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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

二 陣屋町新谷

       
 新谷藩陣屋跡

 台山を取り巻くように流れる矢落川に囲まれた低地に、新谷の町が静かなたたずまいを見せる。川から台山にかけてゆるやかに高まる新谷の街並みは、昔の町割をそのままに残しており、下手の商店街は、町割のほかに家並みも昔の姿がそのままといってもよいほどに残っている。上手のもとの武家屋敷は、町割を残して建物はほとんどないが、それでも塀や古い武家屋敷の門がわずかに残り、藩の会所の土蔵や藩札収蔵庫(金蔵)もある。また、御長屋・御家中・調練場・お屋敷奥などの地名も残っている(図2―35)。
 元和九年七月一三日に新谷一万石の分知を得た加藤直泰は、寛永一八年に大洲へ帰り、翌年春には在所を大洲城より約八㎞隔たった新谷に定めた。矢落川の水害を考慮して、陣屋は避水地帯の台山の東(今の新谷小学校の校庭)に構築し、大久保川の付け替えをして、陣屋の東側から一直線に南へ伸ばして矢落川に合流させた。
 台山の東麓、陣屋の西に上下二股に池を築き、東側に門番・組の詰所・馬場を配した。陣屋は三方が山で囲まれた南に開けており、ここから南へ(大久保川と並行に)幅六・六メートルの直線道路をつけ町人屋敷に達している。このあたりは昔の侍屋敷で、大久保川を挾んで川東・川西と呼ぶ。陣屋の近くに家老屋敷・御用人屋敷・中小姓屋敷を配置し、元文五年(一七四〇)の『大洲秘録』によれば、侍屋敷の家数は徒士小姓以上のもの八三軒にも及んだという。城下町の町人屋敷とは一直線に東西に走る水路をもって境とした。町人屋敷・侍屋敷が火災のときは陣屋の西の池の樋を抜き、この水によって消火を図るものであって、現在その跡は狭い溝にすぎないが、もとは半間幅の水路であった。陣屋内の建物は明治維新後に取り除かれて小学校が設置され、寄付者の藩主泰令の名をとり令教小学校と命名した(現新谷小学校)。旧藩時代の遺構として池畔の麟鳳閣(単層入母屋造り)が残っている。
       
 陣屋町新谷

 新谷が他の城下町のように町制や市制を施行するほど集落が発展しなかったのは、大洲町に近いため勢力を吸収されたのと、洪水の被害があったからである。矢落川の改修以前は、下ノ町や古町は上ノ町より海抜二mから三m低いため、度々の洪水で浸水していた。
 侍屋敷の拡大につれ、その南に半間幅の水路を隔てて町人町が建設され、東から商家職人店が建ち並ぶ上之町・中之町・下之町が形成された。「寛政元年御巡見御案内二付手鑑」(一七八九)には、町人家数一三四、人数七二五とあるが、「新谷藩政時代新谷町町家図面」(河内正吉作成)でみると、上ノ町が南北一二軒あった。大久保川から西の、もとの紙役所(今の文化会館)の間の二丁目を中ノ町といい、北に九軒南に八軒あった。三丁目四丁目を下ノ町といい、南側、北側に各二〇軒があった。中山文具雑貨店と篠原酒雑貨店の所に門関があり、中ノ町と下ノ町の間に札場(掲示板)があり、農協と森永スーパーの間の町を「札の辻」といった。下ノ町の西端は日露戦争当時に新道ができるまではT字形の桝形になっており、もとの稲田橋は古町の東詰(新谷の西入口)の「松木原」と呼ばれる老松の並木のところにかかっていた。上ノ町には、町人の商売繁昌を願って恵美須堂、町裏には工人の守り神として太子堂が建てられていたものが現存する。
 寛政八年(一七九六)における七六軒の町家の出身地は、内子町四、大洲四、満穂の河内一、替地など伊予市五、松山二、原町の麻生一、上灘一、中山一、広田二、参川三、藤繩二、恋ノ木三、北山(喜多山)三、五十崎一、上新谷七、下新谷四、菅田二、吉田一、宇和島一、三善一、出海一で、各地から集まって陣屋町をつくっており、酒屋、油屋、小間物屋、唐津屋、金物屋、呉服店、よろず屋まで、一応生活必需品をあきなう店舗がそろっていた。これらの町屋は、在(陣屋町以外の地)から出て、家を構え、それぞれ屋号をもっていた。
 元の稲田橋を渡ったところが陣屋町以前の古い宿駅の町であったので、いまも古町といっている。中江藤樹が少年時代に、近江の母へあかぎれの膏薬を買って帰った薬屋の跡地と伝え、藤樹先生孝行の遺跡の碑がある。陣屋町が形成された後も古町は賑わっていたが、たび重なる洪水と道路の変更などにより商家が次第に姿を消して、今は十数軒の農家と新しい住宅の並ぶ集落となっている。
 明治初年の『伊予国喜多郡地誌』には、川東・川西町分の戸数一三〇、人口四六七、屋敷五町六反余、新谷町分の戸数一二二、人口四八三(うち商八九、エ一四、酒稼四、売薬三)、屋敷一町九反余、物産は清酒五四一石余、酢一一二石、醤油二四石、油一六石余、ろうそく八一〇斤、ろう二万四〇〇斤余とある。
 現在新谷町の世帯数二七六、人口九二六であり、当地は道幅が狭いため、矢落川左岸に国道五六号バイパスが新設され、新大橋の橋幅の拡張工事も完成して国道五六号に通じている。また国鉄内子線、国鉄バス、宇和島バス、伊予鉄バスが通り、交通は便利である。町の東側に中学校・高校・幼稚園が造られ、新大橋の南、和田に通じる市道沿いに新谷農村環境整備センターの新設、市役所新谷連絡所・新谷公民館、大洲市農協新谷事業所の移転などこの地区の中心施設が集中している。また、新谷駅の付け替え工事が進んでいるほか、住宅地の造成が進行している。


                                              





図2-35 幕末新谷藩家中屋敷図並びに町屋図面

図2-35 幕末新谷藩家中屋敷図並びに町屋図面