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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

一 段畑の形成と変容


 段畑の分布

 宇和海沿岸は、″耕して天に至る″といわれた段畑耕作で全国的に知られていた。リアス海岸の入江に影を落すしま模様の段畑景観は、南予を訪れる観光客に最も強烈な印象を与える風物詩であった。
 段畑は北は佐田岬半島から南は宿毛湾の沿岸まで、宇和海の沿岸に広く分布している。山腹斜面に普通畑を開いている例は西日本の各地に広く見られるが、その畑に最も美事な石垣の畦畔をめぐらしているのが宇和海沿岸であり、ここは段畑地域と呼ぶにふさわしいところである。昭和三九年農林省愛媛統計調査事務所の行なった農業地域区分によると、段畑地域は北の長浜町喜多灘から南の城辺町東外海にかけての四四にわたる旧町村とされている。相馬正胤はこの地域区分を参照にしながら、喜多郡の長浜町に属する旧四町村を除外し、かわりに岩松・御荘・城辺の三町村を加えた地区を段畑地域としている。相馬の区分は、地域の連続性を重視している点からすれば、段畑地域を画する妥当なものといえる。
 段畑地域の地形・地質をみると、北部の佐田岬半島付近は侵食面と考えられる平坦面が随所にみられ、この平坦面を中心に段畑が展開している。地質は三波川系の結晶片岩であり、その風化土は地味良好である。その南の八幡浜付近では御荷鉾構造線に接する秩父古生層に緩斜面が広く分布し、その緩斜面を中心に段畑が展開している。宇和島市以南の地域は比較的急峻な山地が海に没し、緩斜面に乏しい。地質は中生代四万十層群の砂岩と頁岩よりなり、その風化土は薄く地味も不良である。
 段畑の高度は標高二〇〇m程度に達するものが多いが、宇和島市の九島やその対岸の石応、八幡浜市の向灘などでは、三〇〇mに達するものもあった。また傾斜も急峻であり、二〇~三〇度程度のものは普通であり、なかには由良半島の平井や須下のごとく五〇度をこすものもあり、段畑の岸高よりも畑の幅の方が狭いものもあった。

 段畑の形成

 段畑の形成に関しては、従来、宇和島藩の寛文年間(一六六一~七二)の検地によって、農民への貢租負担が増加したことが、農民のやむにやまれぬ耕地の開墾をうながしたとするのが通説であった。これに対して、段畑が急増したのは統計上幕末以降であることが指摘され、段畑は宇和海沿岸漁民の食糧自給のため造成されたとする説が有力となっている。
 山田勝利の研究によると、段畑の形成時期には、江戸時代初期、幕末から明治年間、さらには第二次大戦後の三つの時期が指摘されている。江戸時代初期は段畑形成の搖籃期であり、いわし網漁業を重視する宇和島藩の手厚い保護のもとに新浦が形成され、その漁民の食糧自給のために集落背後の傾斜地が段畑に開かれた時期であったという。幕末から明治年間にかけては、段畑増加の最盛期にあたる。漁業の発展が人口増加を招き、その食糧確保が段畑の急激な開発をうながしたという。この時期の段畑増加には、段畑の最適作物である甘藷の導入と普及が大きく寄与したという。第二次大戦後は食糧の著しい不足が漁村の二・三男や海外引揚者などの手による段畑の開発を推進したものであるが、その開発期は昭和二〇年代で終わった。
 段畑の形成は地域的にも大きく異なる。宇和海の北部と南部でその形成時期を対比すると、北部に比べて南部はその形成が新しい(表5―1)。地理学者で民俗学の研究にも造詣の深い千葉徳爾の見解では、宇和島市以南の南予地域は野獣、特にいのししの棲息密度が高く、沿岸地帯に至るまで獣害が著しかったことが、江戸末期までの段畑の開発を抑制したという。
 千葉が宇和海沿岸の段畑が江戸末期から明治初期にかけて飛躍的に増大した理由としてあげているのは、江戸末期に至り、耕地を荒すいのししが減少したこと、段畑の最適作物は風害と干害に強い甘藷であるが、この甘藷が江戸末期になって導入されたこと、広大な山林を独占し、鰯大網の特権をもって君臨していた網元・村役人層が幕末から明治前期にかけて没落し、彼等の所有していた山林が一般住民に解放されたこと、などの諸要因をあげている。

 段畑の土地利用の変貌

 宇和海沿岸に甘藷が導入されたことに関しては、享保一八年(一七三三)に俵津浦(現明浜町)に甘藷が栽培されたという記録があるが、これは旱魃に弱い品種であったと考えられる。大正元年(一九一二)の『遊子村誌』には「享保年間二甘諸伝ハリ、地方ノ大産物トナリ、其後万延ノ頃カライモ伝ハリ、食物ハイヨイヨ豊富トナレリ」と記載されており、旱魃に強い甘藷の品種が宇和海沿岸の中・南部の地域に導入されたのは幕末であると推察される。
 幕末に甘諸栽培が普及して以降の段畑の主要な作物は甘藷であった。宇和海の段畑地帯は、丘陵性山地の山頂近くまで耕地が開かれており、夏期の豪雨をこうむると、急傾斜地の段畑は激しい土壌侵食をうける。さらに宇和海は台風の進路にあたるところから、台風時には作物の葉が吹き飛ばされてしまうほどの風害もこうむる。このような自然条件のもとでの最適作物は、干害に強く、つるが地表をおおい、土壌侵食を防ぐと共に風害に強い甘藷であった。夏作の甘藷と共に自給作物として重要であったのは冬作の麦であった。しかし、宇和海の沿岸は冬季に北西の季節風をまともに受けるところが多く、そのような斜面では麦作の栽培が制約されたところから、その栽培面積は甘藷に比べて少なかった。
 段畑の商品作物として、江戸時代から明治年間にかけて重要であったものは櫨(はぜ)であった。明治二一年(一八八八)の愛媛県の櫨の生産量は二四二万貫であったが、うち宇和四郡の生産量は一五七万貫(六四・八%)で、県下第一の産地であった。この櫨に代わって明治中期以降商品作物として次第に栽培面積を増加させるのは桑であった。愛媛県で桑園面積がピークに達したのは昭和四年であるが、この年の県の桑園面積が一万五一三七町歩であったのに対して、宇和四郡の桑園面積は八三二九町歩(五五・〇%)にも達し、県下随一の養蚕地帯であった。この当時栽培条件に恵まれた湾奥の村、例えば西宇和郡伊方、東宇和郡の玉津、北宇和郡の九島・三浦・北灘などの諸村では、桑園面積が耕地面積の過半に達していた。
 昭和一〇年代になると繭(まゆ)価の暴落と戦争の激化にともなう食料の増産のために、桑園はまた甘藷と麦を栽培する普通畑に転換されていく。第二次大戦後も食料確保のために普通畑が開墾されていくが、昭和三〇年代になると、商品作物の柑橘栽培が盛んになってくる。この場合柑橘栽培がまず盛んになってくるのは、北部の八幡浜市や保内町の地域と、中部の吉田町を中心とした地域であった。宇和島市以南の地域に広く柑橘栽培が普及するのは、昭和三五年以降であり、宇和海北部の地域に比べて、柑橘の導入は遅れた。
 段畑の土地利用が大きく変貌したのは、昭和三五年からの高度経済成長期以降である。この時期になると段畑地帯は柑橘栽培が盛んになって耕地面積を増加させる地域と、反対に耕作放棄が進展し、段畑の放棄される地域に両極分解されていく(図5―1)。前者は北部の八幡浜市や保内町・三崎町などの結晶片岩地帯や秩父古生層地帯と、中部の吉田町を中心としたところである。共に良質の柑橘栽培地として著名なところである。
 一方、耕地面積の激減した地域は、宇和島市以南の段畑地域である。この地域は中生代四万十層群の地味不良な土壌に加えて、冬季の季節風を強くうける半島や離島が多く、全般的には柑橘栽培に不利な地域である。加えてこの地域は昭和三〇年代の半ばから真珠母貝養殖が盛んとなり、次いで昭和四〇年ころからはまち養殖が盛んとなる。半農半漁のこれらの漁村地帯では、生産性の低い段畑耕作は放棄され、住民の多くは養殖漁業にその労力を投じていくのである。また半島部や離島地域では、高度経済成長期に人口流出が激化したことも、段畑耕作の放棄される一要因であった。

 宇和島市水荷浦の段畑景観

 水荷浦は宇和島市域の南西部につき出たこも淵半島にある半農半漁の集落であった。旧遊子村に属するこの集落は、昭和四〇年以降、宇和海沿岸の段畑が急速に衰退するなかで、最後まで段畑景観を残した集落として著名であった。
 水荷浦は蒋淵半島から北東方向に突出した小半島の南岸に立地する集落である。昭和三五年には四二戸の農家が二五・一ヘクタールの段畑を耕作していた。耕地のうち〇・二ヘクタールの果樹園があるのみで、他はすべて普通畑であった。集落領域内の最高点は標高九一・九mであるので、この集落の段畑の高度は他の集落に比べて高くはないが、傾斜は三〇~四〇度程度のものが多く、典型的な段畑景観を見せている。
 昭和三五年当時の水荷浦では段畑は極限状態にまで達しており、海食崖の発達する半島北岸の一部と、岩盤の露出する南岸の一部が山林となっているのみで、土地の八〇%以上は段畑に開かれていた。段畑の耕作景観を構成するものは、棚状の耕地とそれを画する等高線に沿う石垣、段畑の間をぬって走る農道と排水溝、それによしの防風林である。
 段畑は一筆の耕地が数十枚の棚状の耕地に区画されているが、その棚状耕地を画するものは通常石垣である。この石垣は畑の開墾時に露出した岩石を用いて構築したものが多く、中には遠く岩石の露出するところから石を運搬してきて築いたものも多い。石垣以外にはアゴシキと称するいもずるを用いた垣もある。この集落の石垣の構築年代をみると、昭和以降に築かれたものが多く、特に第二次大戦後の甘藷ブームの時期に構築されたものも多い。防風林はすべてよしによって仕立てられ、それは冬季の北西の季節風をうける北西斜面と半島の尾根筋に走っているものが多い(図5―2)。
 農道は第二次大戦前には文字どおりの兎道しかなく、農作物の搬出作業には大変苦労した。作物の搬出に索道が架設されたのは第二次大戦後の甘藷ブームの時期であり、モノレールが敷設されるようになったのは昭和四九年早掘り馬鈴薯の指定産地になる数年前である。索道は集落住民が共同で架設し、モノレールは数人の共同で敷設したものが多い。半島の北岸を迂回する農道が建設されたのも昭和四〇年代になってであり、段畑の輸送条件は次第に改良されてくる。

 水荷浦の栽培作物の変遷

 水荷浦の昭和四〇年ころまでの生業は、いわし網と段畑耕作に依存する半農半漁の形態であった。いわし網は明治末年までの地びき網、明治末年から昭和一〇年までの四手網、昭和一一年以降の沖取網と変遷し、以後昭和一八年ころから巾着網、同三五年ころから中型まき網と変遷していく。遊子地区には藩政時代以来一三統のいわし網があり、水荷浦にはそのうち二統が存在した。いわしまき網は昭和三〇年ころの不漁を契機に相次いで倒産していくが、この地区のいわしまき網は昭和四四年まで存続し、この地区では最後までいわしまき網の存続した集落であった。
 段畑の主作物は夏作の甘藷と冬作の麦で、共に住民の主食であった。甘藷は五月中旬から六月中旬に植え付けられ、一〇月初旬から一二月初旬にかけて収穫された。栽培期間中は除草と施肥が主な仕事であった。除草は畑の中のみでなく、石垣の草一本に至るまでとり除いたが、それは草の繁茂によって石垣のゆるむのを防止するためであった。肥料は下肥と下水それに海藻が主なものであった。下肥は肥たごといわれる桶に入れて、天秤棒で荷なって段畑に運び上げた。各家庭の炊事場には下水溜めがあり、この下水も残らず段畑に運びあげた。段畑の中には随所に肥溜があり、下肥と下水はここで腐敗させたものが畑に投入された。甘藷には台風の被害はほとんどなかったが、旱魃には常に悩まされ、雨乞いは年中行事になっていた。
 甘藷栽培で最も多くの労力を要するのは収穫作業であった。鍬で掘りおこした甘藷は、壮年男子がほごに入れて天秤棒で荷ない下した。遠隔地の畑の甘藷は船を利用して運搬したものもあった。一回に荷ない下す量は八~一〇貫程度であるが反当一五〇〇貫程度の収量があったので三反歩の甘藷を荷ない下すためには、四〇〇~五〇〇回も往復しなければならず、この運搬作業は大変な重労働であった。肩に荷こぶのできる者や、ガニ股になる壮年男子が多かったが、これはこの重労働のなせるわざであった。いもずるは土壤侵食を防止するためにアゴジキ用に使用した。この地方では畑の一段をアゴというが、いもずるをアゴの端に埋め込み、そこに土をかけて高く盛りあげ、土壤侵食の防止をはかったのである。
 裸麦は甘藷の収穫後一二月に播種した。乾燥がはげしいこの地では発芽を促進するために、麦は必ず甘藷を収穫した後の溝に播種するのが通例であった。麦を栽培する畑は段畑全体の八〇%程度であったが、それは冬季に季節風をまともにうける北斜面では麦が倒伏し、その栽培が困難であったことによる。麦は追肥と中耕を二回する程度で、甘藷に比較して投下労力は少なかったが、五月中・下旬の収穫は重労働であった。刈取られた麦は三日間ほど地干しにして後に、負い子に背負って家にとって帰った。壮年男子が運び下した麦は、家の近くで女子 が千束を使用して脱穀した。麦わらは家庭用の燃料と漁船の底を焼くために必要であったので、家の近くにうず高く積みあげて保管していた(表5―2)。
 甘藷も麦も住民の主食であったが、一〇月から四月にかけては、甘藷を蒸して食べ、五月から一〇月にかけては切干しいもと麦を混ぜて炊いた「かんころめし」が主食であった。副食は魚と野菜であった。この地区の住民に米食が普及するようになったのは昭和三六年ころからであり、米が主食となったのは真珠母貝養殖が盛んになった同四〇年ころからである。
 段畑の商品作物としては、大正年間から昭和の初期にかけての桑と、同三七年から始まる早掘り馬鈴薯、それに同四〇年ころから始まる柑橘がある。桑園面積は大正末期から昭和初期の最盛期には段畑の過半に達し、どの家でも春蚕・夏蚕・秋蚕の年三回の養蚕を行なった。現在も残る木造二階建の家の大部分はこの時期に蚕室を兼ねて建築されたものである。桑園管理の最大の難点は、台風時の風害と旱魃の害をうけることであり、このような時には、宇和島市や三瓶町方面にまで桑を買いに出かけた。
 早掘り馬鈴薯は昭和三七年に栽培が始まる。無霜地帯である温暖な気候を利用して、一一月に植付けたものが四月下旬から五月上旬にかけて収穫され、京阪神方面に経済連の手をへて共同出荷されている。同四九年には宇和島市と津島町の範囲で「宇和海ばれいしょ」として県の指定野菜産地となった。同年の早掘り馬鈴薯の栽培面積は、宇和島市六〇ヘクタール、津島町二〇ヘクタールの計八〇ヘクタールであるが、その最大の栽培地がここ水荷浦である。昭和五三年ころには水荷浦で七ヘクタール程度の栽培面積があった。この集落に最後まで段畑が普通畑として残ったのは、この早掘り馬鈴薯の栽培が存続していることによる。
 温州みかんは県下のみかんブームを反映して、昭和四〇年ころに植栽が進んだが、夏の干害と台風の被害をよくうけ、現金収入を得る以前に放棄されたものが多い。
 現在水荷浦の段畑耕作を守っている者は、いずれも六〇才以上の老人達である。彼等は先祖の汗の結晶として築かれた段畑を放棄するにしのびなく、収益性を無視して段畑耕作に精を出している。青壮年層は段畑には見向きもせず、真珠母貝やはまちなどの養殖漁業に精を出している。水荷浦の段畑は今まで段畑を守ってきたこれら老人達が老齢化のために段畑耕作に耐えられなくなるにつれて、年を追って減少している。その場合、段畑は集落から遠隔にある畑や、冬季の季節風の影響を強くうける耕作条件の悪い畑から、耕作放棄が進んでいることがわかる(図5―3)。















表5-1 旧宇和島領沿海各地域の畑面積の変遷

表5-1 旧宇和島領沿海各地域の畑面積の変遷


図5-1 宇和海沿岸段畑地帯の耕地の増減率

図5-1 宇和海沿岸段畑地帯の耕地の増減率


図5-2 宇和島市水荷浦の段畑の景観

図5-2 宇和島市水荷浦の段畑の景観


表5-2 宇和島市水荷浦の農家戸数と耕地面積の変化

表5-2 宇和島市水荷浦の農家戸数と耕地面積の変化


図5-3 宇和島市水荷浦の段畑の土地利用の現況

図5-3 宇和島市水荷浦の段畑の土地利用の現況