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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

一 耕地整理と構造改善事業


 耕地整理事業の進捗

 南予最大の穀倉地帯である宇和盆地は、水田の中に碁盤目状の道路・水路が走る。その整然と区画された水田は、明治末年以降の耕地整理事業によって整備されたものである。宇和盆地の耕地整理事業は明治三八年(一九〇五)に竣工した永長(ながおさ)の三町三反歩が最初のものである。以後、明治末年から大正年間に一八集落にわたり一〇三九町歩もの水田が耕地整理された(表4―1)。永長地区は補助対象事業となった県下の耕地整理事業の嚆矢をなすものであり、宇和盆地は明治末年県下で耕地整理事業が最も盛んに実施された地区であった。
 宇和盆地に耕地整理事業が盛んに実施された要因は、湿田の多いこの地区では、農民の乾田化への要望が強かったこと、事業を推進する上ですぐれた指導者に恵まれていたことの二点が指摘される。
 宇和盆地は洪積時代の湖沼が埋積された沖積平野であり、全般的に排水不良なところが多い。なかでも盆地西方の深川流域が特に低湿であるが、これは現在も継続している盆地全体の逆傾斜運動と関連している。明治末年までの深川流域は半ば湖沼のような状態で、川ぞいには葦が繁茂し、鶴や白鷺の飛来地となっていた。付近の水田も排水不良の湿田で、農作業にはきわめて不便であった。このような状態のなかで、農民の乾田化への要望は極めて強かったといえる。
 永長地区に耕地整理事業が実施された契機は、先覚者森川智徳の努力に負う点が大きい。二八才で上宇和村の村長に就任した彼は、投下労力の割合には収穫のあがらない湿田の改良に思いを致し、県の耕地整理補助規定が出たのを機に、耕地整理事業にとり組んだ。彼は私費を投じて鹿児島までおもむき、その実施状況を研究したのち、出身地の永長地区の三町三反歩を対象に事業の実施にこぎつけた。作業は鍬とシャベルを用いての手労働であったので、予想外の難工事であったが、住民の協力のもと予定通り竣工した。
 小区画の湿田が整然と区画された乾田に姿をかえたのを見た近隣の集落では、永長の事業を参考に、こぞって耕地整理事業にとり組んだ。明治三九年(一九〇六)から同末年に至る六年間に、西山田・郷内(ごうない)・岩木・常定寺・真土(まつち)・清沢・小原・小野田・東山田・永長(第二期)・坂戸の一一集落で、次いで大正四年から同一一年の八年間に、久保・正信・上松葉・下松葉・岡山・河内・伊延東・岩木(第二期)・伊延西・信正の一〇集落で耕地整理が実施され、耕地整理事業は宇和盆地のほぼ全域をカバーするようになった。

 耕地整理の効果

 耕地整理前の宇和盆地の水田は大部分湿田であり、農作業に不便であるのみならず、土地生産性もきわめて低かった。盆地西部の岩木は集落領域の南を深川が流れ、宇和盆地のなかでも特に湿田の度合の高い水田地帯であった。特に深川の流域は深田といわれ、膝をも没する沼田状の水田であった。水田は条里地割の名残をとどめ、ほぼ一町(一〇九m)四角のブロックに区画されていたが、その内部は長地型に細長く細分され、一枚の水田は五畝から三畝程度のひも状の耕地であった。冬季湛水している水田は、膝を没する程の湿田であり、農作業にはきわめて困難が多かった。牛は荷物の運搬用や厩肥を採取するために大部分の農家で一頭飼育していたが、その牛は湿田に入れると、足が没してしまうほどで、耕起のためには使役できなかった。田植前の耕起は 「さらえ」といわれた三つぐわで一鍬ひとくわ掘り起こし、代かきもまた平ぐわで行ない、すべて人力に頼らざるを得なかった。湿田の中での耕起作業は困難をきわめ、一人役五~六畝程度が限度であった。稲刈りもまた困難をきわめた。鎌で刈り取った稲は、湿田の中のわら束にもたせかけ、これを畦畔(けいはん)にいちいち運び出した。畦畔に集められた稲束は家までとって帰られ、農家の庭先で千束で脱穀されたが、山麓にある農家から水田までは五〇〇~一五〇〇m程度もあり、運搬作業はまた苦労の種であった。三〇㎝程度の畦道を牛につけるか、おおくで荷なって運搬したが、牛はすれちがいができず、その待避のために多くの時間を要した。収穫時には午前三時ころから夜半近くまで稲束の運搬に精を出した者もいたほどであったという。
 強酸性の湿田は肥料効果が悪いのも、農民の悩みの種であった。明治末年までの肥料は背後の山地の入会採草地で採取した肥草と厩肥が主なものであったが、腐敗を促進するために毎年多量の消石灰を投入したという。
 岩木の耕地整理は明治三九年(一九〇六)と大正七年(一九一八)の二回にわけて実施された。耕地は長さ三〇間、幅一〇間の面積一反歩の長方形に区画され、その間に道路が整然と走り、道路にそう灌漑水路と排水路は一区画ごとに交互に走る。道幅は広いもので一二尺、狭いもので八尺となり、荷車の通行を可能とした。耕地整理事業の完了後、暗渠排水の工事が順次実施されていく。これは共同で敷設されたものと個人で敷設されたものの両方があるが、水田の中に溝を掘り、その中に松丸太か竹をくり抜いた樋を入れ、それをしだで被ったものである。この暗渠は排水路に通じているが、冬季には排水路のところにある木管の排水口を開いて排水をし、夏季には水田の漏水を防ぐために、逆に排水口を閉じ、水田に水を溜めた。
 耕地整理事業によって排水路が縦横に通じ、さらに各水田に暗渠排水路が通じるようになって、岩木の湿田の大部分は乾田化された。岩木の水田では、地区が三つに分かれ、それぞれの溜池から水田に灌漑しているが、耕地整理によって乾田化されてからは、水の使用量が多くなり、夏季の灌漑期間中は、それぞれの水がかりごとに二人づつの水番がついて、各水田に灌水をしてまわっている。それでも水不足は深刻であったので、昭和四二年の旱魃後、各溜池には深川の水をポンプアップして、不足する灌漑水を補っている。
 乾田化した水田は作業能率を飛躍的に向上させた。岩木で牛に犂を引かせて耕起が行なわれるようになったのは、耕地整理後である。また乾田化は裏作をも可能にし、冬作に麦やなたね、あるいは緑肥のれんげの栽培される水田も見られるようになった。また乾田化は肥料効果を高め、消石灰の投入を不要とした。土地生産性も著しく向上し、従来反当四~五俵程度であった稲の収量は、八~九俵程度に倍増した。

 農業構造改善事業の実施

 宇和町の第二次大戦後の耕地の基盤整備は、農業構造改善事業の一環として実施される。昭和三六年に始まる第一次農業構造改善事業では、伊賀上地区がその対象地区に指定された。この地区では同三八年事業指定、工事は翌三九年から四二年にかけての四年間実施され、五〇・一ヘクタールの圃場が整備された。続いて同四六年に始まる第二次農業構造改善事業では、上宇和地区と龍王地区の併せて九三・五ヘクタールの圃場が整備された。さらに続いて同五三年に始まる新農業構造改善事業では、伊野窪地区(旧田之筋村)の二七・一ヘクタールの圃場が整備された。宇和町は三回にわたる構造改善事業で整備された圃場面積は一七〇・七ヘクタールに達し、県下の水田地帯では、圃場整備のよく推進された地域といえる。
 農業構造改善事業による圃場整備事業が、明治・大正年間に実施された耕地整理事業と異なる点は、圃場整備が地域の農業構造改善の一環として行なわれ、単なる圃場の整備事業のみに終始しなかった点である。三回にわたる構造改善事業では、圃場整備と同時に農業機械の導入がはかられ、協業経営の推進などがはかられている。

 神野久地区の構造改善事業

 宇和町の中心市街地卯之町の西方には、神領・別所・野田・小野田・久枝の五集落が点在する。このうち小野田地区の三六ヘクタールには、明治四三年から大正四年にかけて耕地整理が実施されていたが、他の四集落は耕地整理が未実施であり、不規則で小規模な湿田が展開していた。加えて、地区の中心を西から東に流れる根笹川は、低湿地をくねくねと蛇行して流れ、排水不良でしばしば水害をひきおこした。
 宇和盆地の大部分の地区では、明治末年から大正年間にかけて耕地整理がなされ、さらに第一次農業構造改善事業で、町内の伊賀上地区に美事な圃場整備が完了するに及んで、これら五集落の地区では、圃場整備の機運が急速に盛り上ってくる。この地区では根笹川の改修工事と圃場整備が一体となって行なわれた。第二次構造改善事業の受け入れ機関として、五集落の頭文字をとった神野久土地改良区が結成されたが、事業費の関係で、根笹川の北岸上宇和地区―小野田・久枝―と、南岸の竜王地区―神領・別所・野田―に分けて事業は実施された。
 上宇和地区の指定は昭和四六年、事業は翌四七年から五〇年にかけて実施され、四四・九ヘクタールの耕地が整備され、近代化事業として、トラクターやコンバインの大型農機具の導入、さらには酪農団地の造成もなされた。一方、竜王地区の指定は昭和四七年、事業は翌四八年から五一年の間に実施され、四八・六ヘクタールの圃場が整備され、近代化事業として、トラクターや田植機などが導入された(表4―2)。

 構造改善事業と農業の変貌

 神野久地区は農業構造改善事業を実施することによって、圃場整備がなされ、大型機械の導入がはかられ、畜産の協業経営体として小野田牧場が生まれた。また宇和町全体の施設として、この事業を活用して稲の育苗施設やライスセンター・茶加工施設なども、地区内に建設された。
 構造改善事業を実施する以前の神野久地区の水田は、平均五アールの広さにしかすぎない不整形な耕地であった。しかも水田の半ばは湿田の度合が大きく、裏作は不可能であった。構造改善事業はこのように小規模で不整形な湿田を、三〇アールの広さの長方形の整然とした耕地に整備した。このような大型圃場で大型機械を駆使して農業を行なうために、トラクター・コンバイン・田植機などの導入がはかられたが、その管理運営の機関としては、上宇和地区機械化組合と竜王地区機械化組合が結成された。機械化組合には神野久地区の農家の大部分が加入しており、専属のオペレータが作業受託によって地区内兼業農家の耕耘・代かき・田植・稲刈りなどを行なっている。大型圃場の出現と機械化組合による大型機械の導入は、稲作の省力化を推進すると共に、農家の農機具購入への過剰投資を抑制しているといえる。
 水田の乾田化と機械化農業の推進は地区内の土地利用の多角化を推進している。耕地面積の八五%が水田であったこの地区は、従前は水稲の単作地帯といえるような状態であった。耕地の乾田化は水田に水稲以外の作物の栽培を可能にし、農業の機械化に伴う余剰労力の存在は、夏作のたばこや露地野菜、冬作の飼料作物やレタス・ハウスいちごの栽培などを推進している。これらの作物は米の生産調整の一環として栽培されているものも多いが、たばこや飼料作物は専業農家が期間借地によって兼業農家の耕地を借りて栽培しているものが多い。
 圃場整備の推進は、地区内の農家間で耕地の貸借を盛んにしているといえる。小規模な不整形の耕地では機械化農業も困難であるので、農地の借り手も少なかったが、耕地が整備されるにつれて農地の貸借が盛んになってきた。農地の貸し手は兼業農家であり、借り手は大型機械を駆使する専業農家である。この場合農地の貸借は、制度的には昭和五〇年に創設された農用地利用増進事業を活用している。契約期間性三~六年程度となっているが、後継者の不在な農家や第二種兼業農家は、農地の所有権を確保した上で、その耕作権のみを専業農家に移譲し脱農化している。一方、労力と機械に恵まれた専業農家は、借地を増加することによって、農業経営の規模拡大をはかっている。圃場整備の推進は、農地の貸借を促進する形において、地区内の農家の農業経営の両極分解を推進しているといえる。









表4-1 宇和盆地の耕地整理

表4-1 宇和盆地の耕地整理


表4-2 宇和町神野久地区の農業構造改善事業実施概要

表4-2 宇和町神野久地区の農業構造改善事業実施概要