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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

七 宇和海の真珠養殖


 養殖業の立地条件

 真珠養殖はあこや貝の稚貝を採苗し、母貝に育てる真珠母貝養殖と、母貝に核を入れ真珠を生産する真珠養殖に分類される。真珠養殖業の立地は漁場・種苗・餌量の分布と特に関係が深い。あこや貝の棲息深度は八m~一〇m、稚貝は三m~五mといわれ波静かで、水深のあるリアス式海岸や湾入のある島嶼部が好漁場となってくる。あこや貝の成長にとって重要な因子には水温・潮汐および海水の流動・プランクトン量などがある。あこや貝の最適水温は二三度Cから二五度Cといわれており、宇和海沿岸では夏の高水温への対処、瀬戸内海では冬の低水温への対処の仕方が重要となってくる。
 広島や松山沖の瀬戸内海漁場は化粧巻漁場、仕上げ漁場の意味をもっている。プランクトン量は貝の餌量補給に関係する。宇和海が「夏瘠型漁場」といわれるのは七月から九月にかけてプランクトン量が急激に減少し、餌料不足をきたすからであり、プランクトンの多い内湾から漁場が沖合化すればするほど、餌量不足がおこりやすい。宇和海では、複雑な地形と潮流の関係で水温の乱高下もおこりやすく、その対処の仕方もむずかしい。養殖業立地の自然条件は相互に関連しており、それぞれの浦・湾の性状も微妙に違っている。

 真珠養殖業・母貝養殖業の発達過程

 宇和海、とくに由良半島以北の海域で本格的に真珠養殖業が展開するのは第二次大戦後のことである。戦後の真珠養殖業の発達は(一)地元業者の事業復活及び創生期(昭和二三~三〇)(二)三重県その他先進県業者の進出期(昭和二九~四一)(三)地元転換業者による発展期(昭和三七~四一)(四)真珠不況脱出後の安定期(昭和四六~現在)の四つの発達段階をみることができる(表5―24)。昭和二五年宇和島大浦に上田宗一、大塚国武によって宇和島真珠養殖組合が開設され、津島町柿の浦では実藤真珠(実藤盛男)が着業。地元が独力で真珠養殖の再建を計ろうとした点に意義があった。
 昭和二九年になると山勝真珠が三浦地区豊浦に入植したのを始めとして、宇和島真珠組合にかわって大月真珠が宇和島市坂下津に進出。同三一年の伊予真珠、村田真珠の津島町への進出に続いて三二年には一四の県外の真珠業者の進出を見た。進出先は川之石(二)、三瓶(一)、吉田(一)、三浦(二)、宇和島(一)、蒋渕(三)、北灘(一)、下灘(一)であり、残り六業者の越智郡への進出は化粧巻漁場としてであった。県外者の進出に対して、県は進出業者と地元沿岸漁民との生産調整をはかるために、昭和三二年真珠養殖事業の指導方針を策定した。(一)真珠養殖と真珠母貝養殖の経営分離を基本方針とする。(二)真珠母貝養殖については宇和海の沿岸漁民に限って営ませる。(三)区画漁業権免許は地元漁協と真珠業者との共有免許とする。という三原則のいわゆる「愛媛方式」を確立した。
 宇和海の真珠養殖において画期的なことは、昭和三七年母貝養殖業から真珠養殖業への転換が許可されたことである。県は安易な転換により失敗することを懸念して、真珠貝養殖は漁協に、真珠養殖は業者に、という基本線を崩すことなく転換を許可した。ここに本格的に地元漁民の手によって真珠生産が開始された(表5―25)。昭和四二年には三三六経営体、生産量五〇三〇貫となり三重県に次いでわが国第二の生産県となった。
 昭和四二年四月から真珠の輸出価格が目に見えて下落し、その秋の浜揚株価格は大暴落となり、真珠養殖業の経営は急激に悪化した。不況は昭和四六年まで続き、宇和海に進出した三重県業者の中には倒産、或いは事業を縮少して撤退するものが相次いだ。この真珠不況を克服するため真珠関係者は生産自粛運動、下級真珠の集荷、余剰真珠の調整保管などの対策にとりくんでいる。この真珠不況では、全国的には零細規模の業者が先に倒産、脱落したのに対して、宇和海では零細規模の転換業者が不況に耐え抜けたことが注目された。この理由として、(一)転換業者は真珠専業の家族経営であったこと。(二)中珠の七ミリサイズを主としており、養殖期間を短くした業者の七ミリの生産量の減少により相対的に七ミリの価格が有利になったこと。(三)母貝生産地のため優良な母貝が他県業者より安く購入できたこと。(四)後発地のため漁協・漁連の指導が強くいきとどいたこと。(五)養殖期間の短縮などにより宇和海の漁場条件が良好であったことなどが考えられる。
 母貝養殖について触れると、本格的母貝養殖は昭和三三年からである。前年の真珠養殖業の指導方針により、母貝養殖は宇和海の沿岸漁民に限って営むことができ、昭和三三年の全国的稚貝不足で、本県のみが豊作となり高価格で県外に出荷が行なわれた。この背景にはいわし不漁により、いわし網漁業からの母貝養殖転向が多くみられた。しかし、こうした沿岸漁民による母貝生産の急増は、真珠養殖以上に生産過剰が深刻なものとなり、計画生産の必要性が痛感させられた。全漁連を中心とする需給調整体制の実現を見て、四三年には母貝の海中投棄が実施されている。長期的な不況により母貝業者の転廃業は真珠業者以上に進行し、かつての漁船漁業への逆戻り、はまち養殖への転換、みかんづくりへの転業、都会への出稼ぎ等の現象が各地にみられた。しかしながら、(一)漁場条件に恵まれて母貝の成長度が高い。(二)県内真珠業者の経営体質がしっかりしており、安定した母貝需要がある。(三)漁協を中心とした生産組織の活動が活発である。などによって宇和海の母貝養殖は全国への母貝供給地として独占的な地位を次第に高めていくのである。

 真珠生産及び母貝生産の動向

 昭和四二年に始まった真珠不況も四七年には回復し、安定した時期を迎え、五二年愛媛県は三重県を抜き、全国一の真珠生産県となっている。経営体数では真珠養殖の場合は圧倒的に下灘・宇和島が多く、宇和海沿岸の中心をなしている。母貝養殖では下灘・三浦が多い。宇和島も三八年段階では四五一体と最高数を示しているが四八年には二七と激減している(表5―25)。真珠不況もさることながら、湾奥に位置する地区では漁場環境の悪化により養殖経営が維持できにくくなっていることを示している。
 筏台数の推移をみると四一年には県合計で真珠養殖で五万一二七台あったものが、五三年には二万二八八〇台となっている。しかし、今年五九年の台数は三万三八六九台と再び増加し始めている。地区別にみると下灘地区では漸増傾向が見られ、五九年の筏台数では二六・五%と最も優位を占めている(表5―26)。なお参考のために、真珠養殖の免許更新は一〇年毎であり、五九年四月一日更新となっている。
 母貝養殖における筏台数は、四七年には不況を反映して、県合計で五二九三台と落ち込んでいる。しかし全体として増加傾向にあり、五九年には二万台に達している。海域別にみると、やはり下灘の比率が高く、五九年には三〇・〇%を占めている。不況の際縮少していた蒋淵海域での増加が目立っており、二〇%を超えているのも注目される(表5―27)。
 真珠養殖経営体は、その歴史的経過から二つの系統に属することになる。一つは昭和三五年創立の愛媛県真珠養殖漁業協同組合であり、主に県外から進出した真珠業者を中心に構成されたものであり、参加する経営体の経営規模も大きい。もう一つは、昭和三八年(一九六三)創立の宇和海真珠養殖漁業協同組合協議会で、母貝養殖から真珠養殖へ転換した地元漁民によって構成されており、経営体数は圧倒的に多い。県漁連の傘下にあって、転換業者の誕生は宇和海における真珠養殖が、沿岸漁業としての性格を一層強めることになった。
 愛媛県の施術目標割当数は、五四年五〇〇〇万貝を超え、わが国第一位の割当数となった。真珠養殖漁協と宇和海真珠養殖漁協の割当数では、大珠においては真珠漁協の方が圧倒的に多い。小珠においては、既に四二年の段階で宇和海真珠の方が多くなっている。中珠においては四五~四七年ころ、宇和海真珠が真珠漁協より優位となっている。中珠の生産は養殖期間が一~二年で大珠の二年に比べて短かく、その分だけ投資した資本の回収が早く、愛媛県においては中珠の生産が主体となっている(表5―28)。

 経営の問題点―大量へい死

 当年物の施術貝のへい死率は一五~二五%、越物で三五~四〇%とみられる。宇和海は外洋性特有の貧栄養漁場である。真珠養殖が発達した三〇年代前半の漁業権の設定は、宇和海沿岸でも比較的内湾性の漁場が選定された。しかし既存業者の生産の拡大や転換業者の急増により、真珠漁場は急速に湾口、湾外、島嶼部へと重心が移るようになった。その沖合漁場の貧餌料現象は、水温の乱高下、潮流の生理的刺激などと作用し合って、へい死率の増大をきたしている。こうした最近の高いへい死率に対して、宇和海の場合、秋、抑制貝を使用して春先施術に切りかえ、越物については、その多くは広島漁場を化粧巻漁場として使用するなど、経営技術の面からは最も進んだ方式が取り入れられている。

 下灘地区の経営の特色

 真珠養殖・母貝養殖共に最も多くの経営体を有しており、海岸線も最長である。経営体の部落別分布では、泥目水・田颪・塩定・柿の浦で真珠養殖が卓越している。他地区に先がけて、母貝養殖から転換をはたした地区である(図5―15)。
 下灘漁協管内の真珠生産枠は、昭和五九年一四一九万一〇〇〇個となっており、一経営当たり約七万個である。一番少ない経営者で六万個、一番経営規模が大きい曲鳥(まがらす)地区で一〇万個でありほとんど均等であるといってよい。下灘の場合、技術者を雇用して企業的経営を行なう例は少なくほとんどが家族労働主体であり、自家の後継者に資格をとらせている場合が多い。最近の真珠の好況に対して、下灘地区内の田の浜・竹ヶ島といった真珠養殖の後発地域で母貝養殖からの転換が希望されるが、新規許可枠の制限が厳しく実現されていない。下灘では漁業権の開放が行なわれ、農業協同組合員即漁業協同組合員というように漁業と農業は密接不可分のものであった。しかし真珠景気の回復とみかんの不況が一致するところとなって、柑橘園の放棄が目立っている。後述する三浦地区と対照的である。昭和四〇年代後半まで続いた下灘の半農半漁的性格は、一瞬にして生産を海にのみ依存した純漁村社会を形づくっているといえよう。もっとも母貝養殖などその労働状況からみて、いたって農業生産的ではある。年間を通じて漁閑期というのは、一月の網の修理か、仕事のない時くらいのもので、年間の労働配分はほとんど均等に配分されている。最も多忙なのは母貝出荷の一一月をひかえて、貝の目方を測っていく一〇月であろう(図5―16)。
 宇和海における真珠漁場と魚類養殖とくにはまち養殖は競合関係を示し、だいたいにおいてはまち養殖が真珠養殖を沖合いに追い出すような関係が多い。しかし下灘にあっては魚類養殖が転換をはかるといった例外的現象を生み、図5―15にもあるように魚類養殖は、ごく狭い範囲で行なわれている。
 今一つ下灘で特筆されるのが「下灘漁協真珠貝研究所」の設置である。昭和五六年に建設され、五八年には約七〇%の稚貝供給が達成され、五九年には下灘全母貝業者への完全供給が達成されている。現在宇和海で唯一といっていい人工種苗供給の成否が注目されるところである。

 三浦地区の経営の特色

 三浦地区でははまちなどの魚類養殖は皆無である。他地区の場合は真珠及び母貝養殖と魚類養殖が隣接し、魚類養殖の残餌などによる漁場汚染が問題になっている。湾奥に位置する三浦の漁場では最初から魚類養殖を行なわないという方向が漁協の方針として決定されていたのである。三浦地区での養殖のきっかけは、昭和二四年、木下豊らによって「南海興産株式会社」を設立しかき養殖を試みたことに始まる。かき養殖は三年で失敗しているが、その筏を利用した稚母貝の養殖が成功し山勝真珠が入植してくるきっかけとなった。やがて三浦地区の住民の間に広汎な稚母貝養殖が開始された。昭和三二年八名で出発した養殖は翌年三九人となっている。この年の母貝が異常高値となり、三浦では三四年には一挙に三〇〇人をこす母貝養殖が開始された。三浦地区で注目されるのは、昭和三五年、三浦漁協が漁船漁業の権益を買い上げ漁場の全面開放を組合員にはかったことである。漁場は組合の共有財産であるという原点に立った平等行使を見ることができる(表5―29)。
 この区画漁業権行使規定実施細則は画期的なものである。三浦漁協は、真珠母貝養殖を開始直後に、漁場保全を目ざした自主規制が実施できている。三浦地区では母貝養殖が主体となったが、第一次転換業者九、第二次転換業者三三、第三次転換業者九、合計五一名が真珠養殖へ転換をはかっているが、昭和五九年現在四五名となっている。狭い漁場で、多くの漁民が母貝養殖を実施しており一経営体あたりの割当筏台数は下灘地区あたりと比べて少ない。そのぶん柑橘類を中心にした農業経営も行なわれている。下灘地区で農業経営の放棄が目立つのと対照的である(表5―30)。袋状の湾をもつ三浦地区では沖合への漁場拡大が困難であるため、合成洗剤の追放、水洗トイレの設置制限など漁場の環境保全対策に努力がはらわれている。















表5-24 愛媛の真珠養殖・真珠母貝養殖業関係年表(№1)

表5-24 愛媛の真珠養殖・真珠母貝養殖業関係年表(№1)


表5-24 愛媛の真珠養殖・真珠母貝養殖業関係年表(№2)

表5-24 愛媛の真珠養殖・真珠母貝養殖業関係年表(№2)


表5-25 真珠養殖および母貝養殖経営体数の推移

表5-25 真珠養殖および母貝養殖経営体数の推移


表5-26 愛媛県真珠漁場免許件数と筏台数の推移

表5-26 愛媛県真珠漁場免許件数と筏台数の推移


表5-27 愛媛県真珠母貝漁場免許件数と筏台数の推移

表5-27 愛媛県真珠母貝漁場免許件数と筏台数の推移


表5-28 愛媛県施術目標割当数の推移(愛媛県真珠漁協、宇和海真珠漁協、その他)

表5-28 愛媛県施術目標割当数の推移(愛媛県真珠漁協、宇和海真珠漁協、その他)


図5-15 津島町下灘漁業協同組合漁業権設定図

図5-15 津島町下灘漁業協同組合漁業権設定図


図5-16 津島町鼡鳴地区の真珠母貝養殖の作業課程

図5-16 津島町鼡鳴地区の真珠母貝養殖の作業課程


表5-29 区画漁業権行使規定実施細則

表5-29 区画漁業権行使規定実施細則


表5-30 集落別農業経営耕地面積(宇和島市三浦地区)

表5-30 集落別農業経営耕地面積(宇和島市三浦地区)