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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

三 宇和島市の製材業


 豊富な国有林をもとに発達

 この地方の木材業の歴史は、古く宇和島藩の財源として森林が重視されていたころから、藩有林の伐出が阪神方面との取引きとして行なわれたことに始まる。明治維新後も、紀ノ国屋・大島屋・笹屋・西田など五軒の木材問屋が営業を続け、昭和恐慌時まで続いたといわれる。木材販売を主とした材木屋が、製材施設を従の形で備えたのが明治の終わりころで、このころが当地方における製材業の始まりだという。明治三四年(一九〇一)、当時の宇和島の材木屋であった村山・三原・玉木・横田など六軒が集まって宇和島木材株式会社をつくった。この会社も木材販売が主で製材は従であった。製材の動力は当初は鋸屑、石炭を燃料としたボイラーでおこしていた。
 滑床の国有林からのもみ、つがの伐採には高知の人夫が多くはいっていた。今では一般にもみ板といえば製箱材料ぐらいにしか考えないが、当時は、この優良もみを原木とした柾目木取りの無節の四分板あるいは三分板は、天井板として高く評価され、ここの生産量の半分近くは大阪へ出荷されていた。また、宇和島地方では天井板はもみと相場はきまっていた。この滑床での製材は、秋田木材が国有林の立木買いをして、それを長鋸で板に挽いていた。大正の中期ごろの宇和島の木材業者をあげると、宇和島材木(株)・秋田木材宇和島出張所、古島・山口・横田・富永・日野・松本・山下・木村・宮土・瀬崎・立花・河野の各材木店で、これら材木店の主体は地域需要であった。これらのうち製材機械装備を有していたのは宇和島材木(株)・古島材木店および瀬崎材木店の三店で、秋田木材は滑床に製材所をもっていた。他の材木店は、賃挽き専門の工場が数軒あって(赤松・北川・兵藤など)、それを利用していた。
 次に、特別な需要との関係として、この地域一帯の養蚕業と木材との結びつきを忘れることができない。大正末から昭和のはじめにかけて、養蚕業が盛んになって、住宅兼養蚕室の建造が多くみられ、木材の需要が多くなった。この建物は四間・六間の総二階であり、これに用いる柱材として造林すぎが用いられた。昭和の初期は、満州事変(昭和六年)までは業界は不況にあえいだ。満州事変を境にして逐次、軍需用材の需要が増加してきた。当地には広島の大手業者が買いにきたもので、製品の主なものは四寸角四mものであった。これに続いて、台湾を相手先とする小丸太の輸出が始まり、当地の木材業発展の基礎が確立された(表5―38)。全県的に大正末から昭和初期にかけて多くの製材工場が創業された時期であり、宇摩郡三、新居郡七、今治市一三、松山市八、上浮穴郡一三、喜多郡一三、宇和島市八という分布であった。台湾向けの小丸太は一〇㎝前後の間伐材を最良としたが、造材し、土場へ出し、筏にくみ、水中貯木場の大浦へひいてゆき、そこで本船積みした。この業務の請負い業者は限定されており、予州木材・古島材木店・秋田木材・山下栄蔵・土井留治・伊予木材宇和島出張所であった。こうした間伐材の積み出しは年間一〇万立方メートルもに達し、全国的にみても大変な量を扱っていたのである。すぎ間伐材の大量生産がある一方、まつの坑木の生産も忘れることはできない。大径のまつ材(径一二㎝以上、三~四mもの)は北支へ、小径木は主に九州の炭鉱に出荷された。このまつ坑木の生産輸移出は、昭和一〇年から一五、六年までの間が最も多く、その量は平均して年間二万立方メートルに達した。
 昭和一二年、宇和島木材商業組合が設立され、ほとんどの業者がこれに参加している。戦争の進展にともない、これの業務の大半が軍需用材の供出となり、統制会社の前身的な性格のものだった。やがて、昭和一七年愛媛県木材会社ができ統制にはいったが、工場数を整理した後、残った製材工場は、油野製材・山本杭木店宇和島出張所・古島製材および宇和島材木の四軒であった。

 戦後の発展と変化

 敗戦後の昭和二一年に木材生産組合連合会の宇和島支部として宇和島地区木材生産組合ができ、翌二二年に宇和島木材林産組合が設立されている。二五年六月の朝鮮動乱、九月の和歌山の大風水害などで材価は高騰し好況を迎えた。この後活況が一〇年ほど続いた。この時代の特徴は、かつては原木のままで大量に台湾、中国向けに出していたのが、製品として移出されるようになったことである。そのため製材業が著しく乱立し、一時は四五工場にも達した。このように戦後の復興資材、進駐軍用材などで多量の製材製品が宇和島で生産された背景には、物資の集散地・交通の要衝に加えて、この地区一帯から北宇和郡、東宇和郡にかけての民有林資源から、さらには高知県幡多郡にまでおよんでのすぎ、ひのき、まつなどの相当量の蓄積によるものであった。
 昭和四〇年代になると、国有林の原木は別として、やがて内地材原木の不足が顕著になりだし、他地区と同様、宇和島でも輸入外材に依存する時代となった。外材はすでに大正期に米まつ・米つが・米ひあるいは台桧の良質材がはいっていた。しかし、外材入荷の目的、機能がかつてのそれと根本的に異なっている。すなわち、内地材の著しい不足、単価の大きな差、加えて製材工場の施設と機能、形態の根本的変化などが今日の外材を大きく取り入れた理由である。
 現在、宇和島市の製材工場は二三あり、南・北宇和郡の民有林の素材を集荷するのみならず、地元宇和島営林署管内と高知県幡多郡の国有林を集荷する。製品では割柱・木箱・仕組板・梱包用材の生産が多いのが特色である。割柱は一本のすぎの原木を四つに割って柱材とするもので、国有林の大径木を素材とし、九州へ主に出荷している。九州産のすぎ材は色に黒味があり、目が荒いため良質材とはいえず、南予産の割柱が好評を得ている。木箱は南予地域に多い松材を用いて、京阪神への出荷が多い。
 次に、宇和島市街地に分布する二三の製材所(図5―19)についてみる。九製材所が坂下津に集中立地をみている。これは宇和島市が昭和四二年に造成した産業団地に、四七・八年に移転して形成されたもので、関連の木材加工や家具製造も多く、宇和島市を代表する工業となっている。移転前の分布および移転先については図5―19に示した(表5―39参照)。移転した製材所の跡地は造船所や住宅地となっており、平地の乏しい宇和島市にとっては広い用地を提供してくれる製材所の移転は、都市改造面からもその効果が大であった。それでもなお市街地の弁天町(四工場)・桝形町(二)・住吉町(一)・築地町(一)などに残っており、より高度な土地利用上や騒音・ほこりなどの公害発生の面からも郊外への移転がのぞまれている。







表5-38 宇和島市の製材工場

表5-38 宇和島市の製材工場


図5-19 宇和島市の製材所の分布と移動

図5-19 宇和島市の製材所の分布と移動


表5-39 宇和島市の主な製材所

表5-39 宇和島市の主な製材所