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愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)(昭和60年3月31日発行)

四 大洲盆地の蚕糸業


 大洲盆地における蚕糸業のはじまり

 愛媛県の蚕糸業については、すでに和銅四年(七一一)に元明天皇が桃文師を諸国に派遣し、伊予国ほか三〇国に錦綾を織らしたことが記されている。また、延暦一五年(七九六)の記録によれば、当時養蚕が行なわれていた国として伊予国ほか三四国があり、また織物を産出する国は伊予国ほか二五国があると記されている。
 大洲地方は伊予生糸の本場として古くから知られており、古文献によると天暦四年(九五〇)ころには東大寺の荘園から絹か献納されたことが示されている。このように各種の記録から、約一〇〇〇年も前から養蚕業が発生しており、かつ愛媛県における中心的な地方であったことがわかる。しかし、それ以後江戸時代までは特に大きな変化は見られない。『伊予蚕業沿革史』によれば、大洲藩主であった加藤泰幹は、養蚕業の有望なことを知り、藩の重臣であった石河孫左衛門と山本嘉兵衛(明治初年ころ大洲地区に養蚕業を奨励した山本尚徳のこと)の両名を先進地として知られていた甲州へ遣わした。両名は養蚕の巧者数名を雇い入れ、桑苗数千本を持ち帰った。これらの桑苗は、当時困窮状態にあった小田郷で栽培するほか、城下の希望者にも分かち与え、大いに養蚕業を振興したことが記されている。

 明治時代

 維新によって、それまで行なわれていた作物制限が徹廃されると、農村では急速に換金作物栽培が進展していった。大洲地方では、良質のまゆを生産することに自然条件が適しており、また桑栽培が洪水などの災害に対しても比較的強いため、養蚕業に対する関心は強かった。明治四年(一八七一)大洲県知事加藤泰秋は士族授産のために山本尚徳に命じて養蚕業を奨励させた。しかし、技術的に未熟であったため失敗する者が続出したと言われている。
 明治六年(一八七三)福井茂平と小川源兵衛らは子女を京都府安場村で養蚕製糸の技術を習わせ、大洲地方の製糸業を発展させようと努めた。同一〇年(一八七七)喜多郡大洲村の大橋有氏が備中笠岡において製糸技術を習得し、同村山根に一〇人繰りの機械製糸を営むようになった。明治一五年(一八八二)下井小太郎が喜多郡長に就任して以来、大洲を中心に養蚕製糸業は本格的に発展するようになった。下井が養蚕業に着目した理由は、大洲盆地が二~三年に一度は肱川の氾濫に見舞われるため、穀物栽培には適しないが、反面、氾濫は地力を回復し、桑栽培には適しているためであった。大洲地方における明治三九年(一九〇六)の桑栽培面積は三二二二反、収繭量は三万四二三六貫であったが、同四五年(一九一二)には栽培面積は六六二五反、収繭量は一〇万五一二○貫となっており、いずれも急速に増加していることがわかる。
 明治時代に始まった製糸工場は、二三年(一八九〇)に大洲町の河野・程野合名製糸場(三二釜、木鉄混合ケンネル式)、二四年(一八九一)に新谷村の松田角太郎による機械製糸(三〇釜)、二六年には大洲町の今岡製糸(七七釜、ケンネル式)が開設された。二七年には喜多村に㈱大洲製糸(五二釜、ケンネル三口式)、三二年には大洲町に河野真太郎のカ製糸場(七五釜、共撚式)と大洲村の喜多製糸場(七〇釜、共撚式)がそれぞれ開設された。三八年には河野製糸二本松工場(大洲製糸を買収)、三九年には菅田村に井関製糸(五一釜、共撚式)と滝川村の三友社(一〇〇釜、ケンネルニロ式)が開設された。四二年には平野村に城栄館(三〇釜、ケンネル三口式)、大洲村に玉城製糸(四〇釜、共撚式)、粟津村に亀岡製糸(七六釜、ケンネル三口式)がそれぞれ開設された。このころより製糸女工の労働時間が問題となりはじめ、夏季の一四時間労働を短縮するようにとの要望も出された。

 大正時代

 明治中期~後期にほぼ定着した養蚕製糸業は、大正四年(一九一五)ころまでは大きな変化なく推移していった。繭生産量は一一万八一四三貫(同四年)、桑栽培面積は六六四五反(同三年)であった。しかし、これ以後は第一次大戦による好景気に支えられ急速に発展していった。当時、繭の反当たり粗収入は米の約二倍、小麦の約五倍で、農作物をはるかに上回る収益をあげていた。また、繰糸女工の平均日給は六〇~七〇銭であり、一か月に二〇円程度の収入を得ていた。当時の米価は一俵が約五円であったのに対し、数年勤めた経験者は一か月に三〇円~三五円を得ていた。このため、製糸工場に就業しようとする子女が近在から大洲地方へ集まってきていた。
 大正一二年(一九二三)ころには、蚕種製造、養蚕、生糸製造の各部門において体系化が確立し、大洲地方はかつてない発展をみるようになった。『愛媛県誌稿』(大正六年)は喜多郡の養蚕業について次のように記している。

本郡は北宇和・東宇和両郡と共に県下に於ける三大養蚕郡たり。養蚕はよく本郡の気候・風土に適し近時著しく隆盛に向へり。大正二年に於ける桑園面積一千二百三町歩を超え、北宇和郡に次て広し。同年飼養戸数八千五百五十一戸、収繭高二万八千九百八十二石に上り本県第一の産額を占む、菅田(すげだ)村・大洲村を主産地とし、三善・粟津・天神・新谷・滝川・久米の各村之に次けり。

畑地総面積に対する桑園面積の割合は、大正五年(一九一六)では県平均が九・四%であるのに対し大洲地方では一四・〇%となっており、一五年には県平均一五・七%に対し大洲地方では二三・二%に達した。
 製糸業では、大正五年(一九一六)に機械製糸工場の数は二〇工場であったが、一二年には四〇工場となり、県下の機械製糸工場の三一%が大洲地方に集まっていた。このように工場数ばかりでなく、生産高も県下第一となり、蚕種製造者も一五人で県全体の四分の一以上を占めた。流通部門でも合理化を図るために喜多乾繭販売利用組合(足立儀国組合長)が設立され、政府の奨励を受け、乾繭施設などを建設した。同組合は組合員の委託を受けて、組合員が生産したものを販売することを目的としたものであった。組合の設立を契機として、それまで養蚕組合が設置されていなかった町村にも養蚕組合が設立され、すでに設立されてあった養蚕組合については町村を区域とする連合会を組織した。このような背景のもとで養蚕農家組織も整備されていった。

 昭和時代

 大正時代の養蚕製糸業は昭和時代に入っても継続され、昭和五年に頂点に達した。同年の養蚕農家数は六五〇二戸(県全体の一一%)、繭生産量は一六一一トン(同一四%)、桑園面積は二三九五ヘクタール(同一六%)であった。しかし、その後は経済界の恐慌と人造繊維の出現などによって生糸は大暴落し、養蚕製糸業は衰退を余儀なくされるようになった。大正八年(一九一九)には一貫目一二円台であった価格は、昭和五年秋蚕期には二円台以下の惨状となった。このため、政府は四年に糸価安定融資法を制定し、続いて七年には糸価安定融資担保生糸買収法及び糸価安定融資損失善後処理法を制定し、暴落防止に努めた。また、一二年には恒久的な措置として糸価安定施設法を制定した。しかし、同年日華事変が勃発するとともに戦時食糧増産体制に入ったため養蚕製糸業は減少し、大正一二年には二八を数えた大洲市内の製糸工場の多くも姿を消してしまった。
 戦後も食糧不足と海外市場の空白のために養蚕業の停滞は続いた。二四年の養蚕農家数はわずか一六四八戸、生産量二〇七トンとなり、昭和五年に比べると戸数は二五%になり、生産量は一三%に激減した。しかし、三〇年代の高度経済成長に伴う消費の拡大は、再び養蚕への関心を高め、四〇年には約三二〇トンにまで回復した。三四年に鹿野川ダムが完成して以来、桑栽培の主要部分を占めていた平坦地は収益性の高い蔬菜園芸の舞台となった。このため近年は桑栽培面積・生糸生産量とも減少しているが、県全体に占める割り合いはむしろ高まっている。五五年現在、戸数では県全体の二四%、生産量は同二三%、桑栽培面積は同三〇%に達している(表2―7)。
 小規模生産者が養蚕を中止したのに対し、専業的養蚕業者の桑栽培面積は急速に拡大している。三五年には一戸当たり二二aであったが、五七年には一戸当たり六三aになっており、マクビリ養蚕団地(構成戸数三戸)や峠養蚕団地(同五戸)のように三ヘクタール以上の桑園を有する大規模事業所もあらわれてきている。条桑育をはじめ機械化養蚕・多回育・稚蚕人工飼料育など技術進歩は目ざましく、省力化・合理化も著しく進んできている。
 大洲喜多国営農地総合開発事業によって造成される九〇団地(面積一〇一〇ヘクタール)のうち二三団地に桑を栽培し、六〇年には従来の桑園と合わせて五二六ヘクタール(繭生産量五〇〇トン)にすることが計画されている。
 地域別に桑栽培戸数及び繭生産量を見てみると(図2―8)、戸数では菅田(九二戸)が最も多く、次いで肱川(八二戸)、長浜(四八戸)となっている。また、繭生産量についても菅田(四七・六トン)が最も多く、次いで肱川(四四・三トン)、長浜(二四・一トン)となっている。三五年と比較して当時の二〇%以下になっている地域は大洲・平南・新谷・三善・内子・五十崎であり、河辺を除くその他の地域はすべて三〇~五〇%に減少している。生産量の減少は戸数の減少に比較して少ない。三五年の生産量と比較して五〇%以下になっているのは大洲・平南・内子・大瀬であり、最も減少しているのは内子で三五年の三八%である。三五年より増加しているのは大川(一〇五%)、長浜(一〇五%)、肱川(一二八%)、河辺(一五三%)である。大洲喜多国営農地総合開発事業などの影響もあり、全体として平坦部では減少し、山間部で増加している傾向が見られる。

 伊予蚕糸農業協同組合連合会

 「伊予生糸」の発祥地とされる大洲地方の蚕糸振興を図る目的で、昭和四六年に伊予生糸㈱が設立された。これは関係機関の協力を得て、養蚕(喜多養蚕連)と製糸(今岡製糸及び桝田製糸)を一体化するものであった。繭の生産拡大及び繭加工施設の整備により、五三年に、生産から加工販売にいたる一貫体系を確立し農業経営の安定と農家所得の増大を図るため、組織を改め伊予蚕糸農業協同組合連合会とした。五五年に新工場を建設したが、同工場の繭処理加工能力は年間四〇〇トン、生糸生産計画は年間七八トンである。現在八一一戸の養蚕農家が組合員となっている。

 愛媛県蚕業試験場

 明治四五年(一九一二)に愛媛県原蚕種製造所が大洲市中村に設置され、県内における養蚕指導が本格的に始まった。大正一二年(一九二三)に愛媛県蚕業試験場と改称し、以後六〇年にわたって研究及び指導を行なってきた。この間、湯山(松山市)原蚕種製造所(昭和一四~二七年)や明神(久万町)原蚕飼育所(昭和一四~三五年)を併設した時期もあった。試験場の周辺が市街地化してきたため、四六年に大洲市徳森に移転した。敷地面積四万八四一八㎡には近代設備を備えた各種の建物が建設され、試験・研究が行なわれている。また、周囲には三万七五八五㎡の試験桑園が分布しており、栽桑班による試験・研究も行なわれている。










表2-7 大洲市及び喜多郡の養蚕業の推移

表2-7 大洲市及び喜多郡の養蚕業の推移


図2-8 大洲市及び喜多郡の養蚕業

図2-8 大洲市及び喜多郡の養蚕業