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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

二 肱川の水運と筏流し

 明治六年の喜多郡地誌

 明治六年(一八七三)『喜多郡地誌』によれば、町村別の川舟の数と物産名(紙・蝋・櫨・楮)と数量、牛馬の頭数、人口戸数が記してあり興味がある。肱川の川下地区の川舟数を見ると、柴村が一五艘、豊茂に商船五〇石以上二艘、八多喜川舟二〇艘、米津五、多田八、春賀七、東宇山四艘である。中央区では大竹が二〇艘、柚木五、松尾二、大洲町川舟一、官属地川舟二、遊舟一、下新谷川舟一一とある。川上区方面には川舟はなく、内山区では村前村二艘、五百木村二、知清二、平岡四、大久喜三、古田一艘と記されている(図2―25)。
 知清橋の所で父が東問社という舟問屋をしていた宮崎高義(明治二二年内子生まれ、東雲小学校長で退職)の談によれば、明治三七年(一九〇四)大洲から内子に県道がつくまでは、繁栄して、内子に溯ってくる川舟は専ら、大洲長浜方面の舟と船頭が来たという。
 明治時代、道路が開通し荷場車や客馬車が発達するまでは、普通の人間の往来は歩くし、荷物は馬の背によった。しかし肱川および支流の小田川沿岸の米や木蝋など重いものは河舟で運んでいた。

 肱川の筏流し
 筏流しの盛衰

 肱川および支流の小田川で、木材や竹筏の流送が盛んになったのは、長浜港が木材の集散地になってからで大正から昭和戦前である。尤も戦時中には山林の伐採命令で乱伐し、戦後一時異常な木材騰貴で、流送が復活した。その後トラックの発達と林道の開発、製材所が各地に乱立し、筏流しは昭和二八年には姿を消した。
 昭和一〇年の筆者のメモをみると、長浜に材木屋が出張所を合して一〇軒あり、取扱う六〇〇〇万才のうち、五〇%が伊予木材KK、松田が二〇%、その他三〇%であった。販路は外地が五〇%で、台湾へ二五〇〇万才、大連青島五〇〇万才であった。小規模の材木屋は炭坑行の松材を取扱っていた。伊予の杉の小丸太といって長浜は新宮・能代とともに日本の三大木材集散地であった。現在は産地から製材してトラックで運び、外材が増えたので、長浜の木材港は淋れた。さて長浜に昭和一〇年集まる木材の八〇%以上が肱川による流送であった。一〇%近くは、便利な所で馬車・トラック・汽車を利用した。

 筏師の分布

 現今は筏流しの現象も見られないし、昔筏を流した経験者も少ないし、調査は容易でない。幸に芳我幸正が昭和四〇年七月に、古老や元筏師十教名から聞き取り、纒めた文献(伊予史談二〇八号)がある。これによれば、兼業を含めて、本川筋(肱川本流)に坂石組四六、長谷組二二、横林組三四、赤木組三五、鹿野川組二六、菅田組七、計一七〇人。これに対して支流の小田川筋は、水元連中一六、大瀬連中(川登を含む)三八、和田連中二五、内子連中八、計八七人。合計二五七人である。常に増減があり、臨時加勢者を含めて、総計二六〇人~二八〇人の筏師が、毎日大半は稼動していたのであろう。もっとも洪水時や、雨乞いをする千魃(かんばつ)渇水時には休んだであろう。川舟運航と相違する点は、筏は流水利用の片道営業であり、川舟の船頭は川下が多いのに対して、筏師は川上区や内山区が多い点である。

 筏の構造

 木の筏は普通長さ一四尺か坑木なら七尺に切ったものを、幅四尺から七尺の舟型に組んだものを「一棚」と称し、それを一〇から一六棚を連結させて、「一流」または「一先」と称した。もっとも小田川は浅く水量も少なく、急流なので、筏も短かく小さく幅も狭く造っていた。棚は写真でも判るように、末口を下流に向けて組み、筏の先の方を小さくし、長い重いものは後の方の棚にのせた。棚は桟木と称する樫の横木に「フシカズラ」で結び、底に「アゴ」が出ぬよう工夫された。昔は材木の端に斜に穴をあけ、「フジカズラ」を通して繋ぎ合わせた。針金だと切れやすく、木材の孔がかげやすかった。後には、馬蹄型の釘の「イカダバリ」と称する金具を打ち込むようになり、一才を一四尺にとる必要もなく、手間も省け、筏組みの作業の能率が上った。筏は本流では一流れ一万才から一五〇〇〇才に組んだ。もっともそれは小田川の合流点の鳥首成能あたりで、小田川の筏を二つ一緒にするので、小田川の筏は五〇〇〇才級であった。筏師は鳥首あたりで半分は引揚げたわけである。

 竹筏

 肱川流域は木材とともに竹材の産地なので、時折竹の筏を見た。竹は一棚の「ズラシ組」にして、一度に一二〇束から一五〇束を一流れにした。一束は五寸まわりなら一〇本、六寸まわりなら九本、七寸まわりなら八本である。竹は浮き易く比較的短い日数で流すことができた。しかし竹材は安価だし、木材の何十分の一に過ぎず、竹の切り時は春から夏は悪いので、制限された。本川筋では一時長谷組が、竹専門に流していた。

 組み場

 筏の組み作業をする場所を、「組み口」または「組み場」と称した。芳我幸正の調査によれば、本川筋では坂石組は宇和川口、横林組は赤石と三石、赤木組は舟戸川口と黒瀬川口、鹿野川組は河辺川口、小田川筋では水元連中は突合、大瀬川登連中は川登河口橋成屋、和田連中は上和田橋と中和田などの河岸の広場に設けられている。五十崎でも豊秋河原や古田沖などに臨時に設けられた。組み場までは、山林の土場から、牛や馬の背や木馬や、河岸であれば管流しで集められる。

 筏師の生活

 筏師の収入は、普通大人の日雇賃金の五〇%増しから二倍であった。筏師は本川筋では「組合」、小田川筋では「連中」と称する地区の同業団体をつくり、共同して仕事を引受けている。その世話役を「組合長」とか「親方」と呼び、彼が主となってヤマシや山林地主と交渉した。彼等の仕事は一才(一寸角で長さ二間もの、筏で穴をあけ、傷がつくので一四尺の長さにとった)いくら、昔は何厘、何銭、戦後は何円と騰貴した。現在と違って、明治大正時代は、奥地山林では、「出し」に費用がかかって、山林地主の山もとの収人は、長浜渡しの価格の一割か二割に過ぎなかった。筏師は自分の流している筏の木材の才数が判っているので、稼ぎ高もすぐ判った。
 大瀬や内子や坂石から長浜へは普通昼だけの作業なので二日か三日を要した。初日は夜自宅に帰り、二日目は大洲、三日目は長浜の木賃宿に泊った。水勢のある時は危険であったが一日で長浜に着いた。
 筏師は一流れに小さいのは一人、本筋の大きいのは二人が乗って操縦した。そして少くとも五流れか一〇流れを団体で流した。途中小田川の竜宮の堰のような所では、二人で協力して堰をあけ一つの流れを安全地帯にまで送り、事故防止のため、連続して流していた。
 川下りは一人平均、月三回ぐらい順番が回ってきた。それは筏を団体で組むのに一週間か一〇日かかるからである。人にもよるが若者が「流し」にまわり、老人が「組み子」になる習慣があった。年老いても「流し」のやめられない元気な人もあった。唄を歌いながら筏乗りし、夜は木賃宿で白い飯と娯楽が待っていたからでもある。






図2-25 肱川の河港

図2-25 肱川の河港