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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

第一節 概説


 この地域は宇和海沿岸の中部を占め、領域内の市町村には、宇和島市・吉田町・津島町がある。いずれも宇和島市の市街地の影響を強くうけており宇和島市の都市圏に属するところである。
 人口七万余の宇和島市は南予最大の都市であり、南予の政治、経済、文化の中心地として栄えてきた。この都市は近世の初頭文禄四年(一五九五)に宇和郡の領主となった藤堂高虎が宇和島城を築き、城下町を造成したことに起源する。元和元年(一六一五)以降は伊達一〇万石の城下町として幕末に至る。市街地の大部分は第二次大戦の戦災によって焼失したが、旧城濠に規制された五角形の街路網や、鍵型の街路網などは今日に残り、市街中央にそびえる宇和島城と共に、城下町の面影を今日にとどめる。
 宇和島市は「煙突のない町」といわれているように、工業機能はあまり強くなく、商業と行政機能に特色をもつ。西日本の中心地大阪からも、県都の松山からも遠く離れた宇和島市は、工業の発達には不利であったが、周辺の農村部に対して、商業・行政機能を発揮するのにはかえって好都合であった。宇和島市の商業機能には卸売機能と小売機能がみられるが、それらの商圏はきわめて広く、卸売機能と洋品・衣服・装身具などの買回り品の小売商圏は、東宇和郡以南の南予全域と高知県の幡多郡の一部にまで及ぶ。また宇和島市には、国・県の出先機関が多く集まり、その行政機能は南予各地に及んでいる。
 宇和島市の交通は海上交通を中心に発達してきた。海路大阪への定期航路が開設されたのは明治一五年(一八八二)であったが、予讃線が宇和島まで延びてきたのは、ようやく昭和二〇年であり、南予の幹線道路である国道五六号が改良舗装されたのは、ようやく昭和四六年においてであった。交通路の発達は宇和島市の都市機能にも徐々に変革を与えている。商業機能においては、より上位の都市である松山市の機能の浸透が大きく、卸売機能や小売機能の一部を蚕食されている。
 宇和島市の北方の吉田は、吉田三万石の陣屋町である。その起源は明暦三年(一六五七)宇和島初代藩主伊達秀宗の五男宗純が一〇万石のうち三万石を分知され、吉田藩を創立し居館を吉田の地に定めたことによる。第二次大戦の戦火をまぬがれたこの町には、藩政時代の武家屋敷、商家、職人長屋などが今日も姿をとどめているが、交通の発達と共に、その都市機能を宇和島市に吸収されつつある。
 宇和島市の南方の岩松は、岩松川の河口に立地した港町で、藩政時代以降津島郷の物資の集散地として繁栄した町である。南予随一の大地主であった小西家の屋敷跡などに往時の繁栄の跡をしのぶことができる。この都市も第二次大戦後は道路交通の発達と共に、その都市機能を宇和島市に吸収されつつある。
 宇和島市を中心とした宇和海の沿岸は、「耕して天に至る」といわれた段畑耕作で全国的に有名であった。段畑の主作物は夏作の甘藷と冬作の麦であり、しま模様の段畑景観が宇和海にその影を落す姿は、南予の風物詩であった。しかしこのような段畑景観は、昭和四〇年ころからほとんど消滅してしまった。それは湾奥部の条件に恵まれた段畑がみかん園に転換され、半島部や離島などの条件の悪い耕地が耕作放棄されてしまったことによる。みかん園化は昭和三〇年代から四〇年代前半のみかんブームを反映するものであり、段畑の耕作放棄は宇和海の漁村に真珠やはまちの養殖漁業が盛んになってきたことと、過疎の進行による労力不足を反映するものである。
 この地域のみかんの産地としては吉田町が特筆される。吉田町の立間(たちま)地区は県内の栽培みかんの発祥地であり、大正初年には県内生産量の半分近くを占めていた。吉田町のみかん栽培はこの立間地区を中心に町内各地に波及し、第二次大戦後宇和海沿岸中部から南部にと広がっていた。吉田町を中心とした宇和海沿岸中部は、現在県内最大のみかん産地である。
 この地区は温暖多雨な気候条件に恵まれ、県内ではみかん栽培に最も適した地域だといえる。みかんの品種は普通温州と早生温州が多く、早生温州は温暖な気候を生かし、完熟を待たずに九月中旬に青切りみかんとして出荷するのを特色とした。普通温州も完熟が早く、みかんの九〇%は年内に京浜市場に出荷された。
 好況を誇ったみかん栽培も、昭和四〇年代の後半から曲り角にさしかかった。吉田町では出荷が年内に集中し値くずれするのを防止するのと、一一月から一二月の収穫、出荷の労力ピークを軽減するため、早生温州の割合を高めると共に、ハウスみかん・甘夏みかん・いよかん・ネーブルなどを積極的に導入し、みかんの周年出荷体制を確立しようとしている。宇和海沿岸中部のみかん産地は、吉田町のように意欲をもって変革に取り組んでいる地区がある反面、津島町や宇和島市の半島部のように、みかん栽培から撤退している地区もみられ、産地内での二極分解がすすんでいる。
 宇和海沿岸のもう一つの主産業は漁業である。宇和海は江戸時代中期には西国第一のいわし漁場であり、その漁獲物の干鰯は宇和島藩屈指の財源となっていた。いわし漁は多くの曳き子を要する網漁業の形態をとったので、宇和海沿岸の漁村には、網主―網子からなる封建的な漁村の体質や、共同体的な性格の強い漁村がみられた。そのいわし網漁業は、昭和三〇年代にはいって、いわしの不漁から急速に衰退していく。
 いわし網漁業にかわったのは真珠とはまちの養殖漁業である。真珠養殖並びにその母貝養殖が本格化したのは、昭和三二年三重県の業者が進出して以来である。リアス海岸の波静かな入江、適度の水温にめぐまれた宇和海は真珠養殖の適地であり、昭和五三年以来全国一の真珠養殖県となっている。一方、はまち養殖は昭和三四年ころ由良半島の北岸ではじまり、同四〇年ころから宇和海各地で盛んとなり、現在全国一の養殖県となっている。
 この真珠養殖・真珠母貝養殖・はまち養殖はともに、宇和島市と津島町が県下の一位と二位を占め、県内で最大の養殖漁業の海域となっている。養殖漁業の隆盛は過疎に悩んでいた漁村にUターン青年の帰還をもたらし、漁村に活気をみなぎらせている。しかし一方では、北灘湾の過密養殖に起因するはまち養殖の行きづまりにみるように、養殖漁業もまた一つの転機をむかえている。