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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

一 国道五六号の改修とバス交通


 南予の道路交通の発達と五六号

 藩政時代、松山と南予地方を結ぶ陸路の中心は大洲街道と宇和島街道であった。前者は大洲城下から新谷・内子・中山・郡中を経て松山札の辻に至り、後者は宇和島城下から知永・吉田・卯之町を経て大洲城下に至る街道であった。宇和島以南には高知県宿毛から県境の松尾峠を越えて一本松・上大道・緑・僧都・岩淵・野井沢を経て宇和島城下に至る宿毛街道があった。藩政時代の道路は幕府の政策により改修や拡張の制限・禁止などがあり、幹線道路でもせいぜい馬道程度であった。当時は馬の背につけた荷駄の幅をもって道路の幅員としていたという。また南予地方の集落の多くが山間の盆地やリアス式海岸の湾頭にあるため、これらの集落を結ぶ道路はほとんどが山越えの小道であった。その上、各藩領内の要地には番所が設けられ、人と物資の移動を大きく制限していた。
 明治政府は中央集権的行政の浸透を図るため、従来の封建的道路の改編を図った。まず明治元年(一八六八)に関所・番所を廃止し、同五年(一八七二)には伝馬制度を廃止した。同六年(一八七三)大蔵省番外達により河港道路修築規則を制定し、道路の種類と工事費用の負担区分を定めた。これにより東海道、中山道などの全国的な街道を一等道路、脇往還、枝道を二等道路、村市の道路を三等道路とした。一・二等道路の経費は六割が政府、四割が地方の負担、三等道路については全額地方負担とした。道路の等級はその後明治九年(一八七六)太政官達六〇号によって改められ、全国の道路は国道・県道・里道の三種類に再編成された。この区分は大正七年(一九一八)の第四一回帝国議会において成立した道路法(翌年四月公布)で廃され、新たに国道・府県道・郡道・市道及び町村道の五種に区分された(郡道はのち郡制の廃止により大正一一年(一九二二)から消滅し四種となった)。この道路法では、道路は全て国の営造物であるという原則に立ち、以後三〇余年にわたって道路行政の基本となった。
 このような道路行政のもとで、旧大洲街道と宇和島街道は県道松山・宇和島線となり、旧宿毛街道は県道宇和島・宿毛線となった。戦後は昭和二二年に制定された地方自治法により地方公共団体の性格が大きく変化したため、道路の管理方式にも根本的な改正が必要となった。そのため同二七年に新道路法が制定され、都道府県道や市町村道は各々の地方公共団体の営造物とし、その管理も地方公共団体のもとにおかれた。また二七年には「道路整備特別措置法」が制定されて有料道路制が採用され、二八年には「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」が制定され、揮発油税収入を道路事業の特定財源とする道が開かれた。現在の国道五六号は、昭和二八年五月一八日の政令第九六号で二級国道松山高知線となり、次いで同三七年五月一日、政令第一八四号により一級国道五六号線に昇格し、同四〇年三月二九日、政令第五八号により一般国道五六号となったもので、その基本路線は県道松山・宇和島線及び県道宇和島・宿毛線である。

 県道の改修

 南予地方の道路は明治維新後も遅々として発達せず、ようやく明治三〇年代になって県道の改修が行なわれるようになった。改修前の宇和地方の道路事情について明治四三年(一九一〇)に作られた『田之筋村誌』には次のように記されている。

以前ハ道路トハ名ツケタルカ如キモ、田圃作道二過キス。然モ迂回甚シク為二車輛ヲ通スコトモトヨリ不可能ニシテ、貨物ノ凡テハ人肩ニヨルカ牛馬ニヨルニアラスンハ運搬スルヲ得ス。                           

また同年発刊の『中川村誌』にも次のようにある。

道路改修以前八本村ニハ唯不完全ナル宇和島街道二通スルノミニテ、南予ノ要港タル八幡浜二通スル卯之町街道ハ、彼ノ峻坂ナル笠置峠ヲ越エサル可カラサルヲ以テ、荷車等ハ殆ンド皆無ニシテ貨物ハ漸ク人肩牛馬ニヨリテ運搬セルニ過キサリキ

 これらは改修前の道路がいかに不備であったかを物語っている。宇和地方では明治三二年(一八九九)から三三年にかけて道路の改修が行なわれ、それによって車道が開通し、車馬の往来も頻繁になった。同じころ卯之町・八幡浜間の県道(旧卯之町街道)も改修され、馬車や人力車の往来が可能になった。こうした主要道路の改修が進むにつれて、各町村内の部落間を結ぶ道路や、各部落から主要道路に至る里道の改修も進められた。表5―43は当時の道路改修費を例示したもので、村の財政規模に比して道路改修費がいかに莫大なものであったかがわかる。道路改修によって輸送手段も従来の人肩牛馬から客馬車や人力車、大八車に変わった。客馬車は木製の箱型馬車で箱馬車ともよばれ、卯之町からは毎日二~三回定期便として吉田、野村、八幡浜、大洲などを往復していたという。
 県道松山・宇和島線は指定された当初は旧街道のままであったが、改修が進むにつれて新県道が開設された。松山・宇和島間の最大の難所は法華津峠と犬寄峠であるが、前者は明治三四年(一九〇一)に、後者は同三七年(一九〇四)に改修された。法華津峠の県道改修は明治二九年(一八九六) 一〇月の臨時愛媛県会において六か年継続工事県道改修案が可決せられ、その第一期工事として着手された。新しく開設された道路は、完成区間ごとに県道に編入されていった。吉田~卯之町間は法花津峠道路の改修によってほぼ目的が達成され、宇和島~吉田間の改修もこれと同じころ着工されたものと推定されている。
 宇和島~松山間の県道改修が明治末年までにほぼ完了したのに比べ、宇和島以南の県道宇和島・宿毛線(旧宿毛街道)の改修は大幅に遅れたが、岩松村字白崎(現津島町港町三区)から寺の下(臨江寺)までの県道が明治三二年(一八九九)に改修されている。宇和島・岩松間の改修のうち、松尾坂に道路を取りつけるのが最大の難工事で、明治四一年(一九〇八)から四三年(一九一〇)までかかってようやく竣工した。寺の下から古川に至る区間の改修及び岩松大橋の架設工事完成が明治四四年(一九一一)であるから、県道が松尾峠から高田を経て岩松町内に伸びたのは明治末期である。
 南宇和郡は宇和島以南の中でもさらにへき遠の地で、明治四五年(一九一二)発行の『南郡案内』では「郡ノ中央ヲ貫通セル県道ハ延長八里余リ、シカモ山地六里ノ多キニアリ……」と記され、このころの物資の輸送がなお人の肩、馬の背によっていたことが知られる。深浦・垣内・岩水・久良からは沿岸の海上交通路が開けていたが、緑・僧都・城辺などは大岩・小岩の峠を越えて宇和島と結ばれていた。この大岩道越えは御巡検街道ともよばれ、宇和島まで約四〇㎞の道のりであった。他に緑から大道・豊田・神越・長野を経て城辺古町へ入り、海岸回りで宇和島へ通じるもう一つの街道があった。明治四四年(一九一一)の『城辺村史』によると、明治二九年(一八九六)度に城辺村役場より御荘村貝塚港までの県道改修、同三五年(一九〇二)度に同役場より一本松村界までの県道改修などの工事が行なわれている。

 国道五六号の改修

 県道松山・宇和島線及び県道宇和島・宿毛線が国道に昇格するのは昭和二八年であるが、この路線の建設省による直轄施行工事は二五年度に行なわれた松尾隧道などの改良工事が最初である。この事業はアメリカ合衆国対日援助見返資金によるものであったが一年で打ち切られ、直轄施行工事はその後三八年度に至って開始された。県内分のうち、高知県境より内子町までは建設省四国地方建設局大洲工事事務所が担当し、中山町から松山市までは同松山工事事務所が担当した。これにより内海トンネル(四三~四五年度)、法華津峠(四一~四五年度)、鳥坂峠(四三~四五年度)及び犬寄峠(四二~四五年度)などの難所も解消し、四六年度に一次改築を完了した。これを四国の他の国道の一次改築と比較すると、一一万が三三~四〇年度、三三号が三三~四二年度であるから五六号の改修は四~五年の遅れがある(図5―20)。しかし、投入された金額は圧倒的に多く、五六号改修がいかに困難な事業であったかがうかがわれる。一次改築の完成により、五六号の総延長は二八七・七㎞となり、このうち本県管内の延長は一五一・四㎞である。この事業は南予地方の道路交通を変革する画期的な大工事であり、掘削された二一か所の隧道の総延長は七三一五m、架けられた橋梁三七か所の総延長は一七七六mに達する(表5―44)。
 これらの改修工事のうち、宇和島市~宇和町間の最大の工事は法華津峠に隧道を通すことであった。法華津トンネルの構想は明治のはじめ、白浦の旧庄屋赤松則忠によって試みられていた。赤松は法華津トンネルの掘削によって吉田~卯之町間に新道を開設しようとし、私費を投じて実地測量を行なった。当時としては空論の域をでなかったが、赤松の測量した掘削地点は、現在の法華津トンネルの位置にほぼ一致するといわれる。
 明治三四年(一九〇一)に完成した法華津峠越えの旧道は、吉田町立間(標高六〇m)から法花津峠(標高四六三m)を越えて宇和町伊賀上(標高二三〇m)に至る延長一一㎞の急坂であった。この区間の改良にはトンネルによる新道建設が最も効果的であると考えられ、約四㎞の間に法華津トンネルほか大小一〇本、総延長二五四三mのトンネルが掘削された。これにより新国道の延長は五・七㎞に改良され、自動車の走行時間は約四分の一に短縮された。吉田町内ではすでに三八年度に知永峠の国道改良工事が始められており、吉田~宇和島間は四二年二月二七日に供用開始となった。続いて法華津トンネル区間が四五年四月一日供用開始となり、残されていた吉田町内の改修も四七年三月に完工し、三月一四日に供用開始となった。
 松尾峠には明治四三年(一九一〇)に道路が開かれたが、カーブが多く特に岩松側には道路からすぐ谷底がみえる所が数か所もある危険な道であった。そのため昭和二七年に、長さ四六四m、二車線の松尾隧道が開かれ、所要時間が約二分の一に短縮された。しかしこのトンネルは最狭部分の幅員が五・五mと狭少である上、約六〇か所のカーブが連続する道路部分の改修が残された。鉄道をもたない宇和島以南の陸上交通を発達させるためには松尾バイパスの建設が急務となり、四七年度から五六号の二次改築の一環として基本線調査と地質調査が開始された。工事は五一年度に津島側、宇和島側双方より同時着工され、五四年三月に完成した。松尾バイパスの中心は新しい松尾トンネルの掘削で、津島側を起点として延長一七一〇m、幅員九・〇mの燧道が開かれた。バイパスの延長は四㎞であるが、これにより旧国道より距離は二㎞、所要時間は一二分から四分に短縮された。
 五六号の第二次改築事業には他に松山・大洲・宇和島・御荘・城辺など市街地のバイパス建設がある。このうち大洲バイパスは四七年四月に調査が開始され、道路の買収が進められている(五九年現在)。また宇和島バイパスは四八年四月に調査が開始され、五九年度に調査、設計の事業に着手した。城辺・御荘バイパスは四七年四月に着手し、五一年三月二二日供用が開始された。そのほか一本松道路が五一年四月に着手され、五三年四月に着工、五四年一二月に供用が開始されている。

 バス交通の発達

 南予地域における最初のバス会社は、大正五年(一九一六)に八幡浜の医師上甲廉が設立した伊予自動車で、八幡浜・大洲・郡中間の運転を行なった。これはまた同時に愛媛県における最初のバス会社でもあった。次いで大正七年(一九一八)に松山市に本社を置く愛媛自動車(社長は越智郡の深見寅之助)、東宇和郡野村町の酒造業緒方陸朗による宇和自動車、宇和島市には宇和島自動車(社長香川角次)が相次いで設立された。当時の路線は、伊予自動車の八幡浜・郡中間、宇和自動車の卯之町・野村間、宇和島自動車の宇和島~岩松間であった(図5―22)。宇和島自動車の創業時の車両は一九一七年式ビュイック号幌型六気筒の定員六人の二台で、一六号車、一七号車とよんだが、これは県内の自動車所有番号で、当時の県内の自動車は一七台であった。同社は大正八年(一九一九)四月からの営業運転に先がけて二月に一七号車で宇和島・吉田間の試運転をした。この時、知永峠で運転を誤り、君ヶ浦手前のカーブで転落事故を起こした。乗っていた重役三人が死亡するという大惨事となった。これは県内初の自動車による死亡事故であった。宇和島・岩松間の難所松尾坂では荷馬車に出合うと離合に苦労し、また登り坂では馬力が足らず、荷馬車に引っぱってもらったという。翌九年(一九二〇)一月には御荘線(五一㎞)の運行が開始され、海上輸送や乗合馬車に頼っていた宇和島~御荘間の交通に画期的な変革をもたらした。同年一二月には宇和島・卯之町間の運行許可を取得し、同一一年(一九二二)大洲へ、同一二年には松山へと路線を延長した。なお、南宇和郡においては、大正八年(一九一九)ころ、南予(南郡)自動車が設立され、城辺を中心に船越・一本松・深浦・平城札所前間が不定期ながら運行されていたようである。
 大正中期から末期にかけて自動車が普及すると、県内に自動車会社が相次いで誕生し、限られた路線と乗客をめぐって激しい争奪がおこった。南予地方では前述の四社に和田(大正九年)・卯之町(同一〇年)・四国(同一二年)・内子(同)・予洲(同)・三瀬(同一三年)の各自動車会社が乱立し、バス業界の戦国時代とよばれた(図5―21)。広見町出目に設立された和田自動車は、宇和島・宮野下・近永・下鍵山・土居間を運行し、宇和島の四国自動車は、当初宇和島・愛治間を運行し、大正一三年までに宇和島・近永・下鍵山・土居間の運行をしている。なお、路線の競合していた両社は昭和二年から共同経営となり、同一七年に合併している。大洲に設立された予洲自動車は、当初大洲・長浜・松山間および大洲・八幡浜間を運行していたが、さらに肱川沿いに坂石・日吉へと路線を延長した。八幡浜に設立された三瀬自動車は、当時馬車が走っていた八幡浜・三瓶・卯之町・八幡浜間の三角路線を譲渡してもらって運行を始めた。こうした激しい競争に加えて、大正一二年には伊予自動車が宇和島に乗り入れ、松山の松山自動車も今治・宇和島間を上下各一日二便で運行を開始し、同一四年には同じ松山の愛媛自動車も南予に進出した。なお、松山自動車は設立の翌年(大正一三年)愛媛自動車に合併し、愛媛自動車は、昭和四年(一九二九)から内子・中央各自動車と共同経営に移り、同八年には郡中自動車を合わせて、伊予鉄道の前身三共自動車となった(図5―21)。
 このように大正末期には多くの自動車会社が設立され、路線の競合が激しく行なわれた。主な競合路線をみると、宇和島・御荘間は宇和島自動車と伊予自動車が、宇和島・卯之町間は宇和島・伊予・愛媛の三社が、八幡浜・卯之町間、八幡浜・大洲間は伊予と予洲が、大洲・卯之町間は宇和島と愛媛が、宇和島・土居間は和田と四国がそれぞれ競合していた。
 昭和二年に国鉄予讃線が松山まで開通したことにより愛媛県の交通地図は一変し、国鉄予讃線と並行していたバス路線は大きな打撃をうけた。そのためバス会社は経営の主力を松山南部および南予地方に集中させたため、南予地方では以前にも増して激しい競争となった。例えば、松山・宇和島間は宇和島・中央(本社松山)・愛媛の三社が競合し、松山・八幡浜間は中央・愛媛・予洲・内子の四社が競合した。こうした情勢のもとで昭和三年に宇和島運輸系の第二宇和島自動車が宇和島に設立され、翌四年に既設の宇和島自動車を合併した(一二年に宇和島自動車と社名を変更)。昭和六年に一本松・宿毛聞の県道が開通すると、松山の三共自動車は第二宇和島自動車を制して宿毛乗り入れに成功し、同一〇年から運行を開始した。その後、国の統制方針により県内のバス事業は東・中・南予の地域ごとに合併・統合が進められた。東予は瀬戸内運輸に、中予は三共自動車(後に伊予鉄道に合併)に、南予は宇和島自動車にそれぞれ合併・統合された。南予の合併・統合過程をみると、昭和一三年に宇和島自動車が三共自動車の大洲以南~高知県宿毛にいたる南予一円のバス・ハイヤー・トラックなどの全事業を買収したのを皮切りに、一八年には三瓶・八幡浜市営バス・四国の三社を買収し、南予地方のバス事業を掌握することとなった。国鉄予讃線は一〇年一〇月に大洲まで、一四年二月に八幡浜まで開通し、二八年七月には卯之町・宇和島間が開通した。しかし、八幡浜・卯之町間が未開通のため定員三三人の連絡バスは一日一〇往復しても超満員であった。また、当時は省営バスとよばれた国鉄バスが鉄道建設から外れた地域で運行され、昭和一一年には近永・魚成橋、土居古市・土居町間で南予線として開通している。
 宇和島を中心とする南予地域のバス路線の変遷をみたのが図5―22である。凡例で示すように六つの年代に区分した。なお、宇和島自動車と国鉄が競合している路線については、先にできた路線の方で示してある。これによると、主な中心集落間を結ぶ路線は戦前までに一応開通しており、戦後になって山間部や半島部に路線が延長している。宇和島に直結している宇和島・石応線、宇和島・三浦線は昭和三〇年代に延びた路線となっているが、これは二八年八月に宇和島自動車が宇和島・石応間の県道開通を見込んでバス路線の延長乗り入れを申請すると、沿岸航路の衰退を恐れた盛運汽船(社長山本友一)がバス事業に進出して二九年一月から宇和島・石応間一日八往復、宇和島・三浦間同六往復の運行を開始したものである。その後、盛運汽船は宇和島自動車のドル箱路線であった宇和島・宿毛線の免許を申請して乗り入れてきたため両社は激しく対立したが、三四年に盛運汽船がバス事業を一括宇和島自動車に譲渡して、この問題は決着がついた。
 昭和四〇年ころにほぼ現在の路線網は完成するが、四〇年以降で大きな変化があったのは内海村である。同四九年五月に家串・魚神山間に免許が下り、同年一二月に須下にもバスが運行されるようになった。また、五六年には津島町柿の浦から船越まで路線が延長されている。さらに五九年八月からは内海村の“陸の孤島”網代地区と魚神山を結ぶ路線が開設され、住民の貴重な足となっている。
 一方、戦後におけるバス路線の変遷の今一つの特徴は、昭和四〇年以後のバス輸送人員の減少にともなって廃止路線が見られるようになったことである。最も早い廃止は昭和四〇年の宇和島柿の木・津島町本俵間であって、続いて四四年に野村町の大野ヶ原以東が廃止となった。昭和五五年から五七年にかけては廃止路線があいつぎ、上梅川(大洲市)・白髭(野村町)間、野村町の惣川大久保・大野ケ原間、一本松町の増田中組・増田間、津島町の清里・御代ノ川間の合計二五・六㎞が廃止された。これらの廃止路線は、上梅川・白髭間を除いて、いずれも昭和三〇年以降に設置されたものであって、当初からバス交通に対するニーズの絶対量が少ない路線であるという共通の特徴を有している。なお、上梅川・白髭間は昭和五六年に廃止されたが、五八年の白髭トンネルの開通で再度バス運行がなされているきわめて特異な例である。この他に部分的にバスが通らなくなった区間があるが、それらはいずれもバイパスの建設により路線が旧道から新道に変更したものである。



















表5-43 明治時代の道路改修費

表5-43 明治時代の道路改修費


図5-20 主な国道の道路改修費(1次改築)の推移

図5-20 主な国道の道路改修費(1次改築)の推移


表5-44 国道56号の主要構造物

表5-44 国道56号の主要構造物


図5-21 南予地域のバス会社の統合

図5-21 南予地域のバス会社の統合


図5-22 南予地域におけるバス路線網の発達

図5-22 南予地域におけるバス路線網の発達