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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

四 長浜の観光

 主な観光資源と金山出石寺

 長浜には海あり島あり川あり山ありで、四季観光に恵まれている。春は沖浦観音と桜、夏は沖浦の海水浴場と水族館それに青島の盆踊りがある。秋は紅葉の加屋の白滝、冬はバスキュール式開閉橋を吹き通す肱川あらしが知られている。また展望のきく瀬戸内海国立公園の出石寺や神話に富む壺神山がある。
 出石山脈の主峰標高八二〇mの山頂に、真言宗御室派別格本山の寺がある。養老二年(七一八)一猟師の開創といわれ、大同二年(八〇七)弘法大師が四国巡錫のとき、この山に登られたという伝説がある。
 藤堂高虎が文禄二年(一五九三)奉納した銅鐘は、国指定の重要文化財で、高さ八九㎝、口経五五・七㎝の朝鮮銅で、高麗王朝時代(九一八~一三九二)の製作である。出石寺の宝物の木造釈迦如来坐像は、像高八七・五㎝ヒノキ材で、寄木造りで京都の清涼寺式で、県指定の有形文化財である。
 出石寺は大洲市と八幡浜市との境に近い出石山の頂上にあり、江戸時代には宇和島藩主伊達家も、大洲藩主加藤家もともにこの寺を厚く信仰された。したがって明治五年(一八七二)に南予の宇和島県と大洲県などを統合する場合、両藩の境にある矢野ノ神山の名をとり神山県と命名した。このとき東予では石鉄県と称した。
 出石寺は昭和一六年五月不幸にも火災に遇い、堂宇悉く灰に帰した。しかし以後二一年間僧俗一体の努力が報いられ、昭和三一年五月一一日以前に劣らぬ大伽藍が落成した。昔の杉の巨木の樹叢が見られぬのは残念である。山頂からの景観は雄大で、肱川流域の雲海に四国山地の山々が島の如く展望できる。
 出石寺への登山道は、大洲と長浜と八幡浜からバスの通る道路が開通し、自衛隊の奉仕で完成したので、感謝の碑が立っている。「大洲の高山コース」には東洋一の高さ四・七mのメンヒルを道路ぶちで見られる。出石寺は車で約一時間の行程であり、乗用車二〇〇台が駐車でき、寺院では五〇〇人が宿泊できる。

 加屋の白滝と不動滝

 加屋の白滝や不動滝の地質は、出石層の結晶片岩地帯で、滝のかかっている部分は堅い岩石で、 赤鉄石英片岩の岩脈である。不動滝のある田渕川も、白滝川も源は壺神山に発し、肱川本流に向って東から直角に流れ込んでいる。水量は白滝川よりも田渕川の方が多い。白滝は肱川河口より六㎞、国鉄白滝駅より一㎞で近く、乗用車五〇〇台駐車できる。
 滝の高さ雄滝八〇m、幅二m。雌滝高さ六〇m、幅三m。その他高さ三〇mの御来光ノ滝・都の滝・合歓の滝などがあり、特に秋の紅葉が美しい。毎年一一月の第三日曜日は滝まつり、毎年一一月二三日の勤労感謝の日に、るり姫祭りを行なう。るり姫とは戦国時代の元亀天正のころ白滝の近くにあった都築城は、長宗我部軍との戦いで落城し、城主の奥方のるり姫は、長子の尊雄丸を抱いて、白滝の雌滝に身を投げたという伝説がある。これに因んで、地元の小学六年生の女子約二〇名が、るり姫の姿に扮して、姫みこしをかつぎ、町を一巡して白滝に登り、姫みこしを雌滝の上から滝壺に投下し、昼ころ行事を終わる。

 青島の盆踊り

 青島の盆踊りは、昭和四〇年四月二日付で、愛媛県の無形文化財に指定された。青島は寛永一六年(一六三九)に播州赤穂郡坂越浦から、赤城与七郎が一族十数戸を率いて漁村として開拓したのに始まる。赤穂の出身の関係で、毎年今では新暦八月一四日に新亡者のため夕方六時半から供養踊りと赤穂浪士(忠臣蔵)の踊りをする。服装は赤穂浪士の氏名を染めたハッピを着て化粧して壮麗である。八月十五日には最初に漁村なので大漁踊りをする青島独特の盆踊りである。
 なお一四日の「口説き」には、賽の河原・安珍清姫・阿波の母恋詩・忠臣蔵・石童丸・お半長衛門・兵庫音頭などがあり、一五日のくどきには、丹波与作・那須の与市・加賀のお菊・鎌倉山・お夏清十郎・お初徳兵衛・お梅伝次郎・あげまき助六・賤ヶ岳七本槍などがある。踊りには三つ拍子・白石踊り・いなおさえ・笠踊り・木山踊・網曳きの六種類があり、地方の盆踊りと趣を異にし、播州の影響か大きい。以前は、青年男子が主であったが、今では中年婦人が主役である。
 青島は終戦当時は引揚者で一時八〇〇名にも増えたが、現在一〇〇人ほどで、子供がおらず、小学校も中学校も廃校になった。過疎の島も毎年お盆には、墓参と盆踊りを楽しみに帰省するので、人口が倍以上に膨れ上り、海水浴のシャワーに淡水を使用するため、水不足を来すほどである。
 青島を観光的に開発するには、如何にすればよいか観光診断の報告書を昭和五五年に出している。

 下須戒の豊年踊り

 この踊りは伊予万才とともに、愛媛県の代表的郷土芸能で民俗的観光資源である。長浜町観光協会の資料によれば、この豊年踊りは下須戒の農家の川田時衛(一九〇〇―)が、大正一一年(一九二二)に考案創作したものである。彼は肱川あらしの吹く相生部落(現在の下須戒地区)の苦しい米作農民のくらしに、明るく楽しい雰囲気を出そうとの着想から、農具の代りに人間を置き替えユーモアな踊りをつくった。春の田植から秋の取入れ年貢おさめまでを一一景二五分にまとめた。最初に公演したのは昭和三年御大典記念に長浜の演舞場で、大変好評を博した。音楽は磯節を基調とした節に江戸情緒豊かなカッポレなど有名な古民謡の節調を多分に取入れた。彼は振り付けに工夫し、太鼓の上に三味線と尺八のハヤシを入れた。そして昭和二五年国鉄出石駅完成の祝賀会に発表して、喝采を博した。踊りの特徴は稲作を田植収穫から脱穀し、庄屋に年貢米を納めるまでを、質素な農民姿で示し、テンポの早いユーモアに富んだ、底ぬけに明るい踊りである。
 踊りの順序は、①田植 ②草取 ③刈取 ④束ね ⑤脱穀 ⑥唐箕 ⑦籾摺 ⑧万石通し ⑨米搗 ⑩俵作り⑪年貢米調べ ⑫豊年満作踊り となっている。
 町指定の文化財で、テレビにより再三全国放送されて一躍有名になり、アトラクションとして各地に招かれている。一九七一年三月町指定当時のメンバーは、
 ①太鼓―川田時衛(一九〇〇―) ②唄―鎌田春代(一九〇六―) ③尺八―尾上利行(一九二三―) ④三味線―藤岡勝子(一九二四―) ⑤説明―藤岡肇(一九二八―) ⑥踊―藤岡義範(一九三七―) ⑦踊―上田三好(一九四四―) ⑧踊―峰岡直一郎(一九三五―)であった。出演料その他の交渉先は、喜多郡長浜町下須戒 藤岡肇(電話〇八九三五―二―〇五七〇)である。

 肱川あらしとバスキュール式開閉橋

 肱川の河口に位置する長浜の町は、一〇月ころから翌年四月ころまで、「あらし」と称する霧を含んだ風が、川上から河口に向って吹く。これは大洲盆地と伊予灘との間の夜間の温度差による、いわゆる陸風の一種である。大洲盆地の冷気湖に放射霧が生じ、霧の海となり、神南山や冨士山は島のようになる。壺神山や出石寺の頂上から、午前中に白竜の如き霧の川が五郎から長浜に向って、肱川の横谷を流れ、海上数㎞に及ぶ冬の現象は壮観である。長浜小学校では戦前校舎の形をあらしを避けるためT字形に建てたし、朝礼をあらしの済む三時間目に行なっていた。卓越風のため長浜高校の近くの松並木は海の方に向いていたが、老木になり松喰虫のため枯死した。北西の季節風が強い時はあらしは弱い。あらしの一〇m以上も強い時、長浜の開閉橋を通るときは危険を感ずる。
 長浜と沖浦を結ぶ長浜大橋は町長で県議の西村兵太郎の尽力でできたバスキュール式開閉橋で、昭和一〇年八月完成した。延長二二六m、幅五・五m、開閉部分一八m、大阪の細野組が工事二九万円で造った。これに対して上老松の大和橋は昭和一〇年一〇月完成で政友会の力で六万円で造ったものである。開閉橋は東京の隅田川の勝鬨橋とともに有名である。これは主として砂利船や機帆船が通行する便を図るためのものであった。

 長浜海水浴場と水族館

 肱川河口の左岸沖浦の海岸に長浜海水浴場がある。三五〇mの砂浜で、沖に防波堤があり、比較的遠浅で海水は透明である。結晶片岩の色とりどりの小石で美しい。
 松山から一時間足らずで便利である。国道三七八号の走る長浜新大橋が、昭和五二年に開通したので、マイカーやバスを利用する者が多い。昔の煮干を干す小屋が今では駐車場に変わっている。七月八月のシーズンには約五万人が出かける。八月の第一日曜日は例年海の祭典が開かれ、宝撒など多数の行事が催され、芋の子を洗うようである。
 肱川右岸の長浜高校の近くに、長浜水族館がある。昭和一〇年の創設で、竜宮城風の建物である。魚類はもちろん、水産動物・鳥獣類なども飼育し、子供の研修に供している。また海水浴客の憩いの場としても親しまれ、各種標本も展示している。開館は四月一日から一一月三〇日まで、開館時間は八・三〇から一七時までで、料金は大人一〇〇円、高校生六〇円、小中学生四〇円である。