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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

二 内子八日市の町並

 町並の保存

 八日市の町並が今までよく保存できた要因を次の如く考える。第一は火事がなかったこと。もっとも内子でも六日市は須崎富男(明治三六―)の談によれば、慶応元年(一八六五)と明治二七年(一八九四)と二度も須崎は罹災した。明治二七年の火事は医師の大高が火元で、本町の旧家の藤崎・須崎や紙役所、禅昌寺が焼け、森も半焼したという。
 第二は本町に新道が明治三七年に開通したので、馬車や自動車が坂町や八日市町や護国町を通らなかったこと。もしここがメインルートだったら、町幅を拡げ、家を改造したであろう。第三に本芳我でも上芳我でも、大邸宅を終戦のとき処分せず、持ちこたえたことである。筆者は終戦後、農地改革や財産税や家屋税に耐え切れず、米倉も蝋倉も明治期の隠居家も処分してしまった。本芳我の保は旧式な間取の母屋は後藤法務局員に貸して、青屋町に便利な隠居家を造り余生を送っていた。長男は松山に新しい家を建て法務局に勤めていた。上芳我も相続人は松山に住んで、八日市の本宅は処分せずに所有していた。
 第四に昭和四八年ころから全国的に日本の伝統的な建物や文化を残す風潮になり、馬篭宿や城下町あるいは古い町並の価値を認めるようになったこと。内子でも中芳我の女婿の井門敬二のような芸術家や地元の先覚者が、啓蒙して改築や処分を手控えたこと。
 第五に内子町は昭和五二年に「町並保存対策協議会」をつくった。広島大学の日本建築専門家の鈴木充教授に依頼して、八日市の建物の状況・形式・特徴・保存について学術的調査報告書を出してもらった。「内子の町なみ」の印刷物を昭和五三年三月に発行した。A四版八五ページ横組アート紙の冊子である。表紙題字装画は井門敬二、内容分担は町の地理的環境を芳我幸正、歴史的変遷を宮田重保、経済と文化を村上節太郎、民俗騒動社寺を中野武夫、町並の特質を鈴木充・迫垣内裕、内子町の計画と展望を岡田文淑、年表を大森昭生が執筆した。その後「改訂版」や「観光ガイドブックうちこ」、「護国山高昌寺」などの印刷物を出し、町並の保存と宣伝に努めている。

 内子の年中行事

 八日市の町並の北端の展望のきく山腹に高昌寺がある。新暦三月十五日の涅槃会には、十時から読経、餅まき、稚児行列が行なわれ、八日市からの参道に街商が並び、見世物が来て、参詣者で賑わい、いかにも八日市は高昌寺の門前町の様相を呈する。高昌寺は内山区を中心に二四か寺の末寺を有する曹洞宗永平寺派の寺で、小さいながら七堂伽藍が整っている。
 内子も端午の節句に凧喧嘩が、江戸時代には盛んであったが、明治以後は五十崎にお株をとられた形である。七月十五日の商店街の造り物大会、八月一日の廿日市の願成寺の一遍上人遊行祭、八月七日の七夕の笹まつり、九月二三日の知清河原の宮相撲など何れも盛大で、広く県外にまで知られている。

 八日市の見どころ

 八日市は坂町の下の元内子銀行(今は伊予銀行の支店)から護国町の高昌寺まで約一㎞あり、その間に古い民家が七〇棟ある。寛政年間(一八〇〇年頃)建築の大村家、明治一七年(一八八四)の本芳我、明治二七年建築の上芳我邸などが代表的な漆喰と海鼠(なまこ)壁の建物である。なお六日市すなわち本町の商店街にも明治期の家が五〇棟ほど残っている。

 上芳我邸

 昭和五六年四月から内子町が上芳我邸を借りて管理し、見学料二〇〇円(子供は半額、水曜日休日、平日九時から午後四時半まで)をとり、家の中を案内人の説明で見学できるようになった。店の部分の大黒柱、三〇人ほどの使用人が食事できる台所、磨きこまれた箱式階段、高級な調度品があり、二階は写真や賞状などパネル式展示場となっている。中庭には蝋棚に晒蝋蓋が干してあり、裏の倉庫は木蝋資料館に改造して、蝋製造の工程を示す器具を陳列し解説している。また昭和五九年四月からは、おもやの二階の天井裏を、喫茶室に利用し、休憩できるようにし、評判がよい。さらに立木で蝋をしぼる所や、木蝋博物館の整備が期待されている。

 四国一のゴルフ場

 昭和五〇年一〇月オープンした愛媛ゴルフ倶楽部内子コ―ス(親和観光産業㏍)は、広さ一二七ヘクタールあり、二七ホールで四国で最も設備がよい。昔の論田の松木山を知っている筆者には、広い芝生の美しいゴルフ場の景観に驚く。建物にも特色があり、喫茶部には天皇陛下が大正一〇年(一九二一)に、英国ロンドンに行かれたとき、内子町出身の高畑誠一 (鈴木商店ロンドン支店長、日商岩井創立者)が、初めてゴルフを御指導申上げたときの写真や、そのときのクラブが展示してある。昔の町並とともに観光ルートとして見学に値する。このゴルフ場建設についても、名誉町民だった高畑氏が指導協力している。

 民芸品店と郷土料理店

 古い町並にふさわしい民芸品店が内子にもあるが、まだ小規模である。八日市の正木町と本町通りの角に「道後屋」がある。自然博物館と歴史博物館を兼ねており、手やきのせんべいや内子の名産品を売っている(後藤茂七経営)。長生一男志郎親子の造っている棕梠細工を主とする民芸品店が、八日市の中程と六日市の下の方に店を出している。護国町の宿場町の俤を示す中程に大森弥太郎氏が和蝋燭を造り実演している。このほか中芳我の井門のコレクション、備前屋の骨董品屋がある。
 内子の坂町に五兄弟が経営し、九〇年の伝統を跨る森文醸造がある。天一醤油・甘酒・ひしお・柚子(ゆず)みそ・おふく豆みそを造っており、昔の醤油製造の絵巻をかかげ、醸造の道具が博物館のように展示してあり、見学できる。森文の建物も、八日市の町並に溶け込み評判がよい。内子小学校の西に「京ひな」で知られる酒六酒造工場があり、ここでは酒の造り方を見学できる。
 郷土料理では、川魚のあゆ・かに・昭八(おいかわ・うぐい)、名産のくり・柚子・こんにゃく・青梅を利用したもの、田楽・いもたきなどが有名である。宿としては明治一三年(一八八〇)創業の「松乃屋」は設備がよい。坂見の栗饅頭も当主が四代目で、伝統がある。ここでは栗の一番おいしい時期にジャムに加工し、年間を通して使用している。

 顕彰説明板

 八日市の町並の北端に、内子町出身で地方のため日本のため貢献した人びとの顕彰説明板を三友会(後藤茂七・宮岡清・林元道)が建てているのが目についた。地元の子弟の教育に役立つことはもちろん、旅の者にも参考になる点が多い。
 「内子の三もぐり」というのがある。重岡信治郎海軍中将は、尚武会の育ての親で、潜水艇の権威で海底深くもぐった。菊地秀次郎は松中・三高をへて東大の採鉱冶金を出て、鉱山技師で地下深くもぐった。鬼菊地といわれ三高時代野球の主戦投手としても知られる。安達東三郎は、名医安達玄杏の五男。松中・海兵に学び、一九一四年には高度航空技術研究のため欧州に派遣された。一九一五年追浜で殉職・海軍大尉。安達大尉は小学生時代でもあばれん坊で、エピソードが残っている。
 安達玄杏翁の碑が小学校にあったが今は図書館(もと内子警察署跡)前に移され説明板がある。大阪と内子で医師として、また安達社という育英会を東京に設けて社会奉仕をした。禅昌寺の入口には前述の高畑誠一翁と若くして逝った重岡薫五郎(法博・代議士・通商局長・文相官房長)の説明板がある。なお高畑翁は語学が達者で八十二歳のとき英文の貿易や経済書を出版され、ゴルフルール百科などの著作もある。
 高橋竜太郎翁の生家には、日本ビール業界の功労者の顕彰説明板がある。高橋翁は周知の如くドイツに六年間もビール醸造研究のため留学された。戦後は経済界政界に進出、東京ロータリークラブ会長・日本商工会議所会頭・日独協会会長・吉田内閣の通産大臣を歴任し、九三才で天寿を全うされた。
 このほか佐伯敬治郎(町長・実業界要職)、宮田愛明(町長・県議・地方自治)、河内完治(北大出・教育者)、大岡吉邑(精密工具開発者)、明礼輝三郎(弁護士代議士)、米田吉盛(神奈川大学創立者・代議士・厚生次官)、安川右仲(藩政時代の医師・儒学者)などの顕彰説明板があるのは、物とともに人間を大切にする点で敬意を表する。