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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

五 大洲・内子地方の近代工業

 電機中心の内陸部

 前項の表2―18のごとく、本地方の中では大洲市・内子町を中心に電気機械(以下電機と呼ぶ)比率が高く、しかも急速に上昇している。その最大の企業が四八年に操業を始めた松下寿電子工業(株)大洲事業部である。同工場は大洲市東大洲の大洲市街と新谷のほぼ中間、国道五六号沿いの広大な畑作地の中に立地し、松山市へ車で一時間の位置にある。当初はテレビ、ビデオの精密部品工場として出発し、現在は輸出用のビデオの部品加工から組立までの一貫体制をとっているが、最終完成は西条工場で行なっている。他にステレオのオートチェンジャーの生産も多い。
 同工場の占める比率を五七年工業統計から算出すると、大洲市の電機(含精密機械)の工場数は三であるが、従業員八八六名中、同社が八四五名(九五・四%)、製造品出荷額三〇九億円中、三〇四億円(九八・四%)と圧倒的な地位を占めており、これに関連下請企業を加えると電機のすべては同社関係とも言える。大洲市の製造品出荷額に占める電機の比率は約六〇%を占めており、正に大洲の製造業の中心である。従業員は五六年八六九名、五七年八四五名、五八年八一七名(同事業部人事課資料)と減少しているが、生産は五六年が三六五億円、五七年三〇四億円と輸出不振で減少したが、五八年には輸出の回復で四一四億円と急増し生産性の向上がうかがえる。
 生産体系は同社松山事業所と類似(地誌Ⅱ「中予編」P90参照)しており、本社工場―一次下請―二次下請―家庭内職というピラミッドを形成している。従業員は男子のみ二交替制のため寮があるが、女子は次の図2―17の如く通勤用の専用バスで約三〇〇名が通勤しており、これによって同工場の雇用範囲が推定できる。現在の従業員を市町村別(五八年三月現在)にみると、大洲市が五八四名で最も多く、内子町七六名、長浜町五三名、五十崎町五〇名、八幡浜市三六名、肱川町一五名、宇和町一六名、保内町一〇名となっている。
 次に、電機工業の特色として下請関連企業が多く立地する点であるが、大洲工場関係としては中予電器(保内町)、伊方電子産業(伊方町)、共進電器、武久通商(共に城辺町)など本地域以外に立地しているものが多く、地域内では和光電子産業(内子町)のみである。いずれも機械加工や部品組立が主である。これは元来、関連産業の未発達な地域への工場進出のため、地元労働力を求めての地方分散的立地になったためであろう。
 松下寿電子工業関連以外の電機工業としては、昭和四八年に立地した菱藤電機がある。同社は神戸から進出したもので、従業員一六〇名である。当初は電装品を生産していたが、現在は輸出用のカーステレオ、ホームステレオなどを生産している。
 次に電機と共に内陸部で大きなものは、内子町城廻にある(株)大岡製作所である。同社は大正一一年(一九二二)に東京で創業した古い企業である。生産品はタップやダイスなど精密切削工具で、内子町出身の創業者大岡吉邑が東京で生産を始めたが、戦時中の昭和一八年に郷里の内子町に疎開、移転して分工場としたのが発端である。さらに二〇年に東京工場を愛媛工場に併合して現在に至っている。優秀な技術で幅広い機械関係各工業とのつながりがあり、資本金三六〇〇万円、従業員一三〇名の中堅企業ながらユニークな存在となっている。

 長浜の臨海工業地域

 『長浜町郷土誌稿』(大正初斯編集)によれば、当時の長浜の工業は地元消費の酒造業、醤油などの醸造業、二、三の木ろう製造所、蒸汽動力による製材所、木造船の造船所などにすぎなかった。他に白滝に製糸業がかなり発達していた。昭和に入り、初期の恐慌時代には木造船、木材加工業は一時生産が減少したが、日中戦争、太平洋戦争とともに木材製品・木造船の需要が増大し、一時は九造船所を数えた。しかし技術者、施設の不足と資源の乱伐によって戦後後退した。羽田鉄工所の松山移転、岩村油脂の焼失なども停滞に拍車をかけた。三〇年に六町村の合併によって新しい長浜町が発足して以来本格的に企業誘致にのり出したが、クラボウアパレルやカルビー食品の進出をみた程度であった。
 四〇年代に入って、瀬戸内海西部における経済圏の流動環の中で大規模工業開発プロジェクトの拠点として開発されたのが長浜臨海工業地域である。瀬戸内海で大型船が容易に進入できる水路である豊後水道の喉頭部に位置し、瀬戸内海西部の経済圏域に分立する新産業都市や工業整備特別地域など臨海工業地帯と海上で直結できる有利な地点に位置する。また、気候条件や地震、埋立土砂、工業用水など立地条件もすぐれており、松山以西の臨海装置型工業適地として注目された。第一期工事として四七年に完成した晴海団地では現在三〇社余と企業が立地・操業している。(図2―18)造成工事完成直後に石油危機に直面し、企業誘致と立地決定企業のその後の展開に大きな影響が出た。表2―23は臨海工業地の概要と進出した主要企業であるが、特に核になる企業として進出した昭和電工(株)と、その合弁企業の昭和サボアが石油危機の不況によって、大幅に生産計画を縮少した影響が大きい。同社は昭和電工とフランスのペシネ社の合弁で四九年に創業し、当初は五〇%ずつの均等出資(資本金二六億円)であったが、不況のため昭和電工が後退して、現在ペシネ社九〇%、昭和電工一〇%の出資比率となっている。生産品目はアルミ精錬用陰極(九〇%)と高炉用耐火ブロック(一〇%)で、原料の無煙炭は全量ベトナムのホンゲイ炭を輸入している。従業員は地元中心の九七名で、これに関連企業が約一三〇名にのぼる。製造業従事者数が町全体で一一五〇名の長浜町にとって二〇%を占め、その比重は大きい。関連企業も地元の三共鉄工や新居浜から進出した三好鉄工などのメンテナンス部門をはじめ、運輸部門として荷造りの晴海工業や輸送の喜多運輸など六社を数える。長浜町の製造業は五〇年以来停滞しており、中心である昭和サボアの業績回復への期待は大きい。
 その他晴海団地進出の企業は、地元の木材とその関連加工業や、セメントと二次加工品工業など地域に密着したものが多い。立地企業数三二社、従業員五一八名は町の製造業の半分を占める。この臨海工業地の将来の方向として、総合エネルギー基地建設基本構想が五六年の町議会で可決された。この構想に沿って、総合エネルギー基地と、その他の関連施設等に必要な用地の造成と現在の港湾区域の大幅な拡張を行ない、公共埠頭、港湾センター、流通センターなどの整備拡充計画が進行している。

図2-17 松下寿電子工業大洲事業所の従業員バス運行路線略図

図2-17 松下寿電子工業大洲事業所の従業員バス運行路線略図


表2-23 第一次臨海工業開発事業

表2-23 第一次臨海工業開発事業


図2-18 晴海団地Ⅱ地企業配置図

図2-18 晴海団地Ⅱ地企業配置図