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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

一 八幡浜市の水産加工


 水産加工と練り製品

 水産加工製品には素干し・塩干・煮干し・節類(かつお節など)・練り製品・冷凍食品・魚油・餌肥料・焼味つけのりなどがあり、愛媛県における五七年の総生産量は五万八七七四トンで全国の九・四%を占めている。これらの水産加工製品のうち、全国比が最も高いのは煮干しの八・一%で、次いで節類六・六%、冷凍食品四・五%である。練り製品の生産は一万五〇八一トンで総生産量の二五・七%を占め第一位であるが、全国比はわずか一・八%にすぎない。練り製品はやきちくわ、かまぼこ類・あげかまぼこ、魚肉ハム・ソーセージなどに細分されるが、愛媛県ではかまぼこ類の生産が六一七三トンで最も多く、練り製品の四〇・九%を占める。次いであげかまぼこ(四五一六トン)、やきちくわ(二九八四トン)の順で、魚肉ハム・ソーセージは一三七二トンと少ない(図3―10)。
 愛媛県で盛んな水産練り製品はわが国固有の加工食品で、文献によると平安時代にすでに宴会料理として用いられていたという。練り製品のはじめはかまぼこで、伝説によると神功皇后が三韓征伐の途中、生田(神戸市)の杜で魚のすりつぶしたものを鉾の先につけて焼いて食用にしたのがその起源であるといわれる。平安時代の加工法は竹の管に魚のすりみを塗って焼いたもので、その形が植物の蒲の穂に似ていることから「蒲穂子(がまほこ)」とよばれ、のち蒲鉾と書かれ、それがかまぼこと読まれるようになった。室町時代になると板付かまぼこが出現し、はじめは焼きかまぼこであったが、江戸時代には蒸しかまぼこや湯煮かまぼこが考案された。このころになると蒲鉾は板付かまぼこをさすようになり、竹の管に塗ったものは竹輪とよばれて区別された。また油で加工する揚げかまぼこは江戸時代末期に始まるが、これは琉球(現沖縄県)から薩摩(現鹿児島県)に伝わって広がったもので、関東ではさつまあげ、関西ではてんぷらとよばれる。
 明治時代中期に、肉を小さくミンチする肉挽機が輸入され、同三五年(一九〇二)にはミンチした肉をすりつぶす動力擂潰機が発明された。また昭和一〇年には採肉機が発明され、戦後はかまぼこ成型機や脱水機などが導入されて機械化が進み、生産量も飛躍的に増加した。魚肉を原料とするこれらの練り製品加工業は全国各地に立地し、それぞれの地域の地場産業として発展した。県内では宇和島・八幡浜・松山・今治の四地区が生産地で、地域によって原料魚が異なるため味にも地域差があり、地域の特産品と称されるものも出現した。しかし昭和三五年にすけとうだらを原料とした冷凍すりみの製法が開発されると、練り製品の原料として冷凍すりみの使用量が年々増加してきた。その結果、原料が均質化したため製品の地域的特色は薄れたが、練り製品は大衆食品として広く普及しており、一部のかまぼこのような贈答用高級品もみられる。五〇年の水産練り製品生産額は約六二億円で、これは造船(一八〇〇億円)、農業機械(七〇〇億円)、タオル(四八〇億円)などに比べると少ないが、はまち養殖(二〇〇億円)、削り節(一八〇億円)に次いで地場産業部門の第七位を占める。また県内の食料品製造業の生産額一四二三億円のうち第一位が水産食料品の三一〇億円で、このうち水産練り製品は削り節に次ぐ生産額をあげている。

 八幡浜かまぼこの発達

 八幡浜市の水産加工を業種別にみると練り製品業者が主体で、三九年には実経営体数七六のうち四〇を占め、四八年には同四五のうち三一が練り製品業者である。宇和海一帯の特産品とされた素乾し・煮干し業者は八幡浜市においてはそれぞれ四二年・四六年に姿を消し、代わって新しい業種である冷凍業者が四五年に出現している。二四年当時、八幡浜における練り製品三〇万貫のうち、かまぼこが五〇%、てんぷら三五%、ちくわその他が一五%であった。また四六年の製品別売上高をみてもかまぼこが五五・八%、ちくわ二〇・九%、あげもの類二三・三%で、八幡浜の練り製品はかまぼこが主体となっている。
 八幡浜かまぼこの元祖は鈴間屋商会の鈴木峰治郎といわれる。鈴木は八幡浜が天然の良港で魚類の集散地であることを知り、明治二三年(一八九〇)宇和島から八幡浜に移り、人びとにかまぼこの製造法を教えたという。また自ら第一線に立って販路の拡張と宣伝に努め、同三一年(一八九八)にはかまぼこを罐詰にしてアメリカ合衆国へ輸出した。こうした先覚者の努力もあるが、八幡浜の水産練り製品製造業が発展した背景には、大正末期に当地が機船底びき網漁業(トロール漁業)の基地となり、かまぼこに適したえそ・ぐちなどの原料魚が比較的豊富に得られたことが大きな要因となっている。
 八幡浜にトロール漁法が導入されたのは明治四〇年(一九〇七)ごろで、向灘の井上清吉が石炭を燃料とするトロール船を下関から導入した。この時は二年で失敗したがその後しだいに普及し、大正七年(一九一六)真穴の柳沢秋三郎によって定着したといわれる。現在みられる八幡浜のトロール漁業は中型沖合底びき網漁業とよばれる二そうびきのトロールで、毎年九月から四月末までの八か月間、鹿児島沖から徳島沖にかけての太平洋南区を漁場に操業している。主な漁獲物は沿岸ものとよばれるたい・かれい・いか・あじ・かわはぎ・えそなどで百種類以上に及ぶ。現在八幡浜港を母港として九統一八隻(一統休業)が豊後水道などへ五日から七日の期間で出漁している。二四年の八幡浜におけるかまぼこ生産高は二万五〇〇〇貫であったが、そのうちトロール漁業の出漁期間中のものが二万一〇〇〇貫で八四%を占め、かまぼこ製造がトロール漁業に大きく依存していることがうかがわれる。
 この中型トロール船による総水揚げ量は五五年には一万六五〇〇トンであるが、そのうち練り製品原料の水揚げ量は四〇年代後半から減少の一途をたどっている(表3―15)。その結果総水揚量に対する原料魚の比率も、四四年の四六・七%をピークに急激に減少している。これは、一つには原料魚の資源枯渇によるが、また一方ではすけとうだらの冷凍すりみの普及も大きく原因している。すなわち、練り製品原料における冷凍すりみの普及により原料魚の需要が減退し、そのため原料魚の市場価格が低迷した(表3―15)。原料魚の価格低迷に比べ、鮮魚全体の価格は四〇年代の一〇年間に三~四倍に上昇しており、漁業者の漁獲対象が惣菜物の魚に向けられたため原料魚の水揚げが減少したといわれる。
 練り製品の原料魚の条件は、肉質が白く加熱すると弾力のでるものがよく、えそ・ぐち・はも・かれいなどが適している。高級品を主とする業者はえそ・ぐち・とらはぜなどを主な原料魚とし、大衆品を主とする業者ではぐち・かながしら・たちうおなどが多い。また原料魚は漁獲量、漁獲時期、価格などによっても相当の変動がある。八幡浜市における原料魚の歩留率は三〇~四〇%であるが、えそを主体としている企業の中には七〇%と高い歩留率をもつ企業もあり、えその原料魚としての有利さがあらわれている。三五年以降は冷凍すりみが急激に普及し、現在ではわが国全体の練り製品原料の七〇%を占めている。その主なものはトロール漁業や母船式底びき網漁業による洋上すりみで、五〇年には練り製品原料全体の三二・三%を占めていた。次いで底びき漁業・刺網漁業・延縄漁業による陸上すりみが二四・六%である。この冷凍すりみに対し近海魚の原料比率は二〇・五%にすぎないが、この比率は産地や業者によってかなり差がある。八幡浜市の場合は県内の代表的な漁港で鮮魚の水揚げ量が大きいこともあり、冷凍すりみの使用割合は二四%と少ない。このように当地の練り製品は鮮魚を主体としているという特色をもっているが、冷凍すりみの使用割合が最も低い業者で二%、最も高い業者で四〇%である。
 
 かまぼこ業者

 八幡浜のかまぼこ業者は戦前には八二軒あったが、戦時中に企業整備で四軒の有限会社に統合された。戦後は一時期一二〇軒に増加したが、二五年には六一工場、組合員七三名であった。その後、機械生産の発達に伴い資本合同が進み、八水蒲鉾・八生蒲鉾が設立されて生産のオートメーション化が進んだ。三七年にはこれらの工場制工業のほか、従業員一〇名程度の中小工場が三四工場あった(図3―11)。これらはほぼ市街地全域に点在するが、特に大黒町・矢野町などの繁華街に多い。これは、経営規模が小さく小売りや仲買人を相手とした販売形態に最も適していたことによる。これらの企業のほとんどが経営者自ら現場作業の中心となって働いており、従業員九人以下の零細企業では家族従業員の比重がきわめて高い。工場の敷地面積でみても二〇〇㎡以下の企業が七五%を占め、繁華街の中に立地しているため拡張の余地のない企業が多い。また経営者がしだいに高齢化しており、その若返りが望まれるとともに、従業員の確保や技術者不足への対策が課題である。人手不足はかまぼこ製造業の宿命的な隘路といわれ、長時間労働や魚臭、低賃金など労働条件に恵まれない面が多い。そのため高度経済成長期には他の多くの業種で雇用機会が大幅に増大したため、かまぼこ製造業は特に若年労働者に敬遠された。企業の大半が家族労働中心でまかなわれている背景にはこうした事情があり、一部大手メーカーでも人手の中心は五〇~六〇歳の女性従業員となっている。しかし最近は人口のUターン現象の高まりとともに、若手労働者の地場産業に対する認識が変わってきており、新卒者の職場への定着が進んでいる。その反面では、零細企業の中にかまぼこ経営に見切りをつけるものもあり、従来から「かたい商売」といわれていたこの業界の魅力にかげりがでているともいわれる。
 企業の経営内容をみると、売上規模の大きい企業ではかまぼこを主力商品とするものが多く、売上規模が平均以下の企業ではあげもの類やちくわの占める比率が高い。これは、後者の場合は販売地域や販売経路、客層などが固定し限定されているので、一製品を主力として販売することがむつかしいためと考えられる。またかまぼこ製造業では、原料魚の仕入れや製品の日もちの関係から注文生産中心の企業が多く、見込み生産を行なう企業でも固定客や一日の販売可能量を経験的に把握して生産している。かまぼこは季節商品としての性格が強く、六月から八月にかけての夏場に需要が減少するので、夏場の売上不振にどう対処するかが課題である。
 八幡浜のかまぼこ売上高のうち約三八%は高級品が占めているが、売上高の半分以上を高級品が占めている企業はわずか三社で、この三社で高級品売上高の約七〇%を占める。高級品の比率の高い企業は産地内では比較的売上規模が大きく、また独自の販売経路をもっているものが多い。かまぼこの販売経路の中では問屋・仲買の役割が大きく、販売金額の六割近くを占める。企業の中には製品全部を問屋・仲買を通じて販売するものもあり、こうした問屋・仲買のみを販路とする企業では売上げの停滞を訴えるものが大半である。その原因としては、これらの企業は売子とよばれる仲買人を通じて販売する量が多いが、売子は販売地域や客層が限定されていること、売子自身の資本力も零細で高齢者が多いことなどがあげられる。また、零細企業の中には得意先の減少を訴えるものもあり、販売力の弱さが売上げの伸び悩みとなっている。高級品主体の企業と生業的企業には、問屋・仲買を全く通さないものもある。前者では自店販売、百貨店・小売店などに販売努力を注いでおり、売上高の伸びも順調である。後者は製造兼小売りを中心とする企業で、自店販売、小売店販売が主で売上げは停滞している。
 八幡浜かまぼこの主な販売地域は県内市場で全体の約八割を占め、八幡浜市と松山市が中心である。県外市場では、位置的に関係の深い大分県が主であったが、近年は山口県など他県の製品との競合が激しく、別府を中心とする大分県向けの出荷量が減少してきた。八幡浜かまぼこの販売地域は、商品の特殊性や輸送・販路の面からみて最も適した経済圏と一致しているといえるが、練り製品全体の需要は頭うちの傾向にある。

 練り製品の将来

 最近のかまぼこ市場における消費の動向は、食生活の向上を反映して低級品から中・高級品へと需要が変わってきている。しかし高級品生産のために不可欠の新鮮な原料魚の水揚げが減っており、主力のえそを十分に使うことが困難となっている。その原因の中には豊後水道や宇和海などの漁場汚染や漁場秩序の混乱など、漁業をめぐる複雑な背景がある。乱獲を防止し漁場秩序を確立する方法として、一隻引きトロールの導入など漁法の改良も求められている。また、近海の魚類資源を見直すため、深海魚の利用法が模索されており、海洋水産資源開発センター(東京)が水産庁と提携して、五五年六月上旬から九月中旬にかけて豊後水道沖合で現地調査を行なった。これは「沖合底びき網新漁場企業化調査」とよばれ、八幡浜市の中型トロール漁船で水深一〇〇mから五〇〇mの海域を調査した。調査期間を通じて総漁獲量一八三トンのうち、最も多かったのは練り製品原料となるしろむつで約五〇トンであった。しかし日本西海漁業協同組合(八幡浜市)で行なわれた報告会では、練り製品原料としての深海魚の企業化は現状では困難とされ、今後は将来性のある魚類を加工利用する研究が必要とされた。
 一方、水産加工の基地づくりを進めるためのプランとして、第一次加工が協業化できる水産加工団地や、若い後継者のための技術研修センターの構想もあるが、用地や汚水処理など未解決の問題があり具体化には至っていない。八幡浜蒲鉾組合(五八年八月現在組合員三三)でも、消費拡大を図るため五六年から県や市の協力を得て新製品の開発に努力している。五八年一二月には一二種の試作品の試食会を行ない、くん製かまぼこや洋風かまぼこなど若者向きの新かまぼこが試食された。こうした工夫や努力によって伝統的な地場産業が新しい活路を見出せるかどうか注目されている。












図3-10 県内水産練り製品生産高の推移

図3-10 県内水産練り製品生産高の推移


表3-15 八幡浜港における煉り製品原料魚の供給量と価格の動向

表3-15 八幡浜港における煉り製品原料魚の供給量と価格の動向


図3-11 八幡浜市におけるかまぼこ製造業者の分布

図3-11 八幡浜市におけるかまぼこ製造業者の分布