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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

四 愛媛鉄道


 南予に鉄道を

 〝郷土に鉄道を〟という願いは、南予でも東・中予に負けず強かった。複雑な地形に阻まれ、陸上の往来は思うにまかせない。南予の庶民にとって唯一といえる海上の交通網は、時間がかかるうえ、天候に大きく左右された。当時の南予の人たちには、鉄道こそが夢の交通機関だった。
 最初の動きは明治二七年(一八九四)にさかのぼる。郡中(現伊予市)の有力者、宮内治三郎らが南予鉄道を企画。同年一月に政府の認可を得、同二九年七月に松山―郡中間に軽便鉄道を開業した。同線は同三三年五月、伊予鉄道に合併される。今日の郡中線である。さて、宮内らは松山―郡中間開業に先立ち、同二八年十二月に郡中―八幡浜間を企画、出願した。同三三年三月に仮免状を受け測量に取りかかる。だが、計画はなかなか進まなかった。幼稚な当時の鉄道敷設技術からすれば南予の地形はあまりにも複雑すぎたのだ。続く四三年一月、神戸の曽根正命らの手で西予電気軌道が計画された。郡中―八幡浜―喜須木(現保内町)間に電車を走らせようというものだった。これは、当時の鉄道事業の好況による刺激、政府の促進策などで大正初期から末期にかけて各地に軽便鉄道の敷設が相次いだものの一つである。しかし、当時の常識として電気軌道は道路に敷設し、短距離用のもので、このような長距離路線には不適当と鉄道院から変更の指示が出された。そこで、「西予軽便鉄道」と改称して軽便鉄道の免許状を得たのが明治四四年六月、さらに大正元年には愛媛鉄道と名を改め、会社の設立に努力を重ねたが、経済界の不振で株式募集が意のままにならず、工事施工認可申請斯限を再三延期の末、やっと大正四年(一九一五)六月松山市で創立総会を開いた。
 翌五年五月、当初の予定線を大きく変更して、郡中以南は海岸線の長浜経由に改め、そのうちでも工事の比較的容易な肱川沿岸の大洲―長浜間(一四・六㎞)を選んで工事に着手した(この時の発起人は清水隆徳外三八名)。しかし、会社の経営はいぜん苦しく、第一次大戦の影響で労賃の高騰もあり、これが開通したのは大正七年(一九一八)二月であった。ついで、支線若宮分岐点・内子間(九・七㎞)が同九年五月に開業をみた。軌間七六二㎜の軽便鉄道であった。肱川流域の中心町大洲と河口にあるその外港長浜との間は水運が盛んであった。軽便鉄道はその水運に代わる役割を果たした。長浜駅からは、バラス、石炭、肥料などが積み込まれ、逆に、内子・大洲からは材木、炭、坑木、竹材、米などが肱川沿いに下った。列車編成は機関車、貨車三両、客車二両、貨車、緩急車といった八両編成が多く、貨物輸送が半分以上の比重を占めていた。
 大洲市中村の現国鉄大洲駅付近に本社があった。大洲駅の次は五郎、続いて春賀、八多喜、加屋(現白滝)、上老松(現出石)があり、長浜駅で終点となっていた。長浜駅は現在の場所よりも西側、長浜青果農協選果場の隣、岸本石油店のところだった。当時の内子線は現在の内子線とは少し違っていた。大洲駅を出るとすぐ右へ分岐、直接新谷駅へ向かった。新谷からは喜多山、五十崎、内子の駅があり、これらは現在の国鉄駅の配置とほとんど同じだった(図2―20)。
 大正九年の会社の現況は、資本金一〇〇万円、機関車4両、客車一一両、貸車二四両で旅客輸送人員三四・七万人、貸物輸送一・八万トン、営業益金二・三万円で建設費に対する益金割合は一分二厘、職員数は大石社長以下一〇二名であった。なお、昭和三年当時の乗車運賃は、大洲―長浜間五四銭、内子―大洲間四二銭で、馬車賃よりもかなり高いものであった。大洲―長浜間の所要時間は五二分で、上り・下り各一〇便ずつ運転され、下り長浜始発が五時五〇分、終発が午後八時三〇分であった。
 こうした愛媛鉄道であったが、予讃線の松山以西の建設工事が進むにつれて、昭和八年(一九三三)一〇月に約一二〇万円で国鉄に買収され、愛媛鉄道としての一五年と八か月の歴史に終止符をうち、国鉄愛媛線となった。国有後も七六二㎜軌間のまま営業を続けたが、昭和一〇年一〇月に一〇六七㎜軌間の改築路線を開業させて伊予長浜―伊予大洲間を予讃本線に編入した。若宮分岐点―内子間は一部ルートを変更して五郎で予讃本線から分岐することとし、同時に拡幅を終わって内子線と改称した。