データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

一 大洲藩の楮役所と紙役所


 五十崎の楮役所の位置

 大洲藩は財源を求むるため、盛んに楮の栽培と製紙を奨励し、宝暦年間(一七五一~一七六三)に楮役所を五十崎に、紙役所を内子町に設けた。なお楮役所は北平村(現河辺村)にも、紙役所は中山村(当時喜多郡)と小田郷の寺村にも置き、保護統制した。
 五十崎村(当時古田村)の梶役所の位置は、現在五十崎町大字古田一二五一番地の理容店の橋本正生宅であった。橋本の間口は四間であるから、隣の兼本ミドリの間口二間半に跨っていたものと思う。梶役所の倉庫は大きく雨天体操場のようで、明治維新に建物が残っていたという。当時井上万太郎(一八六一―一九三九)は雨天に広い倉庫で子供のとき遊んだ体験を昭和五年に筆者に語ったことがある。明和四年(一七六七)の楮役所の制札が、去る昭和五五年に、橋本理容店の隣の和田金竜宅に保存され七いるのがわかった。制札の大きさは幅約一m、高さ三七㎝、厚さ二㎝の松板である。同五七年三月一八日付で町の文化財に指定した。
 楮役所の付近は上村の街村で、河内家・大野家など大きい邸宅のある地域である。有名な豪商綿屋は少し上手で、井口製材所の位置であり、昔の倉庫が残っている。宇都宮神社の二荒縁起の由緒書を保存していた山本家などうだつのある大壁造りの旧家がある。
 五十崎の街の商店街は宗光寺の門前町の形をなし、上町中町下町よりなる。郵便局も銀行も酒屋も料理屋も豊秋橋に近い下町に集まっていたが、最近郵便局は中町に、伊予銀行支店は駐車場の関係で新町に移った。

 内子の紙役所の位置

 内子町の六日市の紙役所は、伊勢舎や化育学校のあった所の南側で、明治維新後は安達病院に利用されていた。現在の本町三丁目の、鎌村健店(甲一〇七七番地)・尾崎美久糸店(甲一〇七八番地)・植木寝具デパート・中川紋五郎時計店(甲一〇七九番地)・東原政男かばん店に跨る地域で、間口約二〇間、奥行二〇間が紙役所の位置であった。須崎寅男の談によれば明治二七年(一八九四)に大高が火災で、須崎家や紙役所一帯は罹災したという。