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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

六 宇和海のはまち養殖


 発達過程

 宇和海におけるはまち養殖業は三つの発達段階に分けることができる。(一)草創期(昭和三三~四二)(二)発展期(昭和四三~四七)(三)調整期(昭和四八~現在)である。第一段階は、昭和三三年津島町の由良半島地先の地びき網でとれた稚魚を小割生簀(いけす)で養殖したのが始まりである。昭和三六年には津島町・明浜町・三瓶町・宇和島市の各地先において本格的にはまち養殖業を開始している。由良半島の須下(すげ)には翌三七年に活魚運搬から転向した指導者を中心に、三〇人の一本釣漁民による共同経営の形で生産組合が発足している。この時期、下灘・北灘・遊子の各漁協では、はまち養殖の漁協自営が試みられているが、いずれも結局は、早期段階で漁民の協業体、もしくは個人経営に切り替っている。昭和四〇年には二五〇万尾を養殖し、全国生産の一〇%を占めるに至った。
 宇和海沿岸にはまち養殖が立地する条件としては、(一)急深のリアス海岸の入江が小割生簀養殖に適すること、(二)種苗のモジャコが宇和海で採捕されること、(三)鮮魚餌料の供給が地元まき網業者によって容易に供給されること、(四)工場や都市廃水などによる漁場汚染がほとんどないことなどの条件が考えられる。
 第二段階は昭和四二年の真珠不況を契機に母貝養殖業からはまち養殖業への転換が相次ぐ時期である。この時期、県漁連は一業者の規模一~二万尾が最適規模と考え大口業者の割当放養尾数を削って新規業者にあてるよう努力している。
 第三段階は昭和四八年の生産過剰により魚価の暴落がおこってからであり、全国かん水養魚協会を中心とした生産削減が強化され、市況は回復している。生産量も五五年には四万トンを超えている。昭和三九年からみると生産量において六〇倍以上の急増ぶりである(表5―18)。

 ほまち(ぶり)養殖業の現況

 愛媛県の養殖はまちの生産量は、昭和五三年から全国一の座を占めており、昭和五五年の生産量四万一七九八トンは全国生産一四万九四四九トンの約二八%を占める。生産金額三六二億円は宇和海区総漁業生産額八五四億円の四二・三%にも及んでいる。昭和四八年頃からの魚価の低迷により一時期経営体の減少が認められたが、五一年から五二年にかけての魚価高を反映して、最近数年間、急激な生産増加をみたのである。
 しかし現在生産過剰に伴う魚価の低迷と、それにひきかえ高騰する餌料や資材、そして過密養殖による漁場の老化と歩留りの低下などの問題をかかえて、ハマチ養殖業は大きな転機にさしかかっている。
 漁協別にみて、経営体が増加しているのは三瓶・吉田・宇和島・遊子・戸島である(表5―19)。宇和島・遊子・北灘などは明らかに真珠および母貝養殖からの切り換えによるものである。魚類養殖の中でハマチ養殖の比重の高いのは三瓶・遊子・蒋淵・日振島といった地区である。各漁協別のハマチの導入は、各漁協によって一様ではない。特に三浦漁協のように真珠養殖・母貝養殖にのみ依存してはまち養殖を許可していないところから、三瓶湾漁協のように、ほとんどをはまちを中心とした魚類養殖に依存している極端な場合もある。しかしほとんどの漁協で、はまち・真珠両養殖を併せ実施している。はまち養殖導入の程度は漁場によって違うが、過去に真珠養殖・母貝養殖の盛んであった漁協では、はまち養殖の導入がひかえ目である。
 はまち養殖を営む経営体を第六次漁業センサスにより規模別にみると、各漁協によって違っている。南宇和郡の企業的大規模経営に対して北宇和郡の場合は、特に遊子などを中心にして、均等かつ、小規模であり家族主義的である。宇和海北部では三瓶の場合は、経営規模が大きい。
 昭和五七年魚類養殖が登録制になった際、八幡浜・吉田などの漁協では、漁船漁業の兼業による魚類養殖が登録され、経営体数が急増している。養殖における餌料の取扱いについてみると、約四万トンのはまち生産量に対して必要な餌量は三二万トンである。宇和海のはまち養殖の立地条件にまき網漁業によるいわしの供給があることは先述したが、宇和海区の昭和五七年の魚種別漁獲量によると、まいわし、三万〇一九二トン、さば類三万一九〇二トンでこれらが全て餌料に向けられたとして、それぞれ一〇%ずつ合計二〇%である。したがってはまちの場合、餌料はほとんど県外からの移入による。その最近の餌料の傾向が図(5―13)である。昭和五〇年以前はいかなご主体の餌であったものが最近の傾向として、いわしを主体としたものに変わってきたことである。餌料購入の仕方については各漁協によって対応の仕方が違う。遊子漁協の場合、上部団体としての県漁連への依存度が次第に低下している。昭和五二年以降は、県外からの移入が五〇%を超えている。漁協の養殖業が成長・発展すればするほど上部団体を離れていく結果があらわれている。自分のところにダイレクト方式の購入の道がない場合に、より上部団体への依存度が高くなっている結果のあらわれである(表5―20)。

 三瓶湾における企業的養殖

 三瓶湾では昭和三六年下泊地区で組合自営として始められたが、経験不足で二年間で中止となっている。同三七年には宿毛の栄喜・津島の北灘へ稚魚を供給する予定で、三万尾を用意していたが、契約が不調となってそのまま、これを養殖し翌三八年、香川県大川郡の網本悦が一年限りの契約で養殖を続け成功した。本格的養殖はこの時に始まる。昭和三九年神戸の西日本水産㈱、東太平洋漁業が相次いで操業開始した。三瓶の場合他地区と比較して、大規模な企業的経営に特徴が見られる。三瓶の場合は特に鯖はね釣漁業において、外部資本が進出していた。三瓶地区は、さばはね釣漁業を中心とする漁船漁業依存の地域であったために、養殖業侵透のテンポは遅かった。しかしさばはね釣漁業の不振によって徐々にはまち養殖業が拡大してきた。高島周辺における新漁場の造成によって、養殖海面の拡大がなされており、昭和五八年はまち台数七六九は漁協単位としては、遊子の八一九に次いで多い(表5―21)。五八年現在経営体としては五九が登録されているが、ハマチの養殖業の実際の経営体は二二体である。従って一経営体あたりの生簀の台数は他地区と比べて相当大規模な経営である。三瓶湾の養殖業は、元来餌料自給の建前で始められている。同湾は宇和海有数のいわし四張網漁業の盛んな地域であったが、四五年には全船まき網漁業へ転換している。現在稼動しているまき網業者七統のうち四統は、魚類養殖を行なっている。

 遊子地区の家族主義的養殖経営

 宇和島湾の南に隣接する湾入部で、局地的に見れば開放的海域となる。遊子のはまち養殖の特徴は一経営体あたりの筏台数が制限されており、経営規模は小規模かつ均等である。はまち経営体数は増加傾向にあるが、昭和五〇年には漁場も飽和状態に達している。かつての村ばり式のいわし網漁業を経営してきた遊子地区では、その伝統を受け継いだかたちで、非常によく統制のとれた養殖業を展開している。昭和三八年はまち養殖・真珠養殖が同時に導入され、当時は組合融資はおろか制度融資すらない孤立無援の中で経営の建て直しがはかられたのである。昭和四六年養殖区画漁業権漁場の再編成について討議され、はまちと真珠漁場の縦割構成が打ち出された。同五〇年には美地島漁場の造成事業が完成している。養殖漁業を開始して約二十年、倒産寸前の漁協は、はまち養殖をテコとして、今や県下有数の模範的漁協に変身している。

 北灘湾の漁場利用

 袋状の北灘湾の湾口部は約一㎞、湾奥に岩松川が混入する。吉田藩に属していたころよりいわし網漁業が盛んであった。昭和三〇年伊予真珠の進出に伴い、母貝養殖が盛んとなった。真珠不況後魚類養殖の急成長となり、湾内の漁場汚染の進行は急であった。昭和五〇年湾北部から真珠及び母貝は追い出された格好となった。同五八年のはまち養殖の経営体数をみると、国永一二、木浦松一〇、尻貝(七)掛網代(六)牛の浦(六)と湾北部でしかも湾口に近い西部に経営が集中している。昭和五〇年代になると、赤潮の頻発に象徴される漁場の悪化と漁協経営の甘さが重なり、北灘漁協の倒産という事態に立ち入った。昭和五九年の計画書では湾内にたい養殖が残り、はまちは湾外の「大浜浅海漁場」に移すことになった。この新漁場は昭和五一年度から事業費三一億円を投じ、約一〇〇ヘクタールが造成された。一部北福浦漁港整備事業が進行中である(図5―14)。

 宇和島湾その他の漁場

 この海域のはまち養殖も真珠不況の昭和四六年以降急速に侵透した。母貝養殖からはまち養殖への転換は施設の規模も小さく、一経営当たりの施設も少ない。養殖場の大部分が九島東南の水道部海域に分布しているため、環境条件は最適とはいえず、冬季の水温も低く、魚の成長も他地区に比べて悪い。外海域への転出も望めないので、この海域の養殖は独自の養殖過程の道を歩まざるを得ない。魚類養殖におけるはまち養殖の比率は北灘に次いで低い(表5―21)。漁場の老朽化と自家汚染の進行は魚病、へい死の増加、成長率の低下をまねいており、宇和島湾は相当に汚染がすすみ赤潮の発生も多い(表5―22)。比較的汚染に強いまだいやその他の魚種が取り上げられている。あじ養殖もこの海域では注目される。本来近海まぐろ延縄の活餌として使用する二〇グラム前後のまあじを出荷するために、宇和島湾から吉田湾にかけてとれる四グラム前後の幼魚を種苗として、短期養成する目的で開始されたが、活餌としての需要が安定していないことから、食用に振り向けるようになったもので、養殖期間が比較的短く配合資料を使用できるので簡便であり、漁船漁業の副業として小規模経営されている。昭和五七年の魚類養殖の登録によれば、吉田湾で急増した経営体もこのまあじ養殖である(表2―23)。










表5-18 ぶり類養殖業の推移(宇和海区)

表5-18 ぶり類養殖業の推移(宇和海区)


表5-19 はまち養殖ほか魚類養殖経営体数

表5-19 はまち養殖ほか魚類養殖経営体数


図5-13 年度別餌料取扱い指数の推移(県漁連宇和島支部)

図5-13 年度別餌料取扱い指数の推移(県漁連宇和島支部)


表5-20 遊子漁協における餌飼料の推移

表5-20 遊子漁協における餌飼料の推移


表5-21 魚類養殖用生簀登録内訳

表5-21 魚類養殖用生簀登録内訳


図5-14 ①津島町北灘地区の養殖漁場(昭和40年)②津島町北灘地区の養殖漁場(昭和59年)

図5-14 ①津島町北灘地区の養殖漁場(昭和40年)②津島町北灘地区の養殖漁場(昭和59年)


表5-22 漁業被害を伴った赤潮の発生状況

表5-22 漁業被害を伴った赤潮の発生状況


表5-23 魚類養殖経営の経営体数と養殖経営前の就業状態(組合別)

表5-23 魚類養殖経営の経営体数と養殖経営前の就業状態(組合別)