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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

五 宇和海のいわし網漁業


 いわし綱漁業の発達過程

 藩政期の宇和海のいわし網漁業としては地びき網・船びき網・八手網・四手網・棒受網・いわし刺網・大敷網が挙げられ、とりわけ宇和海の船びき網は有名であった。船びき網の漁法は淡路島の福良地方から伝えられた。この宇和海のいわし船びき網には元網・結出網・新網などそれぞれ経営の違った多くの種類があり、こうしたいわし網のない漁村はなかったといっても過言ではない。特に元網は藩の特別の保護を受け統数も一六二帖と制限されていた。藩政末期の新規網の増大によって漁場が狭くなってくると、元網も網代を一か所に制限され残りは公儀網代押引(競争)とされた。
 明治期に入ると船びき網が衰退しはじめた。一つには火光利用のいわし刺網により沿岸部にいわしが接近しなくなったこと、一つにはこれまで藩政期の大網は漁民の生活を支えており、漁民のひき子としての強制が漁村維持の良習俗となっていた。しかし明治になって個人の操業が可能となってくると、多くの統制のとれた労働力を必要とする大網は維持が困難となってきたことである。
 大正期、宇和海北部ではかたくちいわしの漁獲が中心であり、船びき網にかわって、四つ張網が各部落に普及した。網船二隻、手網二隻、灯船三隻で操業され、比較的小資本で船びき網からの転換がやさしかった。
 遊子地区では他地区と違って四つ張網の経営を部落共同経営にしており、各部落毎に対抗で網経営がなされた。網株を持った家からは必ず一人出るきまりで、老若を問わず漁獲物かたくちいわしの平等分配を受け、各戸でイリコ製造が行なわれた。
 南宇和郡では蓄電式の集魚灯を使用したまき網漁業の技術革新が進行していたが、日振島などでは、おもだか網と呼ばれる伝統的船びき網が明治・大正と続いた。日振島近海は宇和海有数の好漁場を形成しており、こうした有利な条件がかえって漁法の近代化を阻んだといえる。その日振島では、他地区が船びき網から四つ張網へ、そして逢切網(ふかし網)という発達過程を経たのに対して、一挙に近代的まき網漁業へと転換した。すなわち日振島の米田助尾は昭和五年(一九三〇)南宇和郡の中浦地区から、まき網を導入したのであった。当時の宇和海は昭和八年の好況期を迎え、遊子、戸島・蒋淵・下波・下灘などでいわし四張網から、より大型化した縫切網へ転換しようとしている時期であった。
 他方、宇和海最北部の西宇和郡の漁村では縫切網は普及せずいわし四張り網がより高度に発達することになった。
 『愛媛旋網漁業史』に記録されている昭和二四年度宇和海漁協漁業勢力一覧表は、宇和海におけるいわし網漁業の動向をよく物語っている(表5―15)。
 南宇和郡を中心としたまき網漁業の一大船団が豊後水道及び宿毛湾で操業を展開するが、昭和三〇年をどん底とするいわし類の不漁期がやってくることになった。
 特にまいわしは宇和海区で昭和二四年、九三一二トンから三五年には皆無となり、マキ網漁業者の倒産が相次いだ。経営体も二そうまき網、縫切網などで転廃業がすすんだ。宇和海沿岸の漁村は、このいわし不漁をきっかけにして、昭和三〇年代の真珠母貝養殖、同四〇年代のはまち養殖を主体とした養殖漁村へと大きく変貌するのであった。同四〇年代に入るとまいわしの資源回復の兆がみえ、はまち養殖が宇和海沿岸で急成長した。
 いわし・さばがはまち養殖の餌料として大量消費されるようになると、低価格ではあるが価格が安定する中にまき網漁業経営が維持されている。北宇和郡の四張り網はこうした状況の中で、知事許可漁業である五トン未満の小型まき網へと転換した。本船三名、灯船各一名で計五~六名で操業できるようになり、労働力不足にも対応している(表5―16)。
 昭和五三年、三九〇〇〇トンのまいわしの漁獲は昭和一一年のいわし豊漁期を上回る愛媛県史上、最多の漁獲量であり、宇和海におけるいわし網漁業の現況を物語るものである(表5―17)。

 三瓶地区の四張り網

 他地区で近代的装備のまき網漁業が進展するのに対して、三瓶地区では四張り網が存続している。昭和三〇年代には一三統の船団が存在しており、強力なチームワークを発揮し、三瓶の同業の船団同志でも互いに協力しあって経営が維持されてきた。しかし昭和四〇年代に入ると、漁業の近代化が始まり、まず大洋丸が、まき網に転換し、同四五年には残りの一二統も全てまき網に変わっている。昭和五九年現在七統が稼動しており、そのうち四統は、はまちを中心とした魚類養殖を兼ねている(図5―12)。一方、昭和四六年、宇和海の知事許可漁業などに関する取り扱い方針の一部改正により、今までのいわし・あじ・さば沖取網漁業の操業区域及び制限が改正され、機船船びき網漁業(パッチ網)となり操業区域も所属漁協の共同漁業権区域に改正された。県の方針としては三瓶の狭い共同漁業権の範囲では三統が限度であるという判断も、関係者の強い要望におしきられたかたちで九統の共同経営、二統の個人経営が許可されることになった。

 遊子地区の部落共同網漁業

 宇和海のいわし不漁から、遊子の中型いわしまき網漁業経営が崩壊して、地域経済が疲弊と混乱の極に達して、漁協経営が倒産状態となったのは、昭和三六年のことであった。当地区は宇和海の中央に位置し、いわし網三〇〇年の伝統と中核的地位を誇ってきた地区であった。遊子地区のいわし網は明治期、地びき網から四手網が中心となり、昭和一一年水荷浦に沖取網が導入されている。巾着網が導入されたのは昭和一八年ころからであり、縫切網にかわって片手まわし巾着が操業されるようになった。生産力の増大と省力化をはかるためであり、こうして遊子はいわし網における中心的存在となった。遊子の経営の特色は、部落共同網経営にある。昭和三年から一二年の間に各部落毎の共同網経営が実施されている。藩政期の元網一三統を継承して津野浦三、水荷浦二、魚泊二、番匠一、甘崎二、小矢野浦一、矢の浦一、明越一の一三統が経営された。おりしも昭和二四年のデラ台風の大被害を受けて、それまでの縫切網は片手巾着に大転換をはかった。転換したのは水荷浦二、魚泊二、番匠一、甘崎二、小矢野浦一の八統であった。しかし先述のとおり三五年には五統が倒産、同四六年魚泊の網を最後にまき網は廃止になった。永年共同体的精神を持続させたいわし網漁業の平等就労平等分配の精神は、現在のはまち養殖を中心とした養殖業の中に受け継がれている。

 日振島の大型まき網漁業

 日振近海は藩政期より宇和海屈指の魚族資源の分布する好漁場であり、開発の歴史も古い。島大名といわれた庄屋の清家が大網主で一二統の庄屋網を通して島民を曳子として支配したが、明治になって庄屋網は個人経営のいわし網経営に変わっている。明治・大正期にはおもだか網が喜路・明海・能登の三部落に四統ずつ続いたが、昭和に入って各部落二統ずつの計六統に減じている。先述しているように昭和五年南宇和の中浦から両手巾着の網船二隻、曳航船一隻、灯船、漁網などまき網一式を購入、好成績を得るや否や翌六年には一挙に全六統がまき網船団に変化した。北宇和郡のほかの漁村の漁法や、船びき網→四張網→縫切網→巾着網と近代化をすすめたのに対して、日振島の変化は急激である。その日振島のまき網経営が最も進化した片手巾着網に変わるのは、昭和二四年のデラ台風の際であった。死亡者、日振一〇六、戸島三八、蒋淵三七、下波二六、遊子四、計二一一名、動力船七五隻、無動力船五四二隻の損失という宇和海いわし網漁業史上、未曽有の災害を受けた。日振島では昭和五九年現在、大型のまき網が喜路、能登に一統ずつ経営されている。県より宿毛湾に入漁許可を受けている、大中型まき網漁業一三統の船団のうちの二統であり、この日振の二統を除くと残りは全て、南宇和郡のまき網漁業船団である(昭和五九年七月現在)。









表5-15 昭和24年度宇和海漁協漁業勢力一覧表

表5-15 昭和24年度宇和海漁協漁業勢力一覧表


表5-16 市町村別海面漁業種類別漁撈体数(いわし関係のみ)

表5-16 市町村別海面漁業種類別漁撈体数(いわし関係のみ)


表5-17 魚種別漁獲量(宇和海区・属人)

表5-17 魚種別漁獲量(宇和海区・属人)


図5-12 網漁業の推移

図5-12 網漁業の推移