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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

一 八幡浜市と周辺のみかん


 八西地区の柑橘栽培

 日本一のみかん生産県、愛媛の代表的温州みかんの銘柄産地、八幡浜市・西宇和郡の八西地区は、本県の温州みかん栽培面積一万五二九〇ヘクタールのうち、八幡浜市一一五六ヘクタール(七・五%)、西宇和郡一二五七ヘクタール(八・二%)で、県下の一五・七%を占める温州みかんの主要産地をなす。収穫量は三四万一九二〇トン、そのうち八幡浜市が三万一五八九トン(九・二%)、西宇和郡三万四一二二トン(一〇%)(昭和五六年)で、八西地区が県下の一九・二%を生産している。
 品種別にみると、普通温州は八幡浜市四三七ヘクタール(四・九%)、西宇和郡五九一ヘクタール(六・七%)で八西地区は県下の一一・六%、収穫量は八幡浜市一万一二三四トン(五・八%)、西宇和郡一万六五四三トン(八・六%)で、一四・四%を占める。早生温州は、八幡浜市が七一九ヘクタール(一一・二%)、西宇和郡六六六ヘクタール(一〇・三%)で県下の二一・五%を占め、収穫量も八幡浜市の二万三五五トン(一三・七%)、西宇和郡の一万七五七九トン(一一・八%)を合わすと、県下生産量一四万八九八二トンのうち二五・五%(昭和五六年)を生産している。
 八西地区の農業は、南予特有の急傾斜地を耕作する柑橘中心の果樹農業が主体である。特に八幡浜市は耕地面積の九割が急傾斜地帯である。このような条件のもとで、農産物生産額において四国西南部の枢要の地位を占め、特に温州みかん・夏柑(夏みかん)は全国的に類のない優秀品を産する。風光明媚なリアス海岸地帯は柑橘類の宝庫である。
 西宇和青果農協管内の柑橘類の品種構成の変化をみると、昭和四六年グレープフルーツの輸入自由化以後、普通夏柑は約一〇〇ヘクタールの栽培面積のうち、九年間で八〇ヘクタールを更新し、残る二〇ヘクタールも二年後には消滅した。温州みかんは、昭和四七年全国的な生産過剰による価格大暴落を契機に、同四八年から品種更新がはじまり、五一年からは毎年一〇〇ヘクタール前後の更新を行なった。更新は昭和五〇年ころまでは甘夏柑が中心で、その後、宮内伊予柑の比率が高まり、同五四年には更新面積の約五五%が宮内伊予柑、ついでネーブルオレンジ、温州みかんの順である。
 西宇和青果農協の奨励品種は、温州は興津(おきつ)早生・宮川早生・南柑二〇号(純系)、伊予柑は宮内伊予柑、ネーブルは大三島・森田・ワシントンの三系統とし、極地奨励品種としては早生八朔・日向夏を指定している。ハウスみかんともからめて図3―1のように、周年出荷の体制が確立している。

 真穴・川上のみかん

 リアス海岸の臨海斜面海岸地帯は、温州みかんの宝庫である(図3―2)。真穴・川上・向灘は温州みかんの専作地帯で、丸マ印で知られる真穴みかんは、向灘の日の丸みかんと並んで、全国の卜ップ銘柄として知られる。「うまいみかん作り運動」が提唱され、量より質の時代に移った昭和四三年以降、真穴は高品質みかん産地としての面目を一層躍如たらしめている。
 真穴のみかん栽培は、明治二四年(一八九一)ころ大圓寺住職松澤万拙師の勧めにより、旭柑数本の試験栽培をはじめたのが最初で、万拙師と共に園芸に趣味深い二宮類治が夏柑を桑園の中に植え込んだ。経済的栽培のスタートは、明治三四年(一九〇一)加賀城庄九郎(真網代)が夏柑とネーブルオレンジを二〇アール、石田増太郎がネーブルオレンジ五アール、松澤万拙がネーブルオレンジを一〇アール植え付けたのに始まる。
 現在重要産業に発展している温州みかんは、明治三三年(一九〇〇)ころ、阿部大三郎が立間村(現吉田町)の加賀山金吾より三〇〇本の苗を購入し、阿部庄右衛門・吉川音治らと共に栽培したのがはじまりで、明治四〇年 (一九〇七)ころから栽培熱が高まり陸続と増植がすすんだ。
 早生温州は大正五年(一九一七)、農会長村田市太郎が大分県津久見市の久保田和作より苗を求め植え付けたのが始まりで、その後、大分系・大長系の早生が少量植え込まれたが変種し、宮川早生に統一された。真穴および八幡浜市の大部分の温州は、明治三八年(一九〇五)から同四〇年(一九〇七)ころの栽植で苗は摂津から取り寄せた。昭和になって愛知県中島郡稲沢町・千代田・明治村(現稲沢市)などの尾張糸や福岡県山門郡・八女郡などから導入した。初めに入れた泉州系や紀州系は貯蔵性に富むが、品質的には尾張系に劣り、明治三七年(一九〇四)からは辻新太郎の指導で尾張系になった。
 特に昭和初期の恐慌時に、それまで地区農業の中核であった養蚕からみかんへ転換し、温州みかん専作地域を形成した。戦時中の後退(伐採令による甘藷への転作)を経て、昭和二二年には早くも戦前水準に回復し、同二五年ころから主産地形成へときわめて安定したペースで進展した。昭和二四年日園連主催の第三回全国果実展示品評会において、優等農林大臣賞をはじめ農林大臣賞・県知事賞を受賞した。同三九年には日本一の天皇杯受賞の栄誉に輝き、真穴みかんの名声は全国的にたかまった。
 昭和二五~二六年ころから、真網代部落を中心に経営規模拡大の動きがでてくる。小経営の世帯主や中農層の二、三男が地区内での規模拡大のむつかしさから、大分県杵築市への移住が行なわれた。他に三瓶町への出作三六ヘクタールを含めると一戸当たり平均面積1・○五ヘクタールである。高度成長期において他のみかん産地ではしばしば五ヘクタールを上回る派手な経営規模拡大が行なわれたのに対し、本産地では家族労働を主体として経営できる範囲内の三ヘクタール前後に規模拡大をとどめ、高品質みかんをじっくり「手づくり」するといった基本姿勢を守りつづけている(表3―1)。本地区の農民は明治三〇年(一八九七)より、アメリカ移民を活発に行なっており、杵築市への移住も他産地にくらべて早い時期にふみきるなど、積極的なパイオニアスピリットを持ち合わせている。
 昭和三〇年以降、いわし巻網漁業の不振から、半農半漁村の穴井部落で、漁業からみかん栽培に新たに取組む農家が続出した。同三一年から三五年にかけて「県営農地保全事業」を導入して全長約二八〇〇mにおよぶ基幹農道が真網代・穴井両部落に完成した。三〇年代の半ばすぎには、俗に「一億円農道」と呼ばれる県下随一の農道網整備を完了した。三八年以来すすめてきた農業構造改善事業は、従来のみかん園を山腹から二〇〇m以上の山頂まで拡大し、さらにモノレールの導入は経営規模拡大と経営の効率化に貢献した。
 防除作業の決め手となる動力噴霧機が導入されたのは三〇年以降である。昭和三八年に共同防除を開始したのをはじめ、剪定・摘花果などみかん栽培の鍵を握る作業において、技術水準の平準化をはかるため共同化をすすめて、生産コストの節約と品質の均一化にいち早く取組んだ。こうして、地域内の全みかん農家が競って技術レベルの向上に努力したことが、高い手取収入の水準に結びついた(表3―2)。みかん共販は一〇〇%の統制率を堅持し、不況期にも全く崩れていない。
 こうして、真網代部落を中心とするみかん農家の経営規模拡大と、穴井部落を中心とする半農半漁家のみかん新参入によって、真穴みかんの銘柄産地の形成がすすんだ。栽培農家三二八戸、栽培面積三三〇ヘクタール、一戸当たり一・〇ヘクタール、ハウスみかん導入も積極化し四八戸が七ヘクタール、さらに中晩生柑橘の導入によって温州みかんを主柱とする方向に加え、ハウスみかん導入グループ・中晩生柑橘導入グループ・ハウス中晩生柑橘グループなどの多面的展開をとげつつある。
 川上地区は真穴と共に著名な温州みかんの銘柄産地である。明治末期に上泊に導入されたみかんは、戦後川名津・白石地区にも拡大した。川上湾を抱きこんだリアス海岸の臨海斜面は、山頂まで温州みかん園が展開している。生産者二六七名、早生温州一三五ヘクタール(六一・○%)、普通温州八七ヘクタール(三四・一%)の温州みかん専作地域である。
 昭和二三年から三回も農林大臣賞を受賞し、品質優秀で真穴のよきライバル産地である。産地間競争の激化にともなう薬剤散布回数の増加に一考を加え、スプリンクラーによる全園散布可能施設をもうけて全国的な注目をあびた。同四一年海岸の埋立造成地に選果場を建設した。処理能力は、一日当たり一五〇トンの選果機二台で選果し荷造りをしている。

 向灘の日の丸みかん

 品質日本一を誇る「日の丸みかん」の産地向灘の温州みかん栽培は、明治二七年(一八九四)矢野崎村(現八幡浜市)の大家百次郎が筑後(福岡県)の柑橘園を視察し、翌年宇都宮大六の斡旋で、夏柑・温州・ネーブルの苗木三〇〇〇本を導入して上田吉蔵の水田に仮植したのが初めで、大家利平・中西伊勢太郎・木下作松・岩崎豊太郎らが、八幡浜市向灘勘定の山を中心に数百本の苗木を植えた。
 温州とともに夏柑・ネーブルなどの苗二〇〇〇本を育て、明治三〇年(一八九七)に二年生苗を密植した。夏柑・ネーブルオレンジはその後温州に改植された。向灘は夏柑には傾斜が急で排水が良く玉太りが悪い。それに対し千丈駅付近は傾斜が緩く土壌も深いので夏柑が多い。
 向灘地区の栽培面積一四一ヘクタール、組合員戸数二二四戸で一戸当たり平均経営規模六四アールという零細経営で、品種構成は早生温州四八・九%、南柑二〇号一九・二%、普通温州二九・一%で「日の丸みかん」の名称どおりわが国の代表的みかんの専業的産地である。中晩生柑橘ブームの中で、温州みかんの銘柄産地として高品質の温州みかんを生産し、数億円の生産をあげ粗収益一〇〇〇万円の経営を実現している。昭和二九年に農林大臣賞、同年および翌年連続して愛媛県知事賞を獲得するほど、向灘の日の丸支部は優秀な温州みかんを生産している。産地全体の一〇アール当たり平均収量は毎年四~五トン、加工比率は五~六%、一〇アール当たり粗収入は愛媛県平均の二・五倍という。
 こうした高収益の秘訣は何か。それは、年降水量一六○○㎜、年平均気温一六・五度C、日照時間二一○○時間、土壌は結晶片岩系の緑泥片岩を母岩とした埴(しょく)壌土で地力が高く、排水良好で温州みかんの栽培に適している。しかも、園地が南向きで空から照りつける太陽の直射光、八幡浜湾の海面から照り返す反射光、石積み段畑の蓄熱放射熱の三つの太陽エネルギーを有効に利用し、温州みかん作り一筋にかける情熱と、生産から販売までの徹底した共同管理システムによる組織活動に起因する。
 日の丸支部では「園地査定制度」をもうけ、春秋二回生産者全員の園を巡視し、土壌、間伐、除草、摘果、病虫害防除、栽培環境などの面から各園地を総合的に評価し生産活動に反映している。日の丸支部二二四戸の栽培農家は一八班に分かれて共同生産活動をしており、園地査定の結果最優秀の班は表彰され、班活動奨励金が授与される。兼業農家率七〇%、平均耕作面積六四アールという産地で、きめ細かい管理が徹底されるのも共同管理の賜である。
 土づくり、剪定・不良系統の更新なども後継者や篤農家の組織が請け負って実施している。共販率一〇〇%で、集荷についても後継者を中心に当番制で奉仕している。全生産者がキロ当たり二円の積立をしていたことも、農道整備や近代化施設の導入に大きな力となった。

 晩柑類を中心とする日土地区と保内町

 国道一九七号の交通の要衝、喜木川流域二四部落からなる日土地区(現八幡浜市)と、喜須木地区・宮内地区(現保内町)の三地区を母体とする保内共選管内は、栽培戸数約九〇〇、栽培面積は温州が四〇〇ヘクタール、晩柑類六〇〇ヘクタール、計一〇〇〇ヘクタールで西宇和青果農協管内最大の産地である。しかも、温州みかん主体の西宇和青果管内にあって、晩柑主温州複合型経営の中核産地である(表3―3)。
 夏柑(夏みかん)栽培は、明治一九年(一八八六)日土の二宮嘉太郎が、松山市持田町の三好保徳から苗を購入して植えたのが初めである。ネ―ブルの栽培は、明治二九年(一八九六)からで宮内村(現保内町)の佐々木秀次郎・田鶴谷千頴・神山村(現八幡浜市)の清水谷巌らによって始まった。半島部は夏柑の関係で少なく、主として保内郷に広まった。
 日土地区は夏柑を主体に発展し、温州の導入は昭和三〇年以後を中心に現在の原形を築いた。大正元年(一九一二)日土の二宮嘉太郎は、同志の船木・成田・長岡・兵頭・西園寺・河野ら七名と丸七組合を結成して夏柑の共同出荷を始めた。大正一二年(一九一二)から同一四年(一九二五)の間は、川之石が中心地で荷造りをした。夏柑の東京市場を開拓し、糸崎を中継港に指定したのは喜須木生れの曽我源之丞である。昭和一四年、予讃線が八幡浜に開通するまで、保内はもちろん西宇和の柑橘はすべて船便であった。荷印に赤縄の本数で容易に等級を示した。容器の竹籠は萩市が元祖で、保内へは清水谷巌が明治四〇年(一九〇二)に導入した。
 古い夏柑産地の日土地区に、甘夏柑が導入されたのは昭和三六年ころからである。当初は普通夏柑の補植と水田転換の山田を中心に新植がすすんだ。甘夏柑の急激な増植は、夏柑価格の大暴落した昭和四四年ころから夏柑園の改植更新として行なわれた。新甘夏柑の導入もこの時期である。昭和四六~四七年ころ「夏柑等再開発事業」が取入れられ、新産地づくりの指導が推進されている。
 保内町は昭和四三年の普通夏柑価格の暴落以来、不況打開策のため、同四四年度を初年度として五年間に八〇%の普通夏柑の更新が計画され、老木園の伐採と甘夏柑への改植がすすんだ。柑橘類の栽培推移をみると、温州と普通夏柑の二本立から、昭和五二年までに普通夏柑の高接や改植がすすみ、五五年には温州(早生温州中心)みかん三五%、甘夏柑二五%、宮内伊予柑二五・五%の三本立になった。こうして、昭和四〇年代中ころから始まった普通夏柑の更新は、川野甘夏柑への改植を軸に四〇年代後半から五〇年代にかけては、新甘夏柑(サンフルーツ)中心の高接更新にかわった。
 栽培地域は寒害を考慮して適地選定区分を三区分し、(一)標高一三〇m以下は甘夏柑、(二)一三〇~二三○mまでは宮内伊予柑・ネーブルオレンジ、(三)二三〇m以上は早生温州を残し極早生(ごくわせ)温州を導入する。この基準にもとづいて、適地適作の地域性を生かし喜須木・神越(みのこし)地区では早生温州を残し、更新は普通夏柑の老木園の改植が中心である(表3―4)。したがって、更新方法は減収の配慮から少ない面積を毎年行なうか、若しくは隔年更新方法がとられた。また導入品種も地区の柑橘園の殆んどが北向きのため、果実の着色(紅)の問題が残る。それで宮内伊予柑よりは新甘夏柑(サンフルーツ)への更新が中心である。
 宮内・船木谷地区は普通夏柑の成木が多く、短期間に高接による宮内伊予柑(原産地松山市平田町宮内義正園)への更新がすすんだ。船木谷は高接更新の最先端をきって更新をすすめ、南予の伊予柑産地として他地区に先行した。
 喜木地区は明治一九年(一八八六)普通夏柑導入以来、夏柑主産地として名声をあげたが、昭和四三年の夏柑価格暴落を契機に活発な品種更新が実施され、新しく甘夏柑・伊予柑主体の中晩生柑橘の生産地に変容した。
 保内町への宮内伊予柑導入は、昭和四三年ころからである。すでに篤農家によって普通伊予柑が若干栽培されたが生産意欲は低かった。保内町の柑橘園は、傾斜地と水田転換による平担地とからなる。平担地は甘夏柑、標高五〇~一〇〇mまでが夏柑から更新した宮内伊予柑、一〇〇m以上が温州みかん園になっている。昭和五六年の伊予柑は三二〇ヘクタール、生産量四二〇二トン(うち早生伊予柑三〇一ヘクタール・三八〇二トン)で、宮内伊予柑は普通夏柑の更新によるものが殆んどである。
















図3-1 西宇和青果農協管内の柑橘類周年出荷体制の月別出荷実績と主力品種割合

図3-1 西宇和青果農協管内の柑橘類周年出荷体制の月別出荷実績と主力品種割合


図3-2 八幡浜市周辺の柑橘栽培地帯の分布

図3-2 八幡浜市周辺の柑橘栽培地帯の分布


表3-1 八幡浜市の地区別果樹栽培面積及び規模別栽培農家数

表3-1 八幡浜市の地区別果樹栽培面積及び規模別栽培農家数


表3-2 八幡浜市の地区別果実販売金額及び規模別農家数(果樹栽培面積10a以上の農家)

表3-2 八幡浜市の地区別果実販売金額及び規模別農家数(果樹栽培面積10a以上の農家)


表3-3 西宇和青果農協管内における共選単位の柑橘類の品種構成

表3-3 西宇和青果農協管内における共選単位の柑橘類の品種構成


表3-4 西宇和青果農協管内の地区別甘夏柑の栽培面積と標高別区分

表3-4 西宇和青果農協管内の地区別甘夏柑の栽培面積と標高別区分