データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

一 商業都市八幡浜の形成と発達


 西四国の玄関

 八幡浜市は愛媛県の西部、佐田岬半島の付け根に位置し、総面積の五四%が林野、二一%が向灘・真穴地区を中心とする温州みかんの果樹園で、田と畑は各一%にすぎない。市街は八幡浜湾に注ぐ新川(千丈川・五反田川)の狭い沖積地に開け、近世以降、河口周辺の湾頭が埋め立てられ西に延びている。明治期から大正期にかけて、南予における九州、大阪方面への西の玄関としての地位を築き、商業・交通の中心地となり、明治三四年(一九〇一)には県下初の商業学校も設立されている。
 市域の温州みかんは、その質・量において全国に知られる一方、沖合トロール漁業の基地としても知られる。昭和五五年の産業別人口をみると、卸・小売業の二四%をトップに、農業二一%、サービス業一八%、かまぼこなどの水産加工中心の製造業一五%と続き、今日なお商業都市的性格が強い。県都松山市とは国鉄予讃本線および国道一九七号・五六号によって結ばれるほか、九州の別府・臼杵との間には一、二千トン級のフェリーボートが就航し、農水産物を中心とする物資輸送の大動脈となっており、西四国の玄関としての機能を果たしている。

 江戸期の産業と八幡浜の発展

 藩政時代には穴井・向灘を中心にいわし漁が盛んであった。穴井沖合の大島は寛文九年(一六六九)穴井の庄屋井上五助により開拓された漁業集落で、その近海は宇和海でも屈指のいわしの好漁場であった。その海域で漁獲されたいわしの加工品である干鰯、鰯粕の製造および販売の拠点として八幡浜は、その商業都市的萌芽をみせた。一方、五反田縞で知られる織物は、文政一〇年(一八二七)布喜川村庄屋摂津八郎が、松山方面から高機を導入し、孫の藤一郎の代に(明治九年ころ)綿織物をはじめた。これが近隣に普及し明治二〇年(一八八七)には、県木綿生産高の六六%を占め五反田縞と称せられるようになった。
 海運で栄えていた雨井(保内町)を近くに控え、矢野組の物資集散地であった八幡浜浦は、藩の殖産興業政策もあって幕末には長崎・大阪方面との交易地として、本町を中心に賑いをみせていた。幕末からの長崎・大阪方面との交易は、明治八年(一八七五)菊池清治により外輪船八幡丸(三五〇トン)が建造され、近代的海運業に発展した。明治一七年(一八八四)の県下各港の輸出入額では八幡浜港は七五・六万円で最高位にある。維新以降、五反田周辺での綿織物業の発達につれ、綿糸・綿布の取り引きを通して商業地として発展し、明治二〇年(一八八七)ころから大正初期には本町・たんぼ町・船場通を中心に呉服、綿糸・綿布、薬種などおよそ四〇の卸商が軒を連ね、大正六年(一九一七)には県下初の繭市場が開設されている。当時の商圏は南は高知県宿毛、西は九州の大分・宮崎におよび、県下最大の商都として「伊予の大阪」と呼ばれた。

 埋め立てによる市街地の拡大

 埋め立てによる町並みの整備は宝暦期ころから始まり、浅井新田(現千代田町一帯)は宝暦四年(一七五四)、庄屋浅井市十郎が千丈川河口を埋め立てたものである。文久二年(一八六二)の「予州宇和島矢野組六ヶ所之図」では本町・矢野町・たんぼ町・須加町・浜町・下道・船場などの市街が形成され、慶応二年(一八六六)の『愛媛面影』には船場付近を囲む船溜りを中心に商家の建ち並ぶ八幡浜が描かれている(図3―16)。また、元治~明治初期の本町以下各町には兼屋・大黒屋(野本)・須賀屋(菊池)・近江屋など豪商の名が見える。
 商業の発達につれ埋め立てによる市街地の拡大が図られ、江戸期以来西方、八幡浜湾頭へ延びていった。明治六年(一八七三)、八幡浜商会により現在の新町・港町の一帯七〇八九坪の海面、遠浅が埋め立てられて以来、明治期に四万九三七八坪、大正期一万三五八坪、昭和にはいり三万二三二八坪が埋め立てられ、商店街も本町・たんぼ町から新町へ移動した(表3―41・図3―17)。
 明治期の埋め立ては大商人によるものが多く、その屋号が今日、大黒町・近江屋町など町名として残っている。

図3-16 慶応2年(1866)編集の「愛媛面影」にみられる八幡浜港

図3-16 慶応2年(1866)編集の「愛媛面影」にみられる八幡浜港


表3-41 八幡浜市の埋め立て事業の推移

表3-41 八幡浜市の埋め立て事業の推移


図3-17 八幡浜市の埋め立て事業

図3-17 八幡浜市の埋め立て事業