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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

三 大野ヶ原の開拓と営農


 大野ヶ原の開拓

 四国カルストの西端にある大野ケ原は総面積七四〇ヘクタール、標高一一〇〇m余の石灰岩の高原である。明治年間まではぶななどの原生林がうっそうと茂り、その間に石灰岩の溶食された特異な地形のあるところから、麓の住民からは神秘境として恐れられていた。
 大野ヶ原は日露戦争後明治四一年(一九〇八)から四三年の間陸軍の演習場となり、久万町の落合から小田深山を経由して延々三〇㎞に及ぶ砲車道が通じており、高原の一角には二七棟の兵舎が並んでいた。大正年間には営林署の植林地となり、第二次大戦中には軍馬の放牧地にもなっていた。
 この高原は第二次大戦後緊急開拓の候補地に選ばれ、昭和二一年開拓増産隊員一五名が入山した。彼等は開拓者の養成訓練のために入山した青年であったが、うち二名を含めた七戸のものが、昭和二三年に実験農家として入植し、営農が始まる。正式な開拓地として認証されたのは昭和二五年であり、この年三〇戸の第一次入植者が入山し、開拓は本格化する。営林署から開拓地として払下げられた面積は七四〇ヘクタール、うち四三七ヘクタールが開拓対象面積とされ、入植者一二〇戸を迎え入れる計画であった。昭和二六年以降、入植者は相次いで入山し、その延戸数は一〇〇戸に達したが、あまりに苛酷な自然条件に耐えかねて、下山者も続出する。入植戸数がピークであったのは昭和三〇年の六三戸であり、その後漸減し、昭和三五年には三五戸の農家となる。以後開拓地の営農も安定してきたので戸数の変動は少なく、昭和五二年には二九戸、昭和五八年には二五戸となり、今日に至っている。

 営農の変化

 第二次大戦後に設定された緊急開拓地は、食糧増産を第一の目的としたので、どこの開拓地でも、まず自給作物の栽培がはかられる。高冷地の大野ヶ原では、米・麦・甘藷などの作物栽培は不可能であったので、開拓当初は、ひえ・きび・あわ・そば・とうもろこし・大豆・あずきなどの雑穀が自給作物として栽培された(表4―20)。しかしこれらの雑穀類も台風や霜害などの被害をたびたびこうむり、満足な収穫はできなかった。
 大野ヶ原の営農が安定化のきざしをみせはじめたのは、昭和三〇年ころ馬鈴薯と美濃早生大根が導入されて以降である。馬鈴薯は県から種馬鈴薯の産地として指定され、需要の多い男爵種が主として栽培された。昭和三三年にはその栽培面積は二〇ヘクタールにも達したが、開花期に雨が多く、やがてバイラス病が蔓延し、昭和三六年ころには衰退していく。一方、大根は高冷な気候を利用して、他地区にできない八月上旬から一〇月上旬にかけて出荷できたので、高値で販売でき、大根ブームを現出する。輸送条件の悪い時期であったので、生食用としては遠距離輸送が困難であったので、大部分は漬物用として愛媛県内各地や高知県内に出荷された。最盛期の昭和三四年ころには、その栽培面積は六〇ヘクタールにも達した。反当の粗収入も松山平野の米より高い時期があり、大根の販売収入で得た金で、電化製品や農機具を購入した農家も多かった。
 大野ヶ原が酪農業に転換したのは昭和三五年から三六年にかけてである。酪農導入を先導したのは開拓組合長の武田寛であった。彼が酪農への転換を主張したのは、大根には連作障害がつきものであり、やがて大根栽培は行きづまると考えたこと、冷涼多雨な大野ヶ原では柔かい牧草がよく成育し、酪農の適地であると考えたことなどによる。
 大根景気に酔っている開拓農民を説得して、最初に乳牛四〇頭を導入したのは昭和三四年であった。翌年さらに三〇頭を導入し、一応酪農経営の体制を整えることができた。おりしもこの時期に至って大根の連作障害が出たことから、昭和三五年から三六年にかけて、大部分の農家は経営の主体を酪農にと転換させた。

 酪農経営の発展と現状

 酪農経営の確立した当初、昭和三五年の大野ヶ原の酪農の実態を見ると、三三戸中二九戸の農家が乳牛を飼育している。乳牛頭数は成牛四〇頭・仔牛一〇頭であり、戸別の飼養頭数をみると、一頭飼育一一戸、二頭飼育一五戸、三頭飼育三戸となり、大部分の農家が一~二頭の飼養規模であった。それが昭和三九年になると、飼養戸数は二六戸で、その飼養頭数は一七〇頭となっている。戸別の飼養頭数をみると、平均六~七頭、最高は一三頭となり、経営規模が着実に拡大していることがわかる。
 大野ヶ原は広大な採草地と放牧地に恵まれ、飼料の自給率が高く、また冷涼な気候は夏季の搾乳量の低下を防止するので酪農の適地といえる。しかしその最大の隘路は市場と輸送路の確保であった。当初、生乳は明治乳業の野村工場に出荷していたが、輸送条件の悪い大野ヶ原では乳代の半分は運賃にとられる程であった。特に冬季には積雪のため道路がしばしば途絶し、三日から四日程度牛乳の出荷ができないことは、日常茶飯事であった。昭和三八年の豪雪時には四〇日間も牛乳の出荷がとだえ、大量の牛乳を廃棄せざるを得なかった。
 昭和四〇年、県内各地の酪農組合が合併し、愛媛県酪農業協同組合連合会(県酪連)が結成され、四二年事業統合し、県内の牛乳を一元集荷するようになると、大野ヶ原の牛乳も昭和四四年から県酪連によって集荷されるようになった。県酪連ではプール運賃制・プール乳価制をしき、県下の乳価と運賃を統一したので、大野ヶ原は乳価の上での不利を解消することができた。また冬季の除雪作業は県土木部がブルドーザで随時行なうようになったので、冬季に輸送路が途絶することもなくなった。
 大野ヶ原の酪農発展の上で一つの画期をなしたのは、昭和四九年から県農業開発公社が建売り牧場を建設したことである。この事業は昭和四九年から五〇年と、五一年から五二年の二回にわたって実施された。一回目の事業では五戸の農家が牧場一五ヘクタールと四〇頭搾乳牛舎五棟を建設した。一棟当たり建設費一三〇〇万円の牛舎と、一ヘクタール当たり八〇万円の牧場は、その建設費の半額が国庫負担であり、農家にはその半額で払下げられた。二回目の事業では五戸の農家が牧場一〇ヘクタールと気密サイロ四個、四〇頭搾乳牛舎三棟を建設した。第一回目と同じく半額が国庫補助で、農家には建設費の半額で払下げられた。各農家は総合資金などの融資をうけて、これらの施設の払下げをうけている。公舎牧場の牛舎はバルッククーラと搾乳機を結ぶパイプラインが縦横に走り、ウォータカップや糞尿の自然流下溝なども完備されており、県下でも最新の施設を誇る牛舎である。牛舎は増頭分の施設という名目であるが、実質的には古い牛舎をスクラップして、新しい牛舎のみを利用している農家がほとんどである。
 大野ヶ原の農家別の経営内容を昭和五一年現在でみると、酪農を主とする農家一八戸、肉用牛を飼育することを主とする農家五戸、他に、花木生産を主とする農家、大根栽培を主とする農家、カルスト牧場の牧夫、牛乳や飼料を運搬する運転手、出稼農家、退役農家がそれぞれ一戸ある。乳牛の飼養規模は成牛と育成牛を併せて二〇~五〇頭程度のものが多く、搾乳牛も一〇~二〇頭程度の農家が多い。牛乳の販売代金は年間五〇〇万円から一〇〇〇万円程度の農家が多く、その粗収入はきわめて大きいが、畜舎や農機具の更新、さらには乳牛の導入のたびに制度資金を多額に借り入れ、その償還が農業経営を圧迫している農家も多い(表4―21)。
 昭和五八年現在の乳牛飼育農家は一六戸、その飼養頭数は成牛四九七頭、育成牛一四一頭の計六三八頭となっている。飼養規模別の農家数をみると、一〇~一九頭規模一戸、二〇~二九頭規模二戸、三〇~三九頭規模三戸、四〇~四九頭規模八戸、五〇~五九頭規模二戸となっている。昭和五一年の一戸平均の飼養頭数が二九頭であったのと比べて、昭和五八年には四〇頭と増加している。昭和五八年の大野ケ原は、年間の牛乳生産量は二四七三トン、その販売代金は二・七億円と見積られており、県下最大の大規模酪農地となっている。
 しかし一方では規模拡大に伴って、借入金の増加もまた大きくなっている。昭和五八年現在の各種制度資金の借入れ額は二億二〇〇〇万円、農協からの融資や農協への未払金は二億七〇〇〇万円にも達し、大野ヶ原全体では約五億円もの借入金があるという。現在大野ヶ原の酪農を圧迫している最大のものは、この借入金の償還である。

 公共育成牧場の開発と利用

 大野ヶ原から五段高原にかけての四国カルスト、大川嶺・笠取山の山頂部には四国カルスト国営草地開発事業によって造成された五四七ヘクタールに及ぶ大規模な牧場が展開している。この牧場はパイロット方式によって開いた草地によって、粗飼料の生産基盤を強化し、わが国の畜産業の発展をはかろうとして建設されたものである。大野ケ原には、牛城(九一ヘクタール)・姫草(七一ヘクタール)・源氏ヶ駄場(三八ヘクタール)・小松(二八ヘクタール)の四小団地、あわせて二二八ヘクタールの草地が、昭和四八年から五三年にかけて造成された。また大野ヶ原の集落の一角には、二〇〇頭の収容能力をもつ越冬施設が昭和五一年に建設された。
 この牧場は県酪連が管轄し、地元畜産農家のための育成牧場として運営されている。入牧数をみると、昭和五三年三三四頭、五四年三二八頭、五五年二九一頭、五六年二八五頭、五七年二五六頭となっており、年を追ってその入牧数が減少している。昭和五七年現在の入牧牛の預託先をみると、地元の野村町は一四%にすぎず、宇和町・大洲市・宇和島市などの南予各地や、遠くは松山市・今治市・香川県からの預託牛が多い。地元の大野ヶ原からの預託牛はほとんどなく、広大な育成牧場の造成は大野ヶ原の酪農・肉牛の飼育とはあまり関係ないといえる(表4―22)。
 大野ヶ原の農家の主として利用する草地・牧場には、各個人の所有する草地、開拓組合の所有する共同牧場の二つがある。個人の草地は開拓地として分与された耕地が衣がえしたものであり、その面積は広いもので一三ヘクタール、狭いもので六ヘクタール程度である。草地には、オーチャード・チモシー・メドフェックス・レッドクローバ・ラジノクローバなどが混播され、五月中旬~七月中旬、七月中旬~九月中旬、九月中旬~一一月中旬の年間三回の採草が行なわれ、刈草はサイロに詰込まれ生草として給餌される。開拓組合の所有する共同放牧場には開拓組合の管理するものと、寺山・小松の両集落の管理するものとの両方があり、四月下旬から一一月中旬まで大野ヶ原の住民の所有する乳牛や肉牛が放牧されている。昭和五一年までは一戸の入牧頭数は一〇頭と制限されていたが翌年からは入牧数も減少したので、この制限は解除された。
 大野ヶ原の農家が、国営草地開発事業によって造成された牧場をあまり利用しないのは、このように地元農民自身が所有し、また管理する草地や牧場が多いことと関連するといえる。










表4-20 昭和35年の大野ヶ原における作物の栽培面積

表4-20 昭和35年の大野ヶ原における作物の栽培面積


表4-21 大野ヶ原の農家別の経営内容

表4-21 大野ヶ原の農家別の経営内容


表4-22 大野ヶ原育成牧場の入牧頭数

表4-22 大野ヶ原育成牧場の入牧頭数