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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

三 繊維工業(八幡浜地方の織物)


 八幡浜綿織物の起源

 八幡浜地方の機業の起源は文政一〇年(一八二七)布喜川村の庄屋摂津八郎が当地方の木綿織物が地の厚い不完全なものであるのをみて、松山地方で使われている高機を購入し、織女二名を雇い入れたのに始まるといわれている。当時、当地方にはすでに地機があったが、摂津の勧誘によって新たに機業をはじめる者が七、八人におよび糸入縞と称する絹綿交織を織った。絹の光沢と綿の持ち味が程よく調和し、一般に好評であった。天保年間(一八三〇~四三)には宇和島藩主より賞詞を受け、伊達家を通して江戸へ製品が送られ、なお一層の名声を高めたといわれている。染色技術は天保五年(一八三四)谷口文六が阿波より葉藍の種子を持ち帰り、同九年(一八三八)河野六兵衛が苦心の末、葉藍の床付けに成功し、菊池豊治が絞り染を初めて創作して斯業を振興したといわれている。

 明治期の発展

 明治初年には周防の柳井縞を仕入れ、九州地方へ売りさばいていた穴井の綿布商三好徳三郎が、事業家に綿織物業が有利であることを説き、自分でも率先して機屋を営んだ。自ら先進地へ行って調査研究した結果を実際に応用し、品質の向上に努めた。こうして宇和木綿の声価は高まり、主として九州地方からの需要がふえ、真穴・二木生では木綿縞業者が、神山・千丈では絹綿交織・木綿縞及び絣の生産業者がふえた。なお、地元の合田商人のほか神山・舌間の行商人、温泉郡睦月島の行商人が九州方面に売り歩いて八幡浜織物の名を広めた。
 明治一〇年(一八七七)の西南戦争、同二八年(一八九五)の日清戦争、同三八年(一九〇五)の日露戦争とその都度、戦争特需で好景気にわいたが、その反動による粗製乱造や不況の深刻化もくり返しみられた。そこで、同二二年には布行寛や三好徳三郎らが織物改良組合を設置し、織物の改良、紡績の研究、品質の向上への努力などがはかられた。また、同三七年には織物業同業組合が創設され、菊池竹三郎が理事長となって不況を打開すべく努力がみられた。さらに、先進地が家内工業から工場経営に転換しているのに気付いた岡田虎三郎が、明治四二年(一九〇九)初めて広巾力織機五〇台を購入したのに刺激され、同業者の中にも次々力織機を据えつけるものがでてきた。また、同年共同組織による染色工場が設立された。
 なお、明治期に創業された大企業としては、明治二〇年(一八八七)に川之石に有限責任宇和紡績が、さらに同二九年には八幡浜の菊池五平により八幡浜紡績が生まれた。これは昭和四年に三瓶に移った敷島紡績の前身の近江帆布である。
 八幡浜地方の織物工業界は明治三一年にバッタン機を導入普及し、同三三年に小巾力織機を採用したので一躍年産九〇万反に上った。三五年には豊田式力織機を入れ、明治三九~四二年には年産一〇〇万反を突破している(表3―19・20)。

 大正~昭和初期

 大正七年(一九一八)初めて輸出向けとして大正布を製織、神戸の一貿易商により南洋方面に輸出した。ところが、マンチェスター製「縞リンネル」が需要地の好みに適していたので、代用品として縞三綾を製織したところ現地で評判が非常によくなり、大正布より縞三綾に転換し、これの製織に全力を尽くした。
 昭和四年の恐慌により為替相場が暴落し、平常でも安いわが国の綿製品は為替低落の波に乗り、アジア地方はもちろん、遠くアフリカ・ヨーロッパ・中南米にまでその販路が拡張されるようになった。この機に乗じ、当地方は輸出に八割方転換し、主として南洋方面での需要の旺盛な縞三綾の生産に全力を尽くした。
 昭和一二年支那事変の勃発を契機として、一般産業は軍需工業優先に傾き、平和産業は圧縮され統制を受けるようになった。当時綿業界は統制という新たな試練に直面したが、当地方は国策として南進政策が叫ばれ縞三綾・ギンガム・サロンなどが大量に輸出され、一三年には今までにない生産高を記録した。しかしその後、国際情勢が悪化するにつれ棉花の入手が困難になり、統制経済となった。当地でも南予全体を総合して南予織物組合を設立し、転廃業者を募った。整備前の工場数二八(転廃工場一六)、広巾織機三四〇七台(同一七五〇台)、小巾鉄製織機一七四台(同一三〇台)、半木八九台(同六三台)であった。
 ところで、八幡浜地方の織物の発展は酒六をぬきに語れない。酒六は本県ではもちろん全国一の大規模な綿布工場であった。八幡浜の矢野町は五反田縞の機業の発祥地であるが、酒六の創始者酒井六十郎は、この地に明治二一年(一八八八)独力で早川式足踏織機一〇数台をもって正藍縞・織紺などを作った。品質第一主義で優良品を出し、酒井縞の名で九州一円に売った。大正二年(一九一三)に力織機を入れ、昭和三年には輸出綿布に先鞭をつけた。同四年には三瓶に織布工場を、同七年には向灘に八幡浜織布工場、同八年には八代織布工場と日土タオル工場を、さらに一四年には生糸に手を出し卯之町に宇和製糸工場を始め、また同年五反田織布工場を興した。一六年には八幡浜染色工場と内子に酒六酒造工場を、一八年には川上工場と穴井工場を吸収し、同年古町織布工場を靴下工場に転換した。一九年には一時広海軍第一一航空廠工場に転業して敗戦となった。

 戦後の復興

 酒六は昭和二二年、いち早く復元し織機の修理工場を栗之浦に作り、同年酒六活版所と松柏織布ギンガム工場を始めた。二八年には鐘紡の神山製糸工場を買収するなど施設の増加拡充と多角的企業化に努めた。宇和海沿岸は交通不便なのに織物業が発達した要因は、山頂まで耕す段々畑地域の南予人の勤勉さによるところが大である。
 現在の酒六の生産活動は、織布・タオル・生糸の三部門に分かれる。織布部門は向灘の本社工場が担当し、年生産額は約二〇億円(五六年)で、ダウン地やコート用などの外衣用地が主力製品で約九五〇人の従業員と五〇〇台を超す新鋭織機が三交代制でフル稼動している。タオル部門は日土工場で分担している。昭和八年の買収当時は浴巾の生産が主だったが、現在は、ジャガード機械約一〇〇台を備える新鋭工場である。従業員は一二五人で、年生産額は約一五億円である。酒六のタオル生産の特徴は、紋紙・捺染、加工などは今治の企業に外注している半面、商品開発・企画は独自に行なっていることにあり、したがって販売も一品種一問屋を原則とした独自ルートによっている。なお、生糸部門は熊本県の甲佐工場で担当している。
 八幡浜市の織物業界は空襲を受けなかったために最小限の被害にとどまった。当時の残存工場一二、残存織機広巾一六五七台、小巾七〇台であった。衣料品の絶対不足、輸入食糧の輸出見返り物資としての綿製品の生産増大は、占領政策の重要問題となり、二一年四月には早くも輸出綿布の生産再開、翌二二年八月広海軍第一一航空廠の酒六への復元に始まって、拡張、増設、復元、新規開業と続出し、二四年までに戦前の盛況を取り戻し「ガチャ萬時代」を謳歌した。その後は生産過剰、ダンピング、設備の制限、休機による生産制限、過剰織機の処理のくり返しで今日にまでいたっている(表3―21)。

 八幡浜市の縫製業

 愛媛県の縫製業は今治地方で明治二八年(一八九五)、綿ネルメーカーの興業舎が縫製部をつくって足踏ミシン一五台で、自社生産の織物の端切れ品で農村向けシャツ・パッチなどを生産して販売したのがはじまりである。その後も本県の縫製業は今治地方を中心に発展した。大正の末ころには、足踏ミシンが動力ミシンに切り換えられ、昭和初年には独立した縫製工場が一五工場程度、そのほか、動力ミシンが五~一〇台の家内工業的な下請工場が約一〇〇工場あった。
 八幡浜市における縫製業は、大正末期に八幡浜織布に丸八縫製部ができ、台湾へ製品を販売したのが始まりである。その後昭和一一年ころ五反田に井上繁行が動力ミシン約一〇台、従業員二〇人で縫製事業を始めた。それを一四年に八幡浜織物工業組合縫製部が買収し、従業員六〇人、ミシン五〇台で企業として縫製を始めた。一七年には南予布帛工業所が創立され(代表山本嘉三郎)、ミシン一六〇台、従業員二〇〇名で縫製品の製造を行なった。戦後は、県内では二八、九年ころから一ドルブラウスをはじめとして輸出品の生産が増加し、順調に出荷額を伸ばした。南予布帛工業所では三二年には内地向け製造販売を廃止し、輸出縫製品の専業となった。三〇年代後半からは縫製業の中心地今治地方では労働力不足が起こり、四〇年代にかけて低賃金と余剰労働力をねらって南予地方へ工場を移したり、分工場をおく業者も増加した。しかし、四六年以降はたび重なる円の切上げにより輸出縫製業は大きな打撃を受け、現在は輸出縫製業者の大半は内需へ転換を図っている。
 なお、南予布帛は、四六年に構造改善事業により新工場を建設し、南予布帛大洲工場を吸収合併し、社名を四国ソーイングに改め(代表山本巌)、現在は従業員三六〇名で高級婦人服やYシャツ製造に主力をおいている。しかも同社は従業員規模が八人から一三〇人に及ぶ協力工場を八幡浜市内をはじめ周辺の三瓶・伊方・明浜・城辺・野村・宇和島・大洲の八市町に一六もち、従業者合わせて三七八人を数えている。このような労働集約的な縫製業が、小規模ながら、南予地方の農山漁村の集落のなかにまで立地し、雇用の安定と所得収入に寄与している例は多い。しばしば、統廃合された小学校跡が工場に変わっている。
 八幡浜市内の縫製・織物、その他の繊維工業をみると(表3―22)二二工場にもおよび、出荷額では食料品についで多い。

 三瓶町の繊維工業

 三瓶町の繊維工業は明治の初めに垣生に導入された木綿織に始まる。明治末には絹との交織もされ、垣生縞・朝立縞の名で知られ、九州から北海道にまで出荷されて、年産二〇万反にも及んだ。明治四〇年ごろから豊田式自動織機が導入され、それまでの手織りは衰退した。
 大正三年(一九一四)には八幡浜市五反田の菊池政太郎が二及に織布工場を創業し、織物工場の先駆をなした。また、大正八年(一九一九)朝立の縞屋四人が共同出資で三瓶織布(株)を設立し、三瓶縞の復活をはかった。しかし、同九年の不況、同一二年(一九二三)の関東大震災の余波で営業がゆきづまり、昭和四年に八幡浜の酒六傘下の入山綿布として再出発した。戦後の二一年に酒六に合併し(当時の従業員二四〇名)、五二年末まで操業を続けた。
 現在の喜福工業の前身は、昭和五年創業の近江帆布である。この誘致は紡績工業の立地条件である工業用水の水質・水量が適すること、運輸面で良港があり船舶の便がよく、女子工員の雇用ができやすいことなどによった。昭和八年、近江帆布は朝日紡績となり、従業員一四三〇名で県下では川之江の富士紡績、北条の倉敷紡績につぐ規模をほこった(五・五万錘)。戦時下の昭和一九年、朝日紡績は、敷島紡績に併合され、敷島紡績三瓶工場となった。戦後は、スフとの混紡や化繊の混紡へと製品に変化がみられた。糸ヘン景気の後退にともなって、三五年敷島紡績は三瓶工場の閉鎖を断行した。その後をうけて、三六年からは大阪堺市の喜福工業の全額出資による伊予紡績として操業を開始した。そして、五二年三月に、喜福工業と合併し、喜福工業伊予工場として規模は縮小されたものの、従業員三一七名で順調な操業を続けている。
 昭和四〇年代には、三瓶町にも労働力を求めて多くの縫製工場が設立され、現在一九にも及んでいる。従業員は四七三人に達し、年産約七億円で、地域経済への影響力は大である(表3―23)。

 保内・伊方の繊維工業

 保内町の工業は、明治・大正・昭和の三代にわたり紡績業によってささえられてきた。明治二二年(一八八九)、四国最初の紡績会社である宇和紡績会社が川之石に設立され(二〇〇〇錘・織機二台で出発)、その後、白石紡績所(明治三八年)、大阪紡績会社川之石工場(明治四〇年)と受け継がれた。
 大正三年(一九一四)三月、大阪紡績(株)と三重紡績(株)の合併が実現し、わが国最大の紡績会社、東洋紡績(株)が誕生した。同時に大阪紡績が経営中であった工場は、東洋紡績川之石工場となった。当時の設備状況をみると、精紡機三・五万錘、織機三〇〇台を備えていた。この年、川之石村は町制をしいたが、これは同工場に働くため九州・中国地方から多数の女工員が来て寄宿舎にはいり人口が急増したためである。昭和三年ころが最盛期で精紡機三万三四五六錘、織機五七〇台を施設し、従業員は女工一七五八名、男工六二二名合計二三八〇名であった。戦後の二七年の設備は、精紡機二・八万錘、撚糸機四〇〇錘、織機六二六台で、従業員は七四四人であった。三三年ころから紡績業界が不振となり、操業を短縮しながら赤字操業を続けていたが、ついに三五年九月、東紡本社の経営合理化方針により川之石工場は閉鎖された(表3―24)。東紡跡地は保内中学校や松下寿電子の下請会社の中予電気となっている。
 保内町は、世界有数の蚕種産地として著名なイタリアのアスコリに自然条件が似ていて良質の桑が得られ、優良な蚕が育成できたため蚕種業と製糸業が盛んであった。蚕種業では、明治一七年(一八八四)創業の愛媛蚕種は、今なお県下各地の二〇〇〇戸におよぶ養蚕農家に優秀な蚕種を提供している。製糸業には、伊予製糸(明治二五年創業)、喜須木製糸(明治二九年)、青石製糸(明治一九年)、宮内組合製糸(昭和五年)などがあったが、最後まであった宮内組合製糸も昭和三六年に閉鎖され、今は明治時代の面影はない。
 縫製業は、昭和三〇年代以後、六工場の立地をみているが、いずれも小規模でメリヤス製品や婦人・子供服などの縫製である。
 伊方町の繊維工業は、昭和三〇年代から豊富な婦女子の労働力を求めて立地した縫製業に代表される(表3―25)。一七工場のうち、一五工場が従業員二〇人未満の小零細工場である。町内各地に分散し、下請加工や国内向け下級品の縫製が中心である。

















表3-19 西宇和地方の織物統計

表3-19 西宇和地方の織物統計


表3-20 西宇和地方の織物製造戸数

表3-20 西宇和地方の織物製造戸数


表3-21 八幡浜織物の歩み

表3-21 八幡浜織物の歩み


表3-22 八幡浜市の繊維工業

表3-22 八幡浜市の繊維工業


表3-23 三瓶町の繊維工業

表3-23 三瓶町の繊維工業


表3-24 東洋紡績川之石工場年譜

表3-24 東洋紡績川之石工場年譜


表3-25 伊方町の繊維工業

表3-25 伊方町の繊維工業