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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

五 鹿野川湖と大野ヶ原


 鹿野川湖

 鹿野川湖は昭和三四年完成した鹿野川ダムによって堰き止められた人造湖であり、屈曲に富む湖水の景観や、それに影を落す植物景観、各種橋梁などの人工景観に特色をもつ。同三七年湖水一帯は「肱川県立自然公園」に指定された。
 自然公園内の景勝地には、鹿野川園地・丸山公園・小藪温泉などがある。鹿野川園地はダムサイド東方の丘陵上に町が建設した園地であり、さくら・つつじの植樹が多く、展望台・休憩所などもあり、鹿野川ダムを展望するのにすぐれている。また園地の一角には、昭和五五年新農業構造改善事業で建設された肱川町農業資料館がある。この資料館には、県指定有形民俗文化財並に無形民俗文化財に指定されている大谷文楽の人形頭や衣裳も保存されている。ほか肱川町に伝わる農具申民具多数が展示されている。
 丸山公園は鹿野川園地の東側の山地に、地元の篤志家富永広が開園した植物園である。三ヘクタールに及ぶ園地には、樹齢七〇年に及ぶつつじが色とりどりの花を咲かせ、また、しゃくなげ・さくらもそれぞれ三〇〇〇本も植えられ、開花の時期には観光客の目を楽しませてくれる。
 小藪温泉は鹿野川ダムの下手の左岸から肱川に流入する小藪川ぞいの石灰岩の割目から湧出する鉱泉である。弗素・硫化水素・ラドンなどを含むアルカリ性単純温泉である。明治年間以降湯治客でにぎわったひなびた温泉宿がある。温泉の下手には、渓流と自然林に恵まれた小藪渓谷があり、肱川町の建設した遊歩道によって、自然美を探勝できる。
 この地域に観光客が訪れるようになったのは、昭和三四年の鹿野川ダムの建設後である。湖面では、昭和三六年以降県内の高校総合体育大会や国体予選のボートレースが行なわれ、またヘラブナ釣りも盛んである。宿泊施設には、ダムサイドに県農協共済連の経営する鹿野川荘とその対岸の丘陵上に伊予肱川簡易保険保養センターがある。前者は同三八年に開設され、客室一一・収容人員四二人である。小藪温泉から泉源を求める風呂もある。一方、後者は同四七年建設され、客室一九、ほかに大広間・小広間・娯楽室などがあり、県内外からの宿泊客が多い。
 肱川県立自然公園圏外の景勝地としては、肱川町の南西部にある御在所山(六六八m)が知られる。山頂付近には石灰岩が溶食されて形成されたカルスト地形が見られるが、この地には石灰岩の岩峰コックピットが林立する。なおこの山地一帯には、同四九年から五二年にかけての第二次林業構造改善事業の一環として、展望台・バンガロー・キャンプ場・きのこ園などが開設され、「御在所自然の森」として一般市民の行楽地にと変貌している。

 大野ヶ原

 肱川の支流舟戸川の源流地帯に横たわる大野ヶ原は、秋吉台・平尾台と共に日本三大カルストとして有名である。ここは標高一一〇〇mから一四〇〇mにわたる隆起準平原の高原であり、わが国の最高位にあるカルスト地形である。西の大野ヶ原から東の高知県鳥形山に至る石灰岩の高原は、四国カルストと呼称されているが、このうち愛媛県側の大野ヶ原・姫草(ひめくさ)・牛が城・地芳峠(じょしとうげ)・姫鶴平・五股城・天狗高原の部分は、北側に広がる大川嶺、岩屋・古岩屋と共に、昭和三九年「四国カルスト県立自然公園」に指定され、県下の代表的な山岳観光地として知られている(図2―41)。
 大野ケ原の自然景観上の特色は、雄大な高原に各種の石灰岩の地形が展開することである。高原南端の源氏ヶ駄場(だば)(一四〇三m)には、溶食された石灰岩が草原の中に点在するカレンフェルド(石塔原)の地形がみられ、その麓の小松・寺山の集落のあるところには、小松・笹ヶ嶺・寺山・姫草の四つのポリエがあり、その間に大小のドリーネ・ウバーレが点在する。ドリーネの数は八〇にも達するという。小松ポリエのなかにある小松池はウバーレに湛水したものであり、降水量にかかわりなく水量に変化がないといわれている。西方の舟戸川流域には、上浮穴郡の地名のおこりともなったといわれる鐘乳洞の羅漢穴がある。
 予土境域にそびえ、肱川・仁淀川・四万十川の源流にあたる大野ヶ原には、他地域にみられない特異な地形と結びついた伝説が数多く残されている。源氏ヶ駄場には、源平の合戦のころ、源氏の敗残兵が石灰岩のちらばるこの高原に逃げ込むと、追撃の平家の武士は無数に林立する石灰岩の群を見て、白馬の騎士の大軍と見誤り退却したので、源氏の敗残兵は危うく難を逃れたとの伝説がある。麓の小松池のほとりには龍王を祀った神社があるが、この池には龍王にまつわる伝説を伝える。雨をよぶ龍の住むというこの池は、南予では雨乞祭りの行なわれる池として有名である。
 大野ヶ原の風光美は自然景観に人文景観が加味されているところに一層の光彩を放つ。大野ケ原は日露戦争後明治四一年から四三年の間、陸軍の演習地となり、当時の兵舎の跡や砲車道の跡を今に伝える。また第二次大戦後は開拓農家が入植し、今日では県下で最も大規模な酪農が展開されている。また昭和四七年からは国営草地開発事業が行なわれ、二二八ヘクタールにも及ぶ草地が造成され、そこに育成牛が放牧されている。高原に色彩豊かな畜舎が散在し、乳牛がのどかに草をはむ風景は、いかにも異国的である。
 大野ヶ原に観光客が多数訪れるようになったのは第二次大戦後のことである。昭和三〇年代の後半にはスキー場としてにぎわい、民宿を経営する農家が一五戸もあったが、現在はスキー客はほとんど見られず、春から秋にかけての行楽客と夏のキャンプ客が多い。キャンプの施設は大野ヶ原の小・中学校を利用することが多く、同四六年惣川小学校の廃校を利用した惣川少年自然の家が開設されて以降は、その一環として利用される場合が多い。現在の宿泊施設としては、野村町営の公民研修センターと民宿の高原荘がある。









図2-41 大野ヶ原の観光地図

図2-41 大野ヶ原の観光地図