更に拡大させるか、対応が注目される。
















表5-48 宇和島市の商店街区の形成

表5-48 宇和島市の商店街区の形成


表5-49 宇和島圏域の大型店

表5-49 宇和島圏域の大型店


図5-24 吉田町商店街

図5-24 吉田町商店街


図5-25 津島町の商店分布

図5-25 津島町の商店分布